当事者だから語れない…… ある学者がどうしても言葉にできなかった原爆体験

    広島について、語られることがすべてなのか? 丸山眞男は8月6日に広島で被爆していた。しかし、原爆体験を語ることは少なかった。語れない「広島」はなにを意味するのだろうか。

    戦後を代表する論客が、その生涯を閉じるまで語れなかったことがある。広島の「原爆体験」だ。

    終戦直後に、日本の超国家主義を論理的に批判した丸山眞男(1996年に死去)。現代文の教科書にも取り上げられる、戦後日本を代表する政治学者である。

    議論闊達な論客としても知られていた丸山は、あの日、広島にいた。

    その目で原爆の惨状を見たにも関わらず、あの戦争については語っても、広島について語ることは最後までほとんどなかった。

    それはなぜなのか? 彼の言葉から「語りえない原爆体験」を想像することの意味がみえてくる。きょうは72回目の広島・原爆の日——。

    丸山はなぜ広島を語らなかったのか?

    おさえておきたい2つの事実と、1つの言葉がある。

    原爆投下の瞬間をその目で見て、被爆したにもかかわらず丸山は生涯、被爆者健康手帳の申請も交付もしていない。

    丸山は広島での体験を公の前で語ることに20年、1945年以降、再び広島を訪れるのに32年かかっている。

    そして広島について、こんな言葉を残した。1984年10月6日の発言である。

    「広島ってとこはね、被爆してない人が行って騒ぐところなんだ、あれは。ほんとに被爆した人間はとうてい行く気しない」(『自由について 七つの問答』)

    丸山は「被爆体験」ではなく「原爆体験」と呼んでいる(「二十四年目に語る被爆体験」『丸山眞男話文集1』より)。そして自ら進んで語ることはほとんどなかった。それはなぜなのか。

    まず、明確に指摘できることがある。丸山は広島を語ることを怖れていた。

    彼が原爆体験を語った貴重なインタビューがある。中国新聞の元記者、林立雄によるものだ。収録日は1969年8月3日、場所は肝炎のため入院していた国立がんセンターである。

    「僕は行きたいけど、怖くてね。怖いですよ」

    「(広島訪問は)何とも言えない嫌な感じもして。怖いとか。いろんな何とも言えない感じです」(「二十四年目に語る被爆体験」より)

    訪問を迫る林の質問を、丸山は繰り返し「怖い」という言葉を使って、拒んでいる。

    初めてー本人いわく「ほとんど初めて」—被爆体験を公に語ったのは戦後20年目にあたる、1965年8月15日のことだった。

    「二十世紀最大のパラドックス」と題された講演で、文章化されている。

    もっとも講演の冒頭部分で「その瞬間」を語っただけで、「この目で見た光景をお話する気にもなれません」と深入りすることは避けている。

    しかし、この講演で初めて丸山が「被爆」していた事実を知った人も多かったという。20年間、ほとんど沈黙してきたのだ。

    初めての訪問は1977年だった。国内各地を旅行し、海外も頻繁に行っていたのに、広島には32年間一度も行けなかった。

    「勇を鼓して」行ったのだ。

    その理由は本人も「正直なところ本当に分からない」(『丸山眞男話文集1』より「1950年前後の平和問題」)。広島を見ることを恐れる気持ち、見たいという気持ちがせめぎあってと告白している。

    一体、丸山は広島で何をみたのか?それをたどることで、なぜ語ること、行くことを避けたのかがわかる。

    丸山が広島でみた光景

    前出インタビューや講演をもとに辿る。

    軍隊生活を送っていた丸山は、広島市の南部に位置する宇品の陸軍船舶司令部に配属された。

    1945年8月6日午前8時、丸山は点呼と朝礼のため屋外にある司令部の塔の前にいた。

    訓話を聞いていた8時15分、目がくらむほどの閃光を彼は見る。参謀の軍帽が上へと飛び上がり、整列していたはずの軍隊は散り散りに走り出した。

    「悪魔の光」

    顔中泥だらけになり、逃げ込んだ壕から外にでたとき、丸山は初めてきのこ雲を見る。その雲自体は黒っぽい、しかし、つけ根は白銀色に輝いていたという。彼は、それを「悪魔の光」と呼んでいる。

    司令部から4〜5キロ離れたところに原爆は投下された。

    それだけ離れていても、司令部のガラスは割れ、食堂の炊事を担当していた女性は、顔を血だらけにして担架で運ばれていく。室内は書類が散乱し、ガラスの破片は部屋中に飛んでいた。

    顔中に包帯を巻いたある中佐は、丸山に「うーん、日本も、早くいい爆弾をつくるんだなあ」と話す。このとき、彼らはこれが原爆であったことを知らない。

    24年前を思い出し、言葉が途切れた……

    本人の証言では15分後くらいに司令部に市民が流れ込んできた。彼はその姿を見て「仰天している」。

    着物はぼろぼろ。女の人はパーマがめちゃくちゃになって、頭にガラスの破片がささっているものですから、血が垂れているのですね、顔にね。お岩ですよ。(「二十四年目に語る被爆体験」)

    着物はやぶけ、女性は毛布を体に巻きつけてやってくる。「ヨロヨロヨロ、ヨロヨロヨロ」と入ってきては、塔の前で倒れる。人は途切れることなくやってきて、広場はいっぱいになった。

    「海辺までずっと広場なんですけれども、ここがいっぱいになったのです、見る間に」。ここまで語った後、インタビューには(間)と書かれている。

    丸山はここで言葉に詰まっている。入院中であるにもかかわらず、覚悟を決めてインタビューに応じたにもかかわらず、あの日の光景を思い出し、丸山は言葉が続けられなくなった。

    (間)がどの程度続いたかはわからない。彼はこう続けている。

    それで、真夏でしょう。背中の皮が剥けているのに、上から太陽がさんさんと照りつける。うーん、うーんと唸っているのは、セミのね、セミの声といっちゃ悪いのですけれども、異様な声ですよ。

    人々の唸り声が「今でも耳に聞こえる」

    24年後であっても絶句する光景を目の当たりにしたあと、丸山は8月6日の記憶を失っている。

    8月9日に現場写真を撮る兵士と一緒に広島市内を歩き、自分の目で原爆被害を見る。そのとき撮影された写真もずっと手元に置いていたという。

    丸山が持っていた写真——。そこに写っているのは、外壁だけになった教会と葉がすべて吹き飛んだ木、テントの中で火傷の薬を塗る被爆者、崩れた欄干といった光景である。

    宇品でも民家は崩れ落ち、「忌中」の張り紙をはってある家だらけだった。

    広島市内で数え切れない死体をみた。司令部前の広場に横わった「何百という人の悲惨な唸り声」は「今でも耳に聞こえるよう」だという。

    念頭にないのか、あるいは意識の下に、それを無理に追い落とそうとしたのか(中略)あれだけ「戦争」については論じたのですけれども、「原爆」ということの持つ重たさというものを論じませんでした。(「二十四年目に語る被爆体験」)

    丸山がみた凄惨な光景は、戦争体験は論じられても、原爆体験は論じられないという経験になっている。

    丸山は自らを「被爆者」ではなく「路傍の石」と言った

    あまりにも凄惨な光景を目のまえにして、人は言葉も記憶も失う。丸山も例外ではなかった。彼は、林のインタビューのなかで原爆を単なる戦争の惨禍の1ページではないと言う。

    長期患者がいる現実、多くの人が白血病で亡くなっていくという現実をみて、「毎日原爆が落ちている」と表現している。

    広島は毎日起こりつつある現実で、毎日々々新しくわれわれに問題を突きつけている、と。(「二十四年目に語る被爆体験」)

    しかし、丸山は広島を安易に語ろうとはしなかった。「当事者」だからこそ、なにも語れなくなる。あまりに凄惨な現実を前にして言葉が続けられなくなったのだろう。

    これだけの体験をしても丸山は自分のことを「路傍の石」だと自認していた。「被爆者」ではなく、「至近距離からの傍観者」にすぎないと自らを位置付けていた。

    林が被爆者手帳を持っているのかと問い、丸山なら特別被爆者健康手帳が受けられると言っても、「広島で生活をしていた人間というよりも、至近距離にいた傍観者なんですからね」と理由をつけて、頑なに申請を拒んでいる。

    「被爆者ヅラをするのがいやだ」

    丸山は平和を語りながら、なぜ原爆に言及しないのかという広島市在住の開業医からの質問に、手紙でこう答えた(『IPSHU研究報告シリーズ25 丸山眞男と広島』より)。

    小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)は大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。

    なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪れることさえ避けます。(中略)被爆者ヅラをするのがいやで、今もって原爆手帖の交付も申請もしていません。

    一市民を相手にかなり激しい言葉で綴っている。ここから読み解けるのは、原爆を語らなかったのではなく、意識的に語らなかったということだ。

    被爆体験、と呼ばなかった理由もここから読み解ける。自分を「被爆者」だと言えなかったのだ。

    丸山は、彼よりも悲惨な経験をしている人をあれだけ見ている。広島でなにが起きたかも知っている。それを知りながら、自分は「被爆者」であると言えるのか。言えないのではないか、と。

    戦後24年が過ぎても、あの日の光景を思い出し、言葉に詰まってしまうだけの惨状を目の当たりにした。強い衝撃も受けている。

    だからこそ、多くの死者を前にして自らの体験を振りかざして、あの日の出来事を安易に論じることなどできないと丸山は思っていたのではないか。

    語れない経験を思うということ

    「路傍の石」「傍観者」が語る意味に、丸山は言及する。

    広島にしても、長崎にしても、これまで語られたことというのは、実際に起こったことの何千分の一、何十万分の一ほどだ、と思ってね。(「二十四年目に語る被爆体験」)

    あまりにも言葉にできない経験をしているため「語れない人」がいる。彼の想像力はそこに向いている。偽りのない実感だろう。

    「香典類は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上残った場合には、原爆被災者に、あるいは原爆被災者法の制定運動に寄付する」(『丸山眞男話文集1』より)

    1996年、原爆体験を語りきれないまま逝った丸山の遺志である。

    現在まで残された原爆体験の裏側には、丸山のような戦後を代表する知識人でさえ、言葉にできなかった人たちの経験がある。言葉にできないまま逝った人の存在がある。

    語られている原爆体験がすべてなのだろうか。

    残った言葉を表面的に受け取るだけでは「広島」も「長崎」もわからないままだ。その裏にある語りえない思い、言葉にできないことを想像することでしか接近できないことがある。

    丸山が広島を言及するのに費やした20年の月日、いくら語ろうとしても沈黙せざるをえなかった24年目のインタビューは、それを教えてくれる。