3月11日とツイッター 福島を発信してきた科学者「最後の講義」

    2011年3月11日から、ツイッターでの発信が注目を集めた東京大・早野龍五教授が東大を定年退職する。最後の講義で語られた、科学者として福島に向き合う意味。

    2017年3月15日、東京大学・本郷キャンパス。

    ここに集まった人たちの顔ぶれが、物理学者・早野龍五さん(65歳)の科学者としての歩みを象徴していた。

    物理学の研究仲間だけでなく、一般の聴衆たちが席を埋める。なにより、福島で生活を送っている人たちも駆けつけた。

    2つの顔?

    最終講義のタイトルは「CERNと20年福島と6年 - 311号室を去るにあたって」

    311号室は、早野さんの研究室の番号だ。

    本業の物理学者としての顔と、ツイッターで発信を続けた顔。両方の話を聞いたことがある人はこのなかでほとんどいないだろう、と講義は始まった。

    本業の顔は、一大拠点・CERN(欧州合同素粒子原子核研究機構)の研究チームを率いる研究者として。

    これがタイトル前段の20年だ。

    もう一つは2011年3月11日以降、原発事故の情報が錯綜するなかで、ツイッターでひたすら事実を分析して、発信をやめなかった科学者として。

    これは後段の6年にあたる。

    一見すると2つの顔があるようにみえるが、それは違う。語られたのは、一貫して「科学者」として生きてきた、ということだった。

    講義の中盤、早野さんが語った一つの言葉が軸になっていた。

    「アマチュアの心で始めて、プロの仕事でまとめる」

    駆け出し時代、アメリカやカナダの研究施設での活動を通じて学んだ原点だ。

    研究者たるもの、大事なのは人がやらないことをやること。

    人がやらないことをやりはじめた人は、誰もが最初は「知らないことをやっている」アマチュアだ。やがてプロになっていく。

    アマチュアの心で始めて、プロの仕事でまとめる。それが研究の面白いところなのだ。そして、と早野さんは続ける。

    「『楽しそう』にやること。決して、研究は楽しいだけではないんです。でも、長く続けていくには、それがとても大事なこと」

    どの分野であってもプロの仕事は楽しくないことだって多い。でも、だからといって苦しそうにやってもしかたないということだろう。

    若き日に学び取った科学者としての姿勢。そこに、福島での実践で大事だったポイントがすべて詰まっている。

    ツイッターがつなげた福島との縁

    【参考】1974年に中国が大気圏核実験を行い,東京に雨とともに放射性物資が降った.学生だった私はガイガーカウンターで人々の頭髪や衣服などを測定.その数値は,福島の病院で被曝された方々と同程度以上,都民の多くが被爆したはずだが,それによる健康被害は現在にいたるまで報告されていない.

    早野さんが福島に関わるきっかけになったのはツイッターだ。

    注目された、例えばこんなツイートを境に、それまで3000人程度だったフォロワーは約15万人にまで増えた。

    東大本部から「黙れ」と言われたというが、それでもやめない。この頃は、自宅の食卓でもパソコンを広げ、じっと画面と向き合っていたという。

    早野さんも当初は、しばらくすればプロがでてきて、自分から発信を代わってくれるだろうと思っていた。

    でも、現実は知っての通り。この6年は早野さん自身が素人からプロになっていく6年でもあった。

    原点にあった「アマチュアの心で始めて、プロの仕事で仕上げる」を実践するかのように。

    およそ専門分野ではない、原発事故以降の問題に関わり続けることに葛藤もあった、と語っていた。

    決断した大きな理由は年齢だ。

    当時59歳。もし49歳だったら、物理学の世界でもうひと仕事成し遂げることを目指していただろう。

    しかし、キャリアも積んで、ほぼ「役に立たない研究」に税金を費やしてもらった。ならば納税者に還元する時ではないか。

    そう思ったという。

    早野さんに注目したプロたち

    あの混乱期、早野さんのツイッターに注目していたのはプロも同じだった。

    2011年8月になると、計測したデータの信憑性に疑問が残るホールボディカウンター(内部被曝を検査する機器)がある、と福島の医師から相談のメールが入る。

    他の医師からもデータ解析などについて、早野さんに相談がくるようになった。

    集まるデータを見ながら早野さんは、科学者として「僕ならできる」仕事があると気づく。

    データや事実を俯瞰的にみることであり、それをもとに英文の査読付き論文を書いて、世界中に発信することだ。

    早野さんは、それ自体は「福島でなくても研究者はみんなやっていることだ」とも語った。

    CERNの20年も、福島の6年も科学者として地続きである。

    あくまで、福島でも科学者として人がやっていないことをやろうとしていた、と。

    「自信を持って『はい。ちゃんと産めますよ』と答えます。躊躇しないで。間髪入れずに。」

    この6年、早野さんは福島で事実を淡々と積み上げた。

    子供向けのホールボディカウンターを開発して、検査する。これまで約1万人が検査したが、誰からも放射性セシウムが検出されなかったこと。

    福島の高校生の外部被ばく線量をフランスやベラルーシの高校生と比較する。他国と比べて福島が高い、という結果はでなかったこと。

    英文の査読付き論文として発表した成果は、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)のレポートにも引用された。

    これから発表される論文も残っている。

    早野さんが積み上げたデータから、断言できることも増えてきた。

    例えば、福島で生活する子供たちが、将来、子供を産めるかどうか不安に思うようなデータは何一つでていないということ。

    だから、早野さんは「私は子供を産めるんですか?」という質問にこう答える。

    「まずは、自信を持って『はい。ちゃんと産めますよ』と答えます。躊躇しないで。間髪入れずに。」(『知ろうとすること。』(新潮文庫)より)

    「学問の自由」と経済的な自由

    早野さんは、自分の活動は思いだけではできなかったと振り返った。

    2つの自由が必要だった、という。ここで一拍、間をとって続ける。

    「まずは『学問の自由』です」

    「東大にいて、CERNの研究をやっている教授が、福島でも(研究を)好き勝手やってもよい、とそういうことです」

    でも、これだけでは十分じゃない。

    活動には経済的な自由も必要だ。

    ポケットマネーで南相馬市の給食を計測すると言ったとき、ツイッターのフォロワーは早野さんの活動を支援しようと寄付をはじめた。

    集まった寄付は総額約2200万円。福島の研究活動はすべてここからまかなわれた。

    自由な研究活動を支えたのは、フォロワーだった。

    ツイッターらしいつながり

    ツイッターの発信が賛同者を生み、応援し活動を支えていく。

    その結果が論文として、言論活動として、より多くの人に事実が届く力になっていく。

    もっともポジティブでツイッターらしいつながりが、そこにあった。

    早野さんがこの6年で積み上げたのは、学術的な成果だけではない。人と人が有機的につながるということ。

    その力も示していた。

    ある人は晴れの日だからと、いわき市の小さな集落から感謝の気持ちを伝えようと樽酒をかついできた。

    早野さんと論文を共著した福島高校の卒業生は、この日、ひとりの理系学生として席に座っていた。

    真面目な学術談義だけでなく、どこかにユーモアを忘れずに。あくまで「楽しそうに」。

    軽やかな口調で、約90分間の講義を終えた早野さんに、聴衆は敬意を払いながら、大きな拍手を贈るのだった。