学校でこの「道徳」を教えればいじめはなくなる?パン屋NG、和菓子屋OKの背景

    道徳教育が揺れている。気鋭の歴史家と読み解く、なぜか道徳で問題が起こってしまう理由。

    2018年度から小学校で、これまでの「道徳」が”格上げ”され「特別な教科 道徳」に変わる。いじめなど現実の問題に対応できていないことが理由だと文部科学省は説明している。

    ところが、道徳の教科書を巡って現実に起きているのは、パン屋を登場させた教材は「郷土愛不足」、和菓子屋に変えるとOK、というなんとも瑣末な話だ。

    なぜ、こんな問題が起きるのか。

    中身の議論がない

    「道徳の教科化というのは安倍晋三首相をはじめとする、保守派の悲願でした。とにかく教科にしたいという思いはあった。ところが肝心の『道徳』の中身を議論していない。だから現場は混乱するんです」

    BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、在野の歴史家であり、『文部省の研究』(文春新書)でここ150年の教育史を検証した、辻田真佐憲さんだ。

    道徳の教科化の経緯は

    2013年、安倍首相直属の教育再生実行会議が、大津市の中学生がいじめをうけて自殺した問題をあげ、いじめ防止策として道徳の教科化を提案した。

    その後、文科省の専門家会議、中央教育審議会などでの検討を経て、教科化が決まった。

    「特別の」としているのは、国語や算数と違って数値での評価はしない教科という意味である。評価は記述式でされる。

    来年度の開始にあたり道徳の教科書作りが始まったのだが、混乱は早々に起きた。

    「パン」では郷土愛が育めない?

    道徳の教科書で「パン屋」を登場させた物語に、文科省の審議会から意見がつく。

    「『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つこと』という内容項目について考えさせる内容になっていない」。文科省の担当者は趣旨をそう解説する。(毎日新聞

    この教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正して、教科書検定はパスすることができた。

    「郷土愛とは何か、愛国心とは何かを議論して、詰めていないから表面的な話しかできない。パン屋がでてくる物語では郷土愛を育めないけど、和菓子屋さんなら育めるってどういう理屈なんでしょうね」(辻田さん)

    道徳教育でいじめを防げる?

    もう一つ、問題がある。

    道徳教育を強化したいという保守派のなかに、しばしば根拠がない主張が混ざることだ。

    例えば、道徳の教科化の発端になった「いじめ」。本当に道徳を教科化すれば防げるのだろうか。

    大津市のいじめ自殺で、生徒が通っていた学校は文科省による道徳教育の指定校だった。問題を検証した第三者委員会の報告書には「いじめ防止教育(道徳教育)の限界」という指摘がある。

    もう一つの事実を示す。詳細はこの記事に書いたが、少年事件は1960年代前後をピークに激減といっていいペースで減っている。特にここ10年は、凶悪事件は半減し、窃盗も3分の1にまで減っている。

    実は少年の暴力は減っている

    少年による暴力そのものが減少しているといっていい。犯罪社会学の領域では「なぜ少年事件がこんなに減ったのか」が議論されている。

    社会的に話題になった少年事件をあげて教育を憂い、学校で道徳を教える必要性を訴える保守派の主張には、根拠がないことがわかる。

    「社会的に話題になっていったいじめ問題で、道徳教育の限界を見つめるというならともかく、防止を理由に道徳教科化という理屈は成立しません」(辻田さん)

    典型的な「偽りの伝統」江戸しぐさ

    根拠がない、といえば道徳の教科書を検定する当の文科省が、2014年に作った道徳教材「私たちの道徳」に登場する「江戸しぐさ」がその最たるものだ。

    江戸の商人たちが、お互いの生活を円滑に進めるために培った生活の知恵だという。だが、史料的な裏付けがまったくない戦後にできた創作物、つまり「偽りの伝統」である、と研究者からは批判され続けている

    「教科化に先駆けて全国で使われた道徳教材に、まったく科学的根拠のない『江戸しぐさ』が残り続けているのもおかしな話です。伝統ではない虚構を、伝統と呼ぶ。保守派は怒ったほうがいいですよね」(辻田さん)

    「道徳の教科化は、保守派主導で、かなりいい加減な理由で推し進められていると言っていいでしょう」

    辻田さんは、道徳教育の歴史は、時々の政治や経済の状況に大きく翻弄されてきた歴史だとみる。

    保守派が目指した、新しい「道徳」

    そもそも歴史を辿れば、戦後、保守派の政治家たちは「道徳」を学校で教えるべきだと考えてきた。

    その理由を簡単にまとめると、戦後の民主化政策によって、保守派が思う「日本」固有の道徳観や愛国心が失われたと考えていたためだ、と言えるだろう。

    戦前には「修身」という科目で道徳観を教えてきた。それに類する日本固有の道徳観を教えることができないか、と。

    例えば、吉田茂首相時代には「修身」の復活を訴える天野貞祐氏が文部大臣に就任し、教育勅語に代わる道徳教育が模索されている。

    いま多くの人たちが小中学校で経験した「道徳」は、1958年に改定された学習指導要領で導入されたものだ。

    後に自民党の参院議員に転じ、文部大臣まで上り詰める内藤誉三郎氏(当時、文部省初等中等教育局長)は、1959年にこんな言葉を残している。

    「わが国社会の実情からも道徳教育充実は、義務教育改善の中心課題でなければならない」(文部省『新しい道徳教育のために』)

    当時、力が強かった労働組合の影響もあり、教科ではない「特設」という形で道徳は導入された。保守派からみれば中途半端な形だったが、より強化が必要だという意識が当時からあったことがうかがえる。

    以降、道徳の教科化を果たしたい保守派と、それは戦前回帰的だと抵抗する革新派という構図が続いてきた。

    そして革新派は力を失い、ついに教科化が実現する。

    いまや「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」も教えることができ、保守派からすると悲願達成、万々歳である。しかし……。

    「教科化」ありきの結果

    辻田さんは語る。


    保守派は、運動として結果をだすために、中身は二の次で「教科化」を目標にしたというのが私の見方です。

    「道徳」で何を教えるべきか、なんて議論をしていたら、いつまでたっても一枚岩にまとまらない。それはひとまず置いておいて、教科化を目指した。

    1950年代から80年代にかけては、これでも良かった。なぜなら、保守派のなかに論理や議論を重んじようという姿勢がまだ見られたからです。

    50年代には、なぜ道徳が必要なのか、保守派の中でも議論をしていました。

    例えば、民主主義社会の担い手として健全な愛国心を育てることと、道徳教育をつなげた議論もある。

    ここでいう健全な愛国心とは、自立した個人がやがて国を担っていく、という話です。

    良い悪いは別にして、国を愛するとは何か、という議論もしっかりやっていた。反対する相手に向き合って、ちゃんと論をもって説得しようとする姿勢が強かったんですね。

    教育勅語を再評価

    ところが1990年代後半から、保守派の議論が変容してきます。革新勢力の力が弱まるなかで、相対的に保守派の数が多くなる。

    そうすると、反対する勢力と議論する、説得するという姿勢は薄まります。

    ろくな議論もせず「愛国心」を強調して戦前の教育勅語を再評価したり、教育勅語に「道義国家」への道が書いてあると主張したりする政治家まで、政権の中枢からでてきています。

    教育勅語に読めば、そんなことはどこにも書かれていないし、今でも通用すると考えているのは、大きな誤りでしょう。

    中身がない「記号」程度にしか考えていないから、こんな発言ができるんです。

    結局、愛国的な「記号」を並べれば愛国だ、程度にしか考えていないということです。だから、戦後の保守派の議論さえ顧みず、安直に教育勅語を持ちだしてしまう。

    こんな状態が長く続くとは思えません。こんな主張をする人が本当に歴史と伝統を重んじる「保守」なのか。私には疑問ですね。


    道徳も保守も「記号」

    だから、冒頭にあげた「パン屋」問題を象徴的な出来事だとみる。

    「教科化」という目的だけが一人歩きし、中身の議論が積み上げられないまま、表面的な設定の物語が教科書に書き込まれていく。

    これで、「特定の考え方に無批判で従うような子供ではなく、主体的に考え未来を切り拓く子供を育て」る(文科省)ことができるのか。

    辻田さんはいう。

    「ここまで見てきたように、道徳は時々の政治に影響を受けやすい科目です。政治の世界では、いまでこそ記号的な保守が勝ち誇っていますが、いずれ限界が訪れます。そのとき、記号的な『道徳』教育の推進も、見直されることになるでしょう」