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「私も家族と一緒にいたい」原発事故で壊れた家族。ひとり暮らす父の思い

「子供の成長が見たかった」

「僕だってきついですよ。子供の成長を見ることができなかった」

福島第一原発事故とそれをめぐる論争は家族関係にも影響を与えている。母と子供だけが父を残して避難する「母子避難」がその典型だ。残された父親は何を思い、この5年を過ごしてきたのか。一人の父親の生活に迫った。

「僕だってきついですよ。子供の成長を見ることができなかった。もう一度、一緒に暮らしたいですよ。でも、もうチャンスはないのかな…」

東京都内の居酒屋、40代の男性の口からこんな言葉が漏れた。震災から5年のこの冬、会社帰りの彼を食事に誘い、焼酎を片手に近況を聞いていた。

匿名を条件に取材に応じてくれた彼の名を、Tさんとしておく。Tさんは2011年の原発事故を機に家族と離れて暮らしている。2011年夏、妻と子供は西日本に引っ越した。原発事故による母子避難だ。

Tさんはいま、首都圏近郊のアパートに一人で暮らしている。朝は午前7時には家を出る。帰りは遅ければ午後10時過ぎ。食事は近所のスーパーで買った惣菜や外食で済ませる。一人暮らしにも慣れてきた、と思うが悔いは残る。

「会うたびに娘の体は大きくなって、言葉を覚える。その成長をそばで感じることができないですからね」

亀裂の原因になった「食の好み」

Tさんは福島県沿岸部の地方都市に生まれた。

「ちょうど学生の頃です。チェルノブイリ原発事故が起きて、反原発の声が高まっていました。私の生まれた場所の近くに、これだけの原発がある。違和感を覚えながら暮らしてきました。事故が起きたら、私たちもただではすまない。便利さばかりが伝えられるのはおかしいと思っていました」

「だけど、実際に事故が起きてみると、私が考えていた被害とはまったく別の形の『被害』があったのです」

大学卒業後、Tさんは福島市内に生活の拠点を構えた。2008年に結婚、翌年には子供が誕生した。新居は賃貸だったが、3LDKで家族が3人で住むには十分すぎるほどの広さだった。

土日は娘と遊び、義理の父は本格的な家庭菜園を作り、無農薬の野菜を育てていた。葉物野菜、根菜もまかなえ、食費の助けになった。

妻は、無農薬や有機農法、何かにつけ天然由来の食品を選んだ。主食は、玄米か精米を控えた白米。食の好みは違ったが、問題ないと思っていた。

「食事についての好みは誰でもあると思います。そこが違うだけだし、会社の同僚との飲み会に行ったときに好きなものを食べればいい。義父が作る野菜もおいしかったですし、些細な問題だと思っていました」

「そんな生活を送っていたのが、もうだいぶ昔のことのようです。原発事故以降は、野菜どころじゃなかったから…」

「妻は医療に対しても不信感を持ちやすいタイプでした。予防接種について『そこまで懐疑的になる必要はない』と議論したことがあります。自然志向で、友人にも同じような好みの人がいました。普段の生活なら、許せる範囲かなと思っていました」

原発事故後、家族間に亀裂が生じたのは「好みの違い」からだった。

3月11日 避難生活が始まった

2011年3月11日、東京に出張していたTさんは大きな揺れを感じた。三陸沖が震源で、宮城県内で震度7の地震が観測されたことを伝える速報メールが次々と届く。

「何か想像を絶する事態になっている」。職場の同僚とワンセグでテレビを見た。次々と流れてきた津波、被災地の映像を今でも鮮明に覚えている。

「現実とは思えず、本当に夢をみているような気分でした。なんとかその日のうちに福島に帰れるようレンタカーを手配することも可能でしたが、沿岸部に住む家族は幸い、海から離れていた場所に家があったため、地震の被害だけでした。妻とも連絡がつき、娘も無事とのことでした。私は東京に残り、交通状況が落ち着いてから帰ることにしたんです」

その決断の直後に起きたのが、原発事故だった。自宅がある福島市の放射線量は、その時、上昇した。刻一刻と変わる状況の中で、妻は避難を選択した。

「娘のためというのが、まず第一でした。妻の周囲には、同じような食の好みや健康志向でつながっていた母親仲間がいます。彼女たちは当初から沖縄に避難すると言っていました。子供のためなら避難しかない、と。その影響があったと思います。沖縄はさすがに誰も知り合いがいないし、受け入れるという話もなかった。だから妻はまず、関東地方へ避難したんです」

原発事故発生から約1週間後、Tさんは関東地方に避難した妻子と入れ替わるように福島に戻った。妻子のいない家。「確かに事故がどうなるかわからないし、娘のためなら、一時的な避難はやむを得ない」と考えた。当時は、妻も「一時的なもので、また一緒に暮らす」と言っていた。

母子は関西へ 家の荷物が無くなっていく

しかし、避難は長期化する。2011年7月、妻は関西への移住を決める。理由はやはり「子供のため」。一人で福島市内に住み続け、仕事をしていたTさんの家から荷物が徐々になくなっていった。

ある日、仕事から帰ると鍋や包丁がきれいになくなっていた。Tさんが仕事で留守にしているあいだ、妻が持ち出していたのだが、連絡が入ることはなかった。見慣れたはずの部屋だったが、まるで新しい部屋に越してきたような錯覚を覚えた。

避難は長期化する

「連絡するだけの精神的な余裕がなかったのかな、といまでは考えています。関西には避難者を積極的に支援する『仲間』もいました。妻と価値観が近いのでしょう。もちろん、支援それ自体はありがたいことです」

「でも、彼らの中には『本当は東京も人が住めない汚染レベル』だとか『福島の子供たちは避難ができず、かわいそうだ』という考えの人がいました。はじめは福島県外でも東北なら住める、と言っていた妻もだんだんと考えが変わっていきました」

「妻子の避難は一時的だと思っていた私は、避難が長期化するにつれ、福島に住むことをあきらめ、家を引き払いました。震災から1年〜2年の間はたまに妻と娘が福島に戻ることもあったのですが、『水が危なくて飲めない』『外には出せない』といい、関西で買った食材で調理をして、ずっと部屋にいたままでした。私は普通に住めるとレベルだと判断していましたが、妻にとっては違う。放射性物質をどうとらえるか、ここまで考えが違うなら、あきらめるしかないんです」

「私は幸い、これまでのつながりで都内に仕事があったためで、首都圏に引っ越すこともできました。福島から関西に行くのは大変だけど、東京近郊なら新幹線で一本です。関西はなんの縁もなく、仕事探しも難しいです。首都圏なら、もしかしたら一緒に住めるという期待もあったんです」

「自分の存在はなんなのだろう」自問自答が続く

その頃、妻は周囲の支援を受け、関西地方で原発反対を訴えるデモ、自主避難支援を求める活動にも参加していくようになる。子供と過ごす時間が減ったとこぼすこともあった。福島より首都圏のほうがいくらか関西に近いと言っても、仕事との兼ね合いもあり、Tさんが関西に行けるのは年に3回〜4回程度だった。1回につき2〜3泊したが、子供と過ごす時間は足りない。

これが本当に子供のためなのだろうか。家族にとって、自分の存在はなんのだろう。お金を仕送りするだけの存在なのだろうか。自問自答する時間が増えた。

「社会的な活動自体はなんの問題もないし、尊重したいと思っています。ただ、娘のために避難しているのに、なんで娘と過ごす時間を減らすのかと言い合いになったことがありました」

「私だって家族と一緒に過ごしたい」

「私だって家族と一緒に過ごしたい。避難を始めたばかりのころ、本当に小さかった娘がだんだん大きくなって、『パパ』って言ってくれるようになって、次に行くと言葉を交わせるようになって、次はおしゃべりができるようになって……。どんどん成長している。その時間を一緒に過ごせなかったことがとても悲しいんです」

震災から3年を迎えるころだった。徐々にではあったが、妻と落ち着いて話ができる時間も増えてきた。周囲には避難生活に見切りをつけて、福島に戻るという家族もでてきた。妻からこんな言葉が漏れた。

「福島でも無農薬で野菜作っている人もいるんだよね」「私は住めないと思っているけど、帰る人や住む人は否定しないよ」

「ずっと『せめて、首都圏で暮らせないか』と提案していました。やっと周囲のことに気遣うような言葉がでてきた。今なら妥協点を探りあえると思ったのです。でも、ダメでした」

「私が帰ってから、周囲にいた仲間たちは妻にこう言ったそうです。『あなたの夫は国の役人と同じことを言っている。一緒に暮らす必要はない』」

追い討ちをかけた「美味しんぼ」騒動

追い討ちをかけたのが2014年に起きた漫画『美味しんぼ』を巡る騒動だった。作中に「福島に人が住めない」と強調するくだりがあった。Tさんにとって重要だったのは、漫画の描写が科学的知見に基づいているか否かではない。修復する兆しもあった亀裂が、より広がってしまうことだった。

「食べ物にも気を使うタイプなので、他の人より影響を受けやすい状態にあったと思います。あの騒動以降、妻は『福島は危ない。首都圏はもってのほか。東日本には住めない』という考え方に固まっていきました。はじめは食の好みの違いなんて些細なことだと思っていましたが、いまはどう折り合いをつけていけばいいのか。正直わかりません。これが、原発事故なんですね」

家族の周囲には妻の考えを肯定する人しかいない中で、Tさんは孤立を深めていった。美味しんぼ騒動を機に、それまで以上に情報を集めるようになった。

「いま、本当に首都圏に住めないのか。立場を一つに決めずに、いろんな方の話を聞きました。聞いたのは科学者や医者に限りません。福島を取材している作家の方もいました。福島県内で内部被曝調査に関わっている人、放射線について基礎的な解説をしている人、反原発の立場を鮮明にしている人もいました」

事故から5年 娘は避難先の小学校に進学した

「聞いてみて思いましたが、いま福島県内でも、首都圏でも住めない理由はないのです。あとは個々人の考え方であり、リスクをどう捉えるか。どこに落としどころを見つけるかの問題だと思います。でも、あるはずだと思っていた妻との妥協点を、いま私は見つけることができないのです」

関西に行ったときに、「福島市でも放射線量はだいぶ下がったし、心配していた内部被曝も低く抑えられているという結果もあるよ」と妻に伝えた。Tさんは娘の小学校進学が一つの節目だと捉えていた。震災から4年を迎えるタイミングで、首都圏で同居できないかと期待を持って伝えたが、声は届かなかった。

「福島に住めるとか、戻るといった話は妻や活動に対する侮辱だと思われたようです。ちゃんと会話することもできませんでした」

避難生活が始まったばかりの頃、歩くことすらままならなかった娘は避難先の小学校に進学した。福島に関するあらゆる話題が、そのまま家族内の火種になる。事故から5年を迎えるが、Tさんの日常に変化はない。

Tさんは苦笑しながら、つぶやく。「いまでは『子供のことを考えたら離婚はしないほうがいいから、当分、このままでいいじゃない』って言われています」

壊れる家族 「やっぱり苦しいな」

午後10時過ぎ、Tさんは電車に揺られ、きょうも一人、家路につく。朝になればまた仕事が待っている。

別れ際、Tさんはこう言った。

「データには出てこないけれど、原発事故で壊れた家庭はあるでしょう。少なくとも、私にとって原発事故、そして、事故後の論争は、家族の間にあった小さな違いが、亀裂になって、やがてヒビが入り、家族関係が壊れていく。そんなイメージです」

「世間では母子避難は理解してくれても、残っている父親は苦しいって思われているのかな。私はやっぱり苦しいな。こういう人もいるんですよって誰かにわかってほしいのです……」

CORRECTION

「被曝」とすべきところを「被爆」と誤って記述している箇所がありました。訂正いたします。