骨太の哲学書が話題になっている。リードしているのは哲学者・東浩紀さんの『観光客の哲学』だ。何かと息苦しく、先行き不透明なこの時代に絶望しない哲学がここにある。鍵は「観光客」。そう、ふつうに観光を楽しむ人たちだ。
「哲学書の読者を変えたい」

刊行にあわせて東さんはこんな宣言をした。
「哲学書の読者を大きく変えたい。本来の市場を自己啓発書とスピリチュアル本に取られている」
「今まで哲学や思想なんて関係ないと思っていた人に読んでほしい」
東浩紀さん。1990年代後半、新世代の哲学者としてデビュー作が異例の売れ行きを記録し、一躍「時の人」になった。
その後のキャリアは華やかだが、かなり変わっている。
哲学や批評だけでなく、小説、人生論を交えたエッセイも書き、賞を次々と受賞する。
早稲田大に勤めたこともあったが、一転、自ら起業した出版社「ゲンロン」の社長に。
いまは批評誌の出版、トークイベントを主宰と多忙な日々を送る中小企業の社長兼哲学者だ。
そんな東さんが「今までで一番、自信がある」と送り出した一冊が『観光客の哲学』である。
言葉はあくまで平易で、専門用語を知らなくても読める。しかし、中身は今日的でありながら、議論の射程は歴史を捉えている。
「自分たちが良ければそれでいい」。本当にそれでいいのか?
テーマはこうだ。
「自分の国のことばかり考えているのではなく、自分たちとは違う存在(=他者)を大事にしましょう」というごもっともな話が通用しなくなって、「仲間うちだけが大事で、他者とは付き合いたくない」という声が力を持つ、この時代ートランプ米大統領の誕生は象徴的だー。
ほんとうにそれでいいのか?自分が良ければそれでいい、という理屈で人間として生きることができるのか。
根本から、あくまで論理的に問い直す。鍵を握っているのが、家族や友人と気楽な旅行を楽しむふつうの「観光客」である。
ちょっと突拍子もなく聞こえるだろうか? まずは哲学者の時代認識に耳を傾けてみよう。
東さんはこう語る。
哲学って、スケールが大きなテーマを問うことに意味があるんです。

世界とは何か、人間とは何か。人間が豊かに生きるとはどういうことなのか。
熱狂から距離を置いて、歴史的な視野をもって問いを考えないといけないんです。ところが、そんな本は一気に減ってしまいました。
今や、選挙に行こうとか、デモに参加しようというのが「哲学書」だと思われているんです。ほんとうはそうではない。
「他者を大事にしろ」が説得力を失った時代に……
僕は国会前デモからも距離を置いて、この間、考えてきました。それが「観光客」の可能性です。
リベラル=左派は、常に手を替え品を替え、他者を大事にしろと言い続けてきましたーここでいう「他者」というのは、移民や難民といった、自分たちの共同体の外にいる人たちが含まれますー。
いま、その言葉はどれだけの説得力を持っているでしょうか?
保守=右派を中心にして、それはうんざりだという勢力が強くなってきたのです。
トランプ大統領に代表されるポピュリズム、日本の排外主義者もそうですが、瞬間的な怒りや憎悪といった感情を、他者にぶつけていく力のほうが強いわけです。
僕からみると、彼らは非常に短絡的な発想で人々を動員している。
では、それに対して、リベラルの側はどう反応しているのか。
リベラル最大の武器は世の中を短絡的に考えないことにあったはずです。
本来リベラルは、保守派が単純な構図を持ってくることに対抗して、複雑な考えを発信していたのです。
今のリベラルは違います。ポピュリズムにはポピュリズムで対抗しようと、デモに集まって声を上げる。
これがすべて間違いだとは言いません。結集は時として必要です。
右と左から距離を置いて、別の可能性を開く

しかし、デモが最大の対抗手段だという考えが広まった結果、リベラルも保守と同じように単純なワンイシューで世の中を考えるようになってしまっています。
スケールの大きな問いを考えても短期的には何もできないんだから、行動こそが正解だ、というのが支配的な風潮になっている。
リベラルの武器であった複雑な思考を積み上げるという発想そのものがそぎ落とされてなくなったのです。
ワンイシューの競争では、シンプルな右派ポピュリズムには勝てません。
彼らに対抗した結果、多様性がそぎ落とされてしまっては、どんどん息苦しくなるだけです。
今の保守対リベラルという構図から距離を置いて、別の形で可能性があること。
この時代に人間として生きられる哲学があるということを示したいと思ったんです。
そこで登場するのが「観光客」である。
東さんの哲学に即していうと、特定の共同体にしか属さない「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもない。
自分の足場になる共同体があって別の共同体にも出かけていく「観光客」ーー。
例えば、海外に旅行したときのことを想像してみる。
普段は美術になんて興味ないのに、観光地にある有名美術館に行ってしまう。
普段は体を動かすことなんてないのに、土地を歩き回る現地ツアーに参加したり、リゾート地の海で泳いだりする。
そして、訪れた場所の文化や人々と接する。
現地の人(=村人)には当たり前のことでも、「観光客」がみると驚きがある。
ツアーには意外な楽しさがあるし、予期せぬ人との出会いも観光の魅力だ。
観光客は普段、自分が生活しているエリアの外にでかけていき、そこで普段と違うことを、さしたる必要性もないままにやってしまう。
ビジネスのことも考えず、世界中を行き来しながら、儲けよりも楽しみを優先する。
自分の楽しみだけでいったつもりで、予期しない可能性、偶然のコミュニケーションに開かれている存在になる。
それが観光客だ。
ここに新しい「哲学」の可能性が開かれている、というのが東さんの見方である。
予期しないコミュニケーションにこそ、時代を切り開くポイントがあるのだ、と。
グローバリズム対ナショナリズムの時代?
それは、なぜか。
「自分たちのことばかり考えていればいい」が主流になった、この時代の閉塞感を考えることでより鮮明になる。
いま世界はグローバリズムとナショナリズムの対立が起きていると指摘されている。大まかにまとめると、こんな指摘だ。
エリートや大企業は世界を自由に行き来して経済活動に励み、うまい具合に儲けを得る。
しかし、そうではない「取り残された人々」はグローバリズムの恩恵をうけることができない。
彼らは、グローバルに開かれることより、もっと自国民を考えろと政治に要求する。つまり、ナショナリストになる。
わかりやすいのは、これも2016年のアメリカ大統領選だろう。
グローバリズムの恩恵を受けている人たちがこぞって支持を表明したヒラリー・クリントン氏が、アメリカ・ファースト=ナショナリズムを訴えるトランプ氏に敗れた。
時代はナショナリズムに……という論調が目立つが、東さんは違うという。
問題はグローバリズムとナショナリズムが、それぞれに強まっているという二層構造にある。
「どっちも」が強い時代に……

少し、下世話な例えですが、こう考えています。いま、世界は上半身と下半身の2つに分かれている。
消費の欲望に忠実な下半身を経済、と言い換えていいでしょう。下半身の経済はグローバリズムに対応します。
例えば、世界中でスマホを使って、インターネットをやって、マックでハンバーガーを食べて、服も似たようなものを着ている。
経済は国境を簡単に超えて、消費という欲望は、世界を一つの社会にしているかのようです。
しかし、上半身は、日本やアメリカといった国民国家単位で動いて、ナショナリズムも厳然とある政治の世界です。
ナショナリストは、従来の保守やリベラルという立場は関係なく、友と敵、内と外で線を引き、国民国家なら「国民」を大事にしろという。
つまり、上半身を大事にしろといって、グローバリズムを否定しています。
右派も左派もグローバリズム批判
僕から見ると、日本では保守だけでなく、左派もナショナリズムに染まって、グローバリズムの弊害ばかりを訴えています。
彼らはグローバリズムから「自分たち」を守るために、内と外で線を引いて、内側にいる「同胞=友」を大事にしろと叫んでいる。
右派はそれにとどまらず、外側からくる移民や外国人を大事にするなら、内側にいる自分たちも同じように大事にせよ、という主張も強めている。
逆にグローバリズムを謳歌する人間は、あまりに計算高く、ビジネス的です。
僕も会社を経営しているからわかるんだけど、社会のなかで非合理的なリスクはつきものです。
そんなに先々の計算もできないはずなのに、なにかにつけ計画的で、予測をしっかり立てて、欲望を充足させようとしている。
僕はグローバリズム自体を悪者だとはまったく思っていないので、ナショナリズムに与したいとは考えていません。
でも、計算通りになり偶然性がないほうがいい、というのも違うと思っているのです。
グローバリズムや欲望を否定せず、欲望だけではない人間、その可能性を開くのが、観光客的な生き方なのだと僕は考えているんです。
「ふまじめ」な観光客は対立を超えるつながりをあっさりつくる
「観光客」はグローバリズムを謳歌し、国と国を行き来する。
観光はお金をつかって、その国で何かを買ったり、食べたりして消費する行為でもある。いうなれば、とても「ふまじめ」だ。
20世紀の政治思想家は、グローバリズムを否定し「ふまじめ」と戦ってきたと東さんは考える。
観光客なんて「まじめに生きる人間」ではなく、ただ欲望に忠実な「動物的」に生きている存在ではないかと思想家たちは考えてきた、と。
ほんとうにそうだろうか。実は、このふまじめさこそが「人間」の可能性を開き、豊かにしてきたのでないかと問う。
人間は確かに欲望に忠実である。だからこそ「ふまじめ」にふらふらと、内と外で引かれた線を越えて、別の場所に出かけていくーーつまり、観光に出かけていくーー。
その結果、「共同体の内側なら友、外なら敵」といった対立ではないつながりをあっさりとつくってしまう。
欲望を原動力に、人は移動し、国境を越えたネットワークをつくる。
だからこそ、結果として「自分たちだけが良ければいい」に閉じこもらない、文化や社会のダイナミズムを生み出してきた。
欲望にまみれた観光はくだらない、だからこそ可能性がある

欲望にまみれた観光なんてくだらない、と思想家は目を向けなかったんです。たしかにくだらないでしょう。
僕の論理構成は、人間は汚くて欲望にまみれているからこそ、友と敵を超えてつながっていけるんだ、というものです。
くだらないことを出発にして、人間は豊かさを生み出せるんだということです。くだらないからと観光客そのものを拒否したら、人間は人間でなくなるのです。
ナショナリズムの嵐が吹き荒れる時代でも、観光客はふまじめに出かけ、計算外に予期せぬ人たちと出会う。
予期しないコミュニケーションは、政治にもビジネスにも回収されない、新しい人のつながりをつくる可能性だ。
これが「観光客」が切り開く、新しい哲学である。
社会は偶然でできている、しかし必然ではないから変えられる
僕たちはたまたま、この時代、この世界に生まれてくる。人間は偶然から逃れることはできません。
保守は、人間の社会とは偶然に満ちていて、自然にできてくるから変えられないと考えています。
逆に左派は「偶然」や「自然」ではなく、社会は計画的に設計できると考えています。
僕は、人間の社会は確かにたまたまできあがったものであると考えている。
しかし、たまたまできたものだからこそ、大した意味はなく、いくらでも変えることができると考えるのです。
社会は偶然でできてはいるが、しかし必然ではない。
僕はこれがリアルな人間社会だと思っています。
そして、世界は「誤配」で満ちている
人間は生まれてくる世界を選ぶことはできないけれど、観光客として行き先を選ぶことができる。
東さんは観光客を例えて「郵便的」という言葉を使う。
哲学の言葉で「郵便」というのは、例えのひとつで現実の郵便とは違う。
郵便には間違って配達されてしまう「誤配」がつきものだ、と考えるところにポイントがある。
「人間はだいたい計算違いをするし、勘違いもする。何かメッセージを発信すれば、自分の意図通りに受け取られないこともしょっちゅうある」
「現実のコミュニケーションは『誤配』だらけです」
誤配に満ちた関係は、観光客だけではない。より身近な「家族」だって、誤配ばかりだ。
そこには誤配を擁護することでしか見えてこない可能性がある——。
「観光客、家族に宿るダイナミズムをもっと肯定的に捉えたい」

この本で、第2部を「家族の哲学」と位置づけています。家族と観光客はどこでつながるのか。
「家族」はいま右派の言葉です。
でも、これほど偶然に満ちて、かつ偶然に開かれた「共同体」もないわけです。
子供は親も時代も選べず、たまたま生まれてくる。
僕も父親ですが、実体験からいっても子供は予期せぬときに突然、僕の人生にやってきて、計算外のことをいっぱいもたらすわけです。
「家族」は柔軟な概念だ
家族というと右派は血統ばかりを大事にするけど、僕は家族はもっと柔軟で、拡張できる概念だと考えているんです。
例えばペットだって家族だといえば、多くの人がその通りだと思うでしょう。
映画『この世界の片隅に』では、原爆が投下された広島で、たまたま出会った孤児を主人公の夫婦が自分たちの「子供」として家族に迎え入れています。
性を問わずに好きな人と一緒に住む、あるいは疑似家族的なつながりだってある。
「お前は××人だから家族じゃない」なんて言わない。家族もあっさり、ナショナリズムを超えるんです。
「不平等」だから人は人を救える
ポイントは家族も観光客も不平等であることです。
孤児を救うときにたまたま迎え入れられる子供もいれば、出会わなかったがために迎え入れなかった孤児もいる。
観光客は帰国したあと、観光に行った先で災害が起きたら、寄付をしたいと思うかもしれない。
たまたま行っただけで、他の場所より強い思い入れを持つ。
平等に寄付をしなきゃ、と思ったら行動できないですよね。
平等を考えたら誰も救えないんです。
不平等であるがゆえに、偶然であるがゆえに人は人を救える、というのもまた現実であり、そこを考えていきたい。
観光客、家族に宿るダイナミズムをもっと肯定的に捉えたいんです。
自分たちの国だけが良ければいい、という人たちに観光や家族って大事だと思いませんか?と問いかけるというのが、僕の戦略です。
観光を楽しみ、家族と一緒に楽しく過ごしている人は多いのだから。
偶然の出会いから考えるということ
「観光客」も「家族」も偶然性に開かれることで「仲間さえ良ければ……」といった偏狭な考え方を突破していく。
問いかけは、2011年以降の社会にも向けられる。
「当事者か、それ以外か」が問われ、「デモに行って行動してから、何か言え」という声も公然とあがる。
当事者じゃないと、デモに行かないと、考えたことを発言できないのか。
そんな問いに「観光客」は、とにかくデモに行って「当事者として政治に関わろう」でもなく、「現実なんて変わらない」とただシニカルに嘆くのでもない別の道を示す。
ふらっと気になった場所に行って、その場で見えたもの、話を聞いた人から、偶然の出会いから何かを考える。
「観光客」という生きかたから、見えてくる世界がある。それを言葉にするのも哲学の仕事なのだ、と東さんは言う。

瞬間の動員だけが勝利じゃない
「大事なのは積み上げです。瞬間的に何十万人集めたといっても、それはある時に何百万儲けた、という話と同じです」
「それをどうするのか。積み上げ方を考えないと『だからなんですか?』となる」
瞬間的なものばかりが大事にされ、数年後にはあっという間に過去のものになる。そんな光景が繰り返されてきた。
「哲学は瞬間的なことよりも、考えを積み上げることで、世界に何か影響を与えていくんです。長い歴史の中で、積み上げが生きるときはやってくる」
「瞬間の動員だけが勝利じゃない。僕はそう確信しています」