バーニー・サンダース上院議員。米大統領選で民主党からの立候補を目指す74歳だ。当初は泡沫候補とみられていたが、勢いを増している。3月26日にはワシントンなど3州で圧勝。大本命のクリントン前国務長官(68)との一騎打ちを制する可能性もでてきた。日本ではまだ知られていないバーニー議員の生い立ちや政治信条とは。
ぐちゃぐちゃの白髪
トレードマークは乱れた白髪。外見に特別な注意を払わない。くたびれた背広も特徴。The New Yorkerによると、「買い物は大嫌い」。
民主社会主義者(Democratic socialist)を名乗る。同時に、共産主義者ではないとも強調する。格差の解消が政治信条で、暴利をむさぼる金融機関を批判し、富豪からの大口献金を拒否する。
思想は一貫してリベラル。ぶれない発言が人気の秘密だ。「労働者の味方」として、時給15ドルへの連邦最低賃金引き上げ、高所得者の税金10%引き上げを訴える。公的な国民皆保険制度の創設を支持している点も、アメリカの政治家では異色だ。
賛否が分かれる人工妊娠中絶や同性婚には賛成。格差解消につながるとして、公立大学の無償化を訴える。地球温暖化を防ぐため、産業規制強化にも賛成している。
ただ、銃規制を積極的に取り上げることはない。選挙基盤のバーモント州では狩猟が盛んなためだ。
外交では、1991年と2003年のイラクへの侵攻に反対し、環太平洋経済連携協定(TPP)にも反対している。
何が彼の政治信条を作り上げたのか。生い立ちを振り返る。
裕福でなかった幼少期
The New Yorkerなどによると、バーニーは日本が真珠湾を攻撃する3ヶ月前の1941年9月、ニューヨーク・ブルックリンに生まれた。
父親はポーランド系ユダヤ人で、17歳で渡米。大恐慌を生き残り、バーニーが生まれた時はペンキ販売員だった。父親の親戚はヨーロッパのユダヤ人虐殺で亡くなっている。
母親もユダヤ系でポーランドからの移民2世。バーニーが当選すれば、初めてのユダヤ系大統領となる。
家庭はあまり裕福ではなかった。The New Yorkerのインタビューに、こんなエピソードを披露している。「一番安いジャケットを買おうと15店舗を巡った」
公民権運動で活躍
ニューヨーク市立大学ブルックリン校に1年通った後、シカゴ大に転籍。ここで社会主義青年同盟(Young People's Socialist League, YPSL)に参加した。
1960年代の公民権運動の推進役となった人種平等会議(Congress of Racial Equality, CORE)を同大で率いた。
Chicago Tribuneは、1963年に人種隔離政策への抗議運動で警察に連行される当時21歳のバーニーの写真を載せている。
逮捕の半月後には、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が「I have a dream」演説をしたワシントン大行進に参加した。
社会主義の理想
AP通信などによると、1964年に政治学の学位で卒業後、イスラエルのキブツ(共同体)で短期間生活。この経験が、社会主義者としての思想を強めた。
「住民自身が所有するコミュニティーという形態が実在し、キブツが経済的にうまく機能していることを知って、大きな影響を受けた」
「富と権力の格差のない社会をつくりたい。働く人や貧しい人に政治的に平等な機会をもたらしたい」
最初の妻との結婚は、大学卒業後すぐだった。二人は自動車旅行で訪れたバーモント州に土地を買って住み始めた。
すぐに妻とは離婚し、1969年に別の女性との間に長男をもうけている。教育用映像などを作って生計をたてていた。
負け続けた10年
政治家人生の始まりは1971年。地元の自由連合党(Liberty Union Party)から上院議員への出馬を要請される。結果は大敗。その後10年間、上院議員選挙に2回、州知事選挙に2回出馬するも、負け続けた。得票率はいずれも6%に満たなかった。
そんなバーニーが表舞台に立ったのは1980年のバーリントン市長選だった。無所属で出馬すると、10票差で当選。39歳だった。レーガン政権の時代で、社会主義者が選ばれることは極めて珍しかった。
バーニーはここで実績を残す。アメリカで頻繁に問題となるジェントリフィケーション(荒廃した地区に裕福な人たちが流入して活性化する結果、所得の低い住民が住む場所を失う現象)を起こすことなく、市街地の再開発に成功。低所得者層が持ち家を手に入れやすい政策を導入し、他の都市が追随した。
水辺の再開発でも一部の企業に独占させず、自転車が走れる道や地域住民のためのボートハウスを設けた。市長には3回再選された。
1988年に市長選を通じて知り合った現在の妻と再婚。新婚旅行はソビエト連邦(当時)だった。
1991年にワシントンデビュー
下院議員選挙には1988年に挑んで敗れた後、1990年に初当選した。下院 435人でたった一人の無所属だった。
AP通信によると、議会では同僚議員を指して「こいつらのような人間が数百人、落選しない限り、変化は起きない」などと非難する孤高の人だった。
「議会は巨大な利益団体に抵抗する勇気を持ち合わせていないんだ。わたしは本音で話せる」と断言していた。
下院議員を1991年から8期16年務めた後、2006年に上院に鞍替えした。バーモントでも1、2を争う資産家の共和党候補者を33ポイント上回っての勝利は驚異的だった。
議員としての活動は活発だった。GovTrackによると、2013-2014年年の議会では、提出した法案の数で6位につけている。
バーニーが真骨頂は、しぶとさだった。2010年12月、高所得者層への減税措置に反対し、演説で議事を止めるいわゆるフィリバスターを8時間以上続け、存在感を示した。内容は本にもなった。
大統領指名選、熱狂する若者
2015年4月に民主党の大統領指名候補を目指すと発表。民主党に入党した。
リベラルな政策が、とくに若者に支持されている。アイオワなど3州の出口調査では、30歳未満は8割超が支持。テキサスなど4州では30歳未満の支持だけがヒラリーを上回った。
2008、12年の大統領選の勝者を正確に予測したことで知られる統計学者ネイト・シルバー氏(38)は、バーニーが体現する「社会主義」から連想するものが世代で異なる、と指摘する。
冷戦を知る世代は「共産主義への入り口」「反アメリカ的」といった否定的なイメージを持つのに対して、若者は北欧の社会民主主義を連想するという。ただ、若者の左翼化という単純な結論は、統計に基づいて否定している。
たしかに、ピュー研究所の2011年の調査では、社会主義への反応は、全世代では60%が「否定的」で、「肯定的」の31%を上回った。ただ、30歳未満に限ると逆転し、否定が43%、肯定が49%だった。
ネットで広がるバーニー熱
「バーニーを感じろ」「熱を感じろ」という意味のハッシュタグ#FeelTheBern(Bernはバーニーの名前の最初の4文字。「熱さ」を意味するBurnとかけている)を使って、バーニーの政策についての議論が盛り上がる。
こんな「選挙運動」もあった。
アメリカで人気のデーティング・アプリ「Tinder」で、ユーザーの女性たちが男性たちにバーニーへの支持を呼びかけた。
支持を呼びかけた一人、ロビン・ゲドリッチさん(23)はアウトレットモールで働き、大学進学の資金を貯めている。
「私はいま、ここで、にっちもさっちもいかなくなってる。そしたら、私のような人たちが前に進めるように、大学への進学が手の届くようにしてくれるバーニーが現れたんです」とBuzzFeed Newsに語った。
ジョン・レノン?
バーニーの集会はジョン・レノンのコンサートのような様相もみせ始めた。ラスベガスの集会に参加した元美容師テレサ・バレンタインさん(62)はBuzzFeed Newsの取材に、「パーティーのよう。みんなが変化にワクワクしている。みんな新しい革命に希望を持っていると思う。ジョン・レノンみたいよ。イエーイ!」
姪で写真家トニヤ・ノーブリーさん(37)はこう話す。「集会を待つ列で知り合った人たちとは、電話番号やメールアドレスを交換しました。みんな親友みたいなものです」
3月25日のオレゴン州ポートランドの集会ではこんなハプニングに聴衆がスタンディングオベーション。演説台にこんなものが飛んできて……
広がる草の根運動
課題もある。アフリカ系やメキシコ系など白人以外への浸透だ。Gallupの民主党員への調査では、アフリカ系とメキシコ系のそれぞれ31%と46%が、「バーニーを知らないので評価できない」と答えた。ヒラリーの場合は、いずれも一桁だ。
バーニーの政策の実現可能性を疑う声も根強い。
鍵はカリフォルニア
米公共放送NPRによると、投票先が決まっている代議員の獲得数は3月26日現在、ヒラリー1262対バーニー1023となっている。
指名争いは、バーニーの劣勢が鮮明になって退かない限り、6月まで続く。中でも鍵は475人の代議員がいるカリフォルニア州での予備選。6月7日にある。
NPRはバーニーが勝つために必要な各州での獲得代議員数を計算。バーニーの勝利には依然、高いハードルがあると解説する。
ただ、バーニーが民主党の指名選挙に与えた影響は大きい。共和党を向いて主張すればよかっただけのヒラリーに、格差や政治とカネの問題を無視できなくした。NPRはこう指摘する。
「バーニーは代議員の過半数をとれなくても、すでに勝利しているのだ」
CORRECTION
「上院 435人でたった一人の無所属だった」を「下院 435人でたった一人の無所属だったに直しました。