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【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと

原発事故のあと大きな問題になったデマや間違った情報。科学的に確かな専門家の声は届かず、怪しげな話が残りつづけるのはなぜか?

「福島県産の食品は実は危ない」「放射能がうつる」。原発事故から6年が経とうというのに、根拠のないデマはあとをたたない。なぜ起きるのか。専門家と住民のコミュニケーションのズレにその一因がある。

専門家と住民 ズレるコミュニケーションの先に……

リスクの伝え方を研究し、食品企業のコンサルティングなどを手がけてきた西澤真理子さん(48歳)はズレを経験した専門家のひとりだ。

2011年9月、福島県飯舘村から「放射線リスクをどう村民に伝えたらいいか」のアドバイザーを務めてほしいと依頼された。

西澤さんが主催し、放射線の専門家と住民の少人数の対話集会を開いた。

福島市内にできた仮設住宅の一角。専門家は、飯舘村が直面している放射性物質のリスクについて、住民を素人扱いせず熱心に、かつわかりやすく話した。

放射性物質は事故前に日常的に食べていたもの、例えばバナナやポテトチップスなどにも含まれていること。食品で気になることがあるなら、それらと比較して判断すればよいこと。

水道水をつかってもいいし、この時点で過剰に健康リスクを心配する必要がないことも伝えていた。

子供がいる世帯には関心が高いだろうと考え、広島や長崎の被爆者を対象にした研究成果も取り上げた。遺伝を心配するような被ばくはしていない、と強調するためだ。

「放射能のはなし、難しくておぼえてない」

対話は活発だったし、なにより、参加者は熱心にメモをとっていた。

集会が終わった後、西澤さんと専門家は「これは成功だ。他の仮設住宅でもやるべきだ」と話していた。

ところが2012年1月末、集会に参加した住民の感想を聞いて、西澤さんは愕然とする。

「先生、この前の話、全然おぼえてない」と子育て世代の女性は話しはじめた。

「バナナにも(放射性物質が)あるって言っていたから、娘にバナナ食べさせるのやめたんだ」

比較のために、バナナの事例を出したが、バナナを食べないようにという話はしていない。西澤さんはもう一度、女性に尋ねる。

「えー。あれだけメモとってたじゃないですか」

「うん、でもあとはラドン温泉の話くらいしか覚えていない」

「そうですか……。わからなかったこと、次に聞きたいことあります?」

「先生、放射能の話は難しいんだよね。なにを質問していいのか、わからないんですよ」

専門家としては、住民の関心にあわせてわかりやすく説明したつもりだったが、住民は覚えていない。

問題は住民の理解力?

問題はどこにあるのか?

専門家が懇切丁寧に説明したのに、それを理解できない住民の理解力が足りないということか。

逆に、住民の理解力にあわせられない専門家がダメということか。

そのいずれでもない、と西澤さんは考える。自分たちが説明したいことと、彼女たちが知りたいこと、受け止めてほしい感情にズレがある。

専門家は、科学的なリスクの考え方に基づいて住民に説明した。それは好ましくないことが起きる可能性を論じたものだった。

しかし、彼女たちにとっての「可能性」の受け止め方は、専門家のそれとは大きく異なっている。

例えば、専門家が他のリスクと比較して「かなり低い」と話しても、それは安心の材料にはならない。「どんなに低くても確率が残っている以上、嫌なものは嫌だ……」となる。

ただ、そこに住んでいたというだけで、避難をしろといわれ、生活を変えないといけない。

「科学的な結論はわかったけど、どうせ科学者はここで生活するわけじゃない。理不尽な被害を受けるのは、住んでいる自分たちだ」という気持ちが彼女たちに残っている。

専門家と行政への不信感

西澤さん自身の言葉で、ズレが生じた理由を分析してもらおう。


いま思えば、当然のことですよね。

リスクは、科学的な観点からだけでなく、社会的な観点や、個々人の受け取り方という観点からも論じないといけない。

科学的な説明で納得できる人はいいけど、人の納得の仕方はそれぞれの状況でまったく異なる。

対話に参加してくれた人たちのなかでも、住民対象の説明会に参加して、専門家の説明を聞いた人は多かった。

そこでも散々、科学的な説明はあるんです。彼らは「専門家はどうせ、また村は安全っていうんでしょ」と思っているんです。

事故が起きてから、飯舘村が計画的避難区域に指定されるまでだいたい1カ月。人によっては、避難するまで、村に住み続けたことを強く後悔しています。

私がやった対面のインタビュー調査で、あがってきたのはこんな声です。

  • 「あのとき、孫を遊ばせた雪のなかにたくさん放射能がついていたんじゃないか」
  • 「避難前に外で遊ばせていた。もし将来なにかあったら、それは私の責任だ」
  • 「小さな子供たちは、自分は結婚できない、結婚しても子供ができないと考えている」

この不安に対して、専門家は「科学的には、この程度の放射性物質で影響はありません」「広島、長崎の研究を踏まえれば〜」と説明する。

これは科学的には正しい。でも、コミュニケーションとしては失敗しています。

彼女たちが求めていたのは、知識ではなく、まず自分がしてしまったことを受け止めてほしいということ。

自分が悩んでいることであり、知識を聞いてもどうしても消えない不安がある、と知ってほしかったんですね。

ここからズレているんです。


西澤さんは、原発事故後の対応では、行政だけでなく専門家も不信感を持たれた、と考えている。

インタビュー調査にある住民の声が「不信感」を象徴している。

「子供がいる世帯は避難したほうがいい、ともっと早く言ってほしかったのに、(2011年4月上旬に)質問しても『年間被ばく量がどうだこうだ』とか難しいことばかり言われて、答えてもらえなかった」

「大丈夫、大丈夫という科学者の声を信じてきたけど、結局、避難することになった。それなら、逆に事態が深刻です、という人のほうが信用できる。(講演会にいっても)どうせ安全というに決まっている」

いちど失った信頼は、容易には取り戻せない。


専門家は難しいことを言って「大丈夫」だという答えを押しつけようとしている、と感じている住民もいました。

いまなら、このときに必要だったのは、もう少し親身になって考えることだったと言えます。

自分が子供と一緒に住んでいたら、どんな情報をもとに、どうリスクを判断するかという話をする。

でも、それは正解ではなく、いろんな選択肢どれもが個々人にとって正解なのだ、という姿勢も大事だと言うこともできる。

私たちは十分にできなかったけど、うまくコミュニケーションがとれた科学者もいました。しかし、その数は足りなかった。


「科学的に正しいから、でみんなが納得するとは限らないんですよね」

福島に関してもっともコミュニケーションに成功した専門家は、おそらく東京大の物理学者、早野龍五さんだろう。

早野さんは私の取材にこう語っていた

「科学的に正しいから、でみんなが納得するとは限らないんですよね」

早野さんは頻繁に福島に足を運び、住民とのコミュニケーションの意義を体感的に知っていた。

ずれるコミュニケーションはデマにつながる

「住民が聞きたいことを引き出し、専門家が伝えたいこととすり合わせること。聞きたいことと、専門家が伝えたいことのミスマッチを可能な限り減らす場をつくること」

これが西澤さんの教訓だ。そして、ミスマッチを放置してはいけないのは、いまだ福島を巡って繰り返されるニセ科学やデマの素地になっているからだ、と指摘する。

人はどうしても、自分の仮説や信念に都合のいい情報ばかり集めてしまうバイアスがかかってしまう。

前述したように、いちど専門家に不信感を持ってしまったら、人はどんな情報を集めるようになるか。

「事態が深刻だという人」の声を集め続けることになるだろう。

不安につけ込むように、インターネット上に大量に、危険を訴えるデマや誤情報も入ってくる。例えば「福島県産食品は実は危ない。子供たちに食べさせてはいけないのだ」。

福島県産食品のデータを調べれば簡単に否定できる情報だが、よかれと思って善意から忠告する人もいる。

善意からうまれる「危険論」

「科学的には正しいけど、結論を押しつけられて終わる。それなら『優しくて、温かいコミュニケーション』がとれるニセ科学、デマのほうが自分にマッチしているという人は残り続けます」

誤った言説を批判し、事実を示し続けることは必要。しかし、そこから先にも考えるべき問題は残っている。

「人の判断基準って、言っている内容以前の問題で、どうしても論理よりも感情が優先する。それは仕方ないんです。だから、コミュニケーションというフレームが必要になるんです」

災害が頻発し、原発事故まで起きたのに、科学的事実を踏まえてコミュニケーションを担える人材も、専門家と住民をつなぐ人材も、決定的に不足している。

原発事故から6年目の現実だ。西澤さんはこう話す。

「説明したいだけ説明して、科学的結論に納得してもらう。これをリスクコミュニケーションだと思っている人もいる。これでは、単に結論を受け入れろと言っているだけです」

「普通の生活する人たちの『不安だ』という言葉の裏に何が隠れているか。現場で起きていたことから、学ばないといけないのです」