最高の「おじさん」伊丹十三
どうにも「おじさん」が気になる。100万部を超えるベストセラーになっているマンガ『君たちはどう生きるか』も「おじさん」の物語だった。
核になっているのは、主人公の少年コペル君とおじさんの関係性だ。コペル君の側で一緒に考え、新しい気づきを与える存在としての「おじさん」の存在感――。メンターとして位置付けたことがマンガ版の成功につながっている。
気になって「おじさん」を調べてみると、ある人物にたどり着いた。伊丹十三。
2017年、没後20年を迎えた映画監督にして、かつての名エッセイストである。昨年末に発売された、彼の単行本未収録のエッセイ集『ぼくの伯父さん』は増刷を重ねている。
なぜ、いま伊丹十三なのか。何かにつけ上から物を言って煙たがられる「オジさん」ではない、理想の「おじさん」像が見えてくる。
親の価値観に風穴を開けてくれる存在
伊丹十三と聞いて、すぐに思い浮かぶ有名な仕事は『マルサの女』などヒット作で知られる映画監督としてのそれだ。ところが彼にはもう一つ(いや、実際は一つだけではないのだが…)の顔がある。
若者を魅了した、一時代を代表するエッセイストとしての顔だ。伊丹さんにならって「おじさん」を定義しておこう。
「ぼくのおじさん」と題された彼のエッセイから要点を抜粋すると……
- 親の価値観に風穴をあけてくれる存在。例えば親が「男なら泣くな」と言うなら、「人間誰でも悲しければ泣いていい」と少年に語りかけてくれる。
- 遊び人で、無責任。でも本をたくさん読んでいて、若い僕の心をわかってくれる。
- おじさんと話した後は、世界が違った風に見えるようになる。
彼自身の存在がまさに、ここに書かれている「おじさん」だった。
1960年代にスパゲッティは「アルデンテ」
時代は高度経済成長期、1968年の日本である。
伊丹さんは、ゆでおきの喫茶店のナポリタンがイタリア料理だと思われていた時代に、スパゲッティのゆで方は「アルデンテ」でなければならない、と声を大にして語った。
大マジメにカシミヤやシェットランドのセーターこそ最高だと断言し、やたら詳しく自動車の正しい運転法についても綴る。
野暮を嫌い、個人の趣味嗜好を自信満々に押し出し、あくまで自分で勉強し、体験に沿って具体的かつ粋に綴るエッセイを世に送り出した。
「後にも先にもメンターは伊丹さんしかいない」
「その姿がなんとも魅力的だった」と語るのは名物編集者にして、小説家としても活躍する松家仁之さんだ。
松家さんは新潮社時代に、伊丹さんのエッセイを文庫で復刊させ、『ぼくの伯父さん』の編集も担当した。
《僕にとっては後にも先にも、メンターは伊丹さん以外にいないんです。
初めてエッセイを読んだときのインパクトはとても大きかった。こんなエッセイ、読んだことないと。今回の編集を通して、その新鮮な驚きがよみがえりました。
伊丹さんという人は、あらゆる物事を自分の目で見て、自分の頭で考える人でした。
大抵の人は手っ取り早くどこかから仕入れた知識を、ずっと前から知っていたかのように語って、やがてそのことすら忘れてしまう。
伊丹さんは自分で消化するまで語らないというスタンスが徹底しています。検証する時間を厭わないんですよ。不器用なくらい検証に検証を重ねて、それから書いた。文章にするまでに相当な元手と時間をかけている。
例えばプレーンオムレツの作り方をエッセイに書いています。
その頃、家ではオムレツや卵焼き作りに凝りに凝って、納得するものができるまで、毎日息子さんたちに食べさせていた。卵焼きを食べすぎてニキビができてしまった、と次男の万平さんに聞きました(笑)。
伊丹さんの場合、勉強と実践が必ずセットになっているんです。単なる知識で終わらない。実践につながる「勉強のプロ」。それが伊丹さんでした。
ある時はヨーロッパ文化、ある時は精神分析、子育て、フランス料理、ハリウッド映画の文法……。あらゆることを勉強して、消化して、文章やテレビ番組、映画にして世の中に送り出した。こんな人は他にはいないですよ。》
1本の映画のために監督が自ら徹底取材
伊丹十三が監督を務め、大ヒットした映画『マルサの女』でも「勉強のプロ」としての力は遺憾無く発揮されている。
映画のテーマにした国税庁と脱税者との戦いを描くために何をしたのか。
《国税局査察部、税務署の調査官の現役、OBに会って、徹底したインタビューを行っています。脱税する側のパチンコ、ラブホテル、闇金融の業者の脱税テクニックも取材する。もちろん税理士にも。
脱税と摘発の両サイドからの実際のエピソードを聞き出し、映画の骨格とディテールを組み立てたわけです。
伊丹さんは記録したことを捨てない人でしたから、いまでも当時の膨大なテープやテープおこし、ノートが残っています。一本の映画を作るのに、監督本人がここまで勉強するのか、と唖然とするしかない取材の量なんですよ。》
メディア人として伊丹十三
伊丹さんは稀代のメディア人でもあり、創成期のテレビにも深く関わった。テレビへの思いは深い。
同書のなかに収録された短いエッセイ「二人目の子」。昭和天皇のテレビ会見を見た伊丹さんは、テレビはジャーナリズムなのかという問いから、天皇制、次男に「万平」と名付けた思いまでギュッと詰め込んで論じている。
《昭和天皇のテレビ初の記者会見は、私にも忘れがたい記憶です。そこから見えてくるものはなにか。何が言えるのか。
つねに本質を見抜く人だったことを端的に示す、見事としか言いようのないエッセイです。唸るほかないですね。
伊丹さんは生まれたばかりのメディアだったテレビを舞台に、優れたドキュメンタリーをたくさん作りました。
テレビとはどのようなメディアなのかという問いを、つねにどこかで意識しながらの仕事だったと思います》
今ならきっとインターネットで……
深いテーマだが、小難しい伝え方はしないし、あくまで作品としての面白さを大事にした。
《文章でも映像でも伊丹さんの方法は同じです。まず伝えたいことがある。その本質をつかむ。その上で、こちらの伝えたいことを人はどうおもしろがって受け取ってくれるか、方法を考える。
素材を吟味して選び、調理して、どんな食器、食卓で食べてもらうか。この順番を間違えない人だったと思います。
伊丹さんが生きていたら、インターネットは面白がって使ったでしょうね。
テレビメディアを問うように、インターネットは何かを問いながら、自分の作品にしたでしょう。フェイクニュースもビットコインも、料理したにちがいない。》
もし憧れのメンターから「一緒に仕事をしよう」と言われたら……
松家さんは『ぼくの伯父さん』の編集作業をテーマに書いたエッセイのなかで、ひとつのエピソードを明かしている。新潮社の編集者時代のことである。
編集者と書き手という関係で付き合っていた伊丹さんから、伊丹プロに来てしてほしいと誘われた。
憧れのメンターに一緒に仕事をしようと誘われる経験は早々あるものではない。興奮と緊張で「よく考えて返事をします」と返すだけで精一杯だったという。
後日、松家さんは伊丹さんからの誘いを断る。編集者として面白い仕事が途切れることがなく、目の前の仕事に夢中になっていからだ。
やがて松家さんは品切れ状態になっていた伊丹エッセイを新潮文庫で復刊させ、いまに続く伊丹十三再評価の道を切り開いた。
《誘われたという話は、これまで書いたことがありませんでした。もう30年以上も前の話になってしまった。いまなら書いておいてもいいかなと思って。
伊丹さんが1997年に突然、亡くなってしまったとき、僕はお別れも言えなかった。それ以来、自分にできることがあるとしたら、伊丹さんのエッセイを、伊丹さんを知らない若い読者に読んでもらうことだと思うようになりました。
『ぼくの伯父さん』もただ未発表の作品を集めるだけにはしたくなかった。表紙や構成、段組は伊丹さんのエッセイ集への僕なりのオマージュなんですね。》
自分の背中を惜しげもなく見せる
松家さんは、伊丹さんのエッセイを読み返しながら「答えがそう簡単にはでないこと、その価値を教えてくれる文章」だと思ったという。
例えば1000円札になっている偉人伝の定番、野口英世の人生を取り上げた「ノグチヒデヨ・オン・TV」を読んでみる。
このエッセイでも徹底的に勉強して、借金を踏み倒し、散財を繰り返した「人間臭い」野口英世の一面を明らかにする。
伊丹さんは「お上」によって作られた偉人伝にでてくる「ノグチ」は彼の人生から都合の良い部分を切り取っただけだと喝破し、権威主義を粉砕したかったのだと書く。
「権威」への懐疑心は、彼の一貫した姿勢だ。ここに伊丹エッセイの時代を超えた価値がある。
人は「知らないこと」からこそ学ぶことができるんだ
《伊丹さんの文章を読むと、「答えを簡単に出すな。もっと調べたほうがいい。もっと考えなさい」って言われているような気持ちになります。
人は「知らないこと」からこそ学ぶことができるんだと、伊丹さんは全力で示してくれた。しかし専門家にはならない。そんな存在だったと思うのです。
権威主義にならず、考えている自分の背中は惜しみなく見せてしまう。そして、その姿勢がとにかく面白い。やっぱり、理想の「おじさん」なんですよね。》
それは巷にあふれるお手軽に成功方法を語ったり、勢いのいい言説を振り撒いたりする「自己啓発本」とは一線を画す、人生論だと言える。
簡単に答えがでる人生よりも、全力で考える人生を軽やかに、楽しそうに生きた伊丹十三は、今という時代にこそ必要な「おじさん」なのだ。伊丹さんにならって、堂々と断言してみたい。