「人さまに迷惑をかけるなら安楽死で逝きたい」…問題はどこにあるのか?

    橋田壽賀子さんの一論考で、日本でも安楽死を巡る議論が活発になっている。見落とされている問題はないのか? 欧米で取材を重ねたジャーナリストに聞いた。

    私は安楽死で逝きたい

    「安楽死」をめぐる議論が日本でも活発になっている。きっかけを作ったのは脚本家・橋田壽賀子さんの論考だ。

    2016年に『文藝春秋』に掲載された「私は安楽死で逝きたい」のなかで、橋田さんは安楽死への思いを書き、大きな反響を呼んだと本人も振り返っている。

    「人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです」

    「食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です」(文春オンライン「橋田壽賀子と安楽死#1『そろそろ、おさらばさせて下さい』という権利があってもいい」より)

    安楽死をめぐる日本の議論は、どう考えたからいいのか。安楽死が法制化されているヨーロッパを拠点に取材を続け、『安楽死を遂げるまで』を記したジャーナリストの宮下洋一さんに聞いた。

    安楽死を目の前で……

    スイス北西部の街・バーゼルの小さなアパートの一室でイギリス人、ドリス・ハーツが宮下さんの目の前で息を引き取った。

    彼女は本人の意志で安楽死を選んだ。スイスの自殺幇助団体「ライフサークル」の代表の医師・エリカ・プライシックが手はずを整え、彼女の「自死」を見守る。同書の冒頭シーンである。

    同書によると、安楽死を認めている国の法律には、概ね4つ条件が課せられているという。

    ①耐えられない痛みがある。

    ②回復の見込みがない。

    ③明確な意思表示ができる。

    ④治療の代替手段がない。

    ドリス・ハーツの事例もこれに当てはまっている。宮下さんはプライシックらと交渉を重ね、その現場を目撃した。

    《さっきまで生きていた人が安楽死を選び、目の前で亡くなっていく。そして、自分は直前に録音したインタビューを聞き返すという今までにない経験をしました。交渉には時間がかかりましたが、現場をみることができたのは良かったと思います。》

    何が日本で語られていないのか?

    安楽死をめぐる議論で、ヨーロッパと日本の違いはどこにあるのか。

    《「個人」の意思を重視するかどうかに違いがあらわれると思います。

    欧米の考え方では、あくまで自分で死に方を決めるという考えなんです。自分が死にたいと思ったから安楽死を選ぶ。自分の意思を重視するんですね。

    あくまで自分の物語がしっかりあって、それにあわせて死に方を決めるという考えです。

    家族に迷惑をかけたくないから「安楽死」を選びたいという考え方で代表されるように、日本では「迷惑をかけてはいけない」という価値観が強いと思うんです。

    日本で安楽死を導入すると、自分の意思よりも、家族の空気を重視して安楽死を選ぶという危惧はどうしても残る。だから、私は日本では安楽死を法制化すべきではないと考えています。

    個人の意思によって死ぬという欧米の考えと、自分より周囲を考える日本社会の価値観とは違うんです。

    欧米でも安楽死の濫用という論点は残っていて、反対派はそこを強調します。安楽死は死の自己決定を大事にしたきれいな死に方である、とは言い切れないんです。》

    安楽死は医療の発展を妨げるのか?

    宮下さん自身、取材を重ねながら、ある時は安楽死に賛成し、ある時は反対になった。最後まで、安楽死に対する考えは揺らいだ。

    アメリカの医師から言われた言葉が忘れられないという。同書より、彼のコメントを抜粋する。

    「糖尿病を例にとって考えてみましょう。この病は生活習慣病の延長線上にありますが、ひと度インシュリン投与を止めれば、即、余命半年程度に縮まってしまいます。そうすれば患者は末期として扱われ、たちまちオレゴンでは自殺幇助の対象となります」(『安楽死を遂げるまで』より)

    彼はさらに主張する。一昔前は不治の病といわれた病気でも医療が進歩し、治すことができるようになった病気もある。延命を諦めて、患者を安楽死をさせていいのか、と。

    《彼は安楽死という問題は法制化されているから、つまり法が存在しているから生まれるのだと言います。法によって人に「安楽死」という選択が与えられる。

    もし選択肢がなければ患者は考えなくてもいい。そして、安楽死という選択肢があることが、医療の発展を妨げているともいうのです。

    法制化の議論をめぐる上で、避けては通れないとても難しい問題です。》

    安楽死を巡る取材、答えは「わからない」

    2年間、安楽死をテーマに取材を繰り返し、辿り着いた答えは「わからない」だ。宮下さんは自分の中に2人の人格がいると語る。

    《私はヨーロッパに住んでいる年月が長い。そこでは個人の確立が求めれているし、自分の意見を主張しても尊重してもらえる社会です。

    もし、この先も欧米に住んでいて、パートナーに私が安楽死をしたいといったら、その人は認めると思う。私も末期だったら、安楽死を望む可能性はあると思います。

    でも、日本に帰ってきたとしたら、安楽死をしたいとは思わないんですね。

    日本では自分は一人だけの存在ではない、という意識を強く感じてしまう。自分ひとりの思いで、勝手に安楽死を選んで、周囲を悲しませるようなことはしたくないと思ってしまうんです。

    繰り返しになりますが、欧米の安楽死は自分の死に方は自分で決めるという思いから発展してきました。「自分勝手な個人」が前提になっている。

    「他人に迷惑をかけたくない」という思いが強い日本社会で、欧米的な価値観から生まれた安楽死を取り入れても整合性がとれないんですよね。

    だからこそ、日本では安楽死を法制化をするべきではないとは答えていますが、そもそも安楽死に賛成か反対かと聞かれても、わからないとしか答えられないんです。

    私自身、住む場所や家族によって、考え方が変わってくる。これだけ取材しても、答えがでてこないことが、安楽死なのだと思います。》

    最後は個人が決める問題

    だから、と宮下さんは言う。

    《死は千差万別で、その人なりの死生観があり、それを尊重すればいい。最後はその人自身が決めるテーマだと思うんです。》

    結局、安楽死という問題は安易に答えを出さずに考え続けていくしかない。

    《安楽死は残された家族がどう考えるかは鍵になる。この本の先が大事だと思うんです。このあと、家族に何が起きるかで安楽死の実態がみえてくるはずです。

    取材した自殺幇助を続けている医者、残された家族がどう思っているのか。もし、彼らの信念が揺らいでいたら……。そこを見続けていきたいのです。》