「病めるときも健やかなるときも、愛し続けることを誓います」
2013年10月。カリフォルニア州の役所で、後藤新さん(29)とルーベン・ガリバルドさん(32)が、向かい合って、誓いの言葉を交わした。
正式に結婚が認められた瞬間だった。
同僚が立会人となり、家族が見守る。姪がマイクを取った。「今日から家族の一員。末長くお幸せに」と祝福の言葉。
「結婚ってこういうことなんだ。価値があるんだ」と後藤さんは振り返る。うれしかった。
物心ついたころから
横浜市に生まれた後藤さん。よくいわれるように、同性が好きなのかもしれないと思ったのは、物心ついたころからだ。
お尻をふく紙おむつのCMを真似をして、女の子のお尻を触ったら、「セクハラ!」と怒られた。驚いた。「興味もないのに、なんでそんな反応をするんだろう?」
男の子は女の子のスカートめくりをして、ふざける。男の子は女の子に関心を持つものなんだと知った。
幼稚園バスの男性運転手を「カッコいい」と思った。
「自分の考え方、感じ方は、周りと違う」
自分は?
5人きょうだいの末っ子。横浜市内の小中学校に通った。「自分がどういうカテゴリーに入るのかがわからなかった」と振り返る。
テレビに映るオカマは特定のキャラクターを演じ、おネエ系と呼ばれていた。自分はそうじゃなかった。
中学。同級生の男子たちはケンカしたり、暴れたり、攻撃的になっていった。居心地が悪かった。
それでも、自分がゲイだって「いっちゃいけない雰囲気は自覚していた」。
いろんな価値観
答えをくれたのは、留学生たち。高校には、ロータリークラブを通じて、アメリカやメキシコ、ブラジルから学びにきている同級生がいた。
小さなことだが、みんな好きだと思っていた漬物をアメリカ人は嫌いだった。好きな物だけ食べて、残しても気にとめない。米一粒残すなと教えられてきた自分と違った。
二人で話しているとき、別の人が話しかけてくると、指一本立てて、ちょっと待ってとはっきり言う。空気を読む日本とは、会話スタイルが違った。
「いろんな価値観がある」。自分自身の行動を縛る価値観を相対化するきっかけになった。
アメリカ人の女の子に初めて、ゲイだと打ち明けてみた。「たいしたことじゃない」という反応だったと覚えている。
「型にはまらなくても、世の中、受け入れてくれる人がいる」。自分のなかの葛藤が溶け始めた。
自分を信じる
高校2年生。今度は自分がロータリーの奨学金に合格して、メキシコの高校へ1年間留学した。「居心地のいい場所を探しにいく。海外に行くのは、やるべきことだと思った」
ところが、生活してみるとメキシコのLGBTの人たちへの差別は、日本より激しかった。
美容院の女性スタイリストに対して、通りがかりの人たちが「ホモ」「売春やろう」と吐き捨てる。トランスジェンダーへの理解はゼロ。「男なのにスカートやブラウスをきている」と嘲笑した。
それでも、彼女は意に介さない。
高校で一緒だった男の子は、小股で上品に歩き、言葉遣いも柔らかかった。「なんで女みたいなんだよ」「女々しい」といじめられた。でも自分らしさを貫いていた。「周りに合わせるんじゃなくて、自分の道を進む芯の強さがあった」
だったら、あからさまな差別はない日本で、伏せなくていい。「好きにやらせてよ」。自分はゲイだ。隠れない。
ただそれは自分が周りと違うことを受け入れること、社会的に不公平で不便な立場に立つことの受入れでもあった。
帰国後、両親にゲイであることを告げた。「へえー」と言って、取り立てて反応がなかった。「日ごろ、弱者の支援活動をしていたからだと思う」
アメリカへ
振り返ると「自分は恵まれていたと思う」。海外留学のチャンスをもらい、理解ある家族がいた。
高校卒業後、「受験勉強が間に合わなかった」ので、サンフランシスコの大学に進学。3年次にカリフォルニア大学バークレー校に進んだ。
パートナーのルーベンと出会ったのは、2010年。移民の申請手続きを助けるボランティア活動だった。メキシコ系で、同じスペイン語の専攻。関心も同じだった。「波長があって、安心感があった」
その年の夏には、結婚を意識し始めた。学生ビザが切れ、日本に戻った。「長い目で一緒にやっていこうと思ったら『手続き』が必要だねってなって」
大学院のために再びアメリカに渡った後、2013年にカリフォルニア州でそれまで止まっていた同性婚が再び認められて、結婚に動く。
「自然にそろそろ『こういうこと』すべきなんじゃないかなって思った」と振り返る。2013年夏、二人でペルーを旅行。大パノラマが眼下に広がるマチュピチュ遺跡で、ルーベンから結婚指輪を渡された。
「『はい、これ』って言われて、『あ、はい、いただきます』って。みんな、どうするのかわからない……」。ぶっきらぼうに笑って振り返る。
家族になる
「ただの儀式だって思ってた」のが冒頭の結婚式。でも「ゲイは結婚できないって諦めてたから、結婚なんてどうてもいいと思い込ませようとしていたのかもしれない」とも思う。
「けんかして出て行って終わりってならない安心感がある」のが心地いい。
家族の一員としても迎えられた。ルーベンは大家族。感謝祭、クリスマス、いつも30人ぐらい集まる。週末には、誰かの誕生パーティー。バーベキューをしながら、親戚の近況や噂話で笑い合い、賑やかな時間が過ぎていく。姪や甥は「tío」(おじさん)って呼んで、慕ってくれる。
将来、ふたりで養子を育てたい。「独りよがりって思われるかもしれない。けど、親が1人でも2人でも、男でも女でも、大人がたくさんいて、気にかける環境なら、子はちゃんと育つと思う。日本でも祖父母に育てられる子もいる」
全米12万5千組以上の同性カップルのうち、11万1千組以上が子どもを育てている。実子や養子で、その数は17万人と推計されている。
制度と意識と
カリフォルニア州は全米でも先進的な地域だ。ハーヴェイ・ミルクはサンフランシスコで初めてゲイだと公表して市議会議員となり、凶弾に倒れた。
そこに住んで、あからさまな嫌がらせはない。近所の人はフレンドリーだし、他人に迷惑をかけなければ個人の自由という考えを持っているように感じる。
職場のサンフランシスコ市役所でも、差別されることはない。「そういう人多いから、気にしないんじゃない? 差別発言したら首だし」
それでも、人々の意識にこびりついた差別を完全にぬぐうのは難しいと感じる。
家を買うとき、不動産業者が持ち主に、購入理由を説明する書類を書くよう求められた。こんなアドバイスが付いてきた。
「持ち主の考えは分からないから、同性婚のことは書かないほうがいい」
手の病気でかかった病院では、同性婚を伝えると、医師はコンドームを適切に使っているか尋ねた。「異性婚のカップルには言わないと思う。法整備が進んでも、差別が自動的に消えるわけじゃない」
手をつないで歩くこともある。「でもたいていは、ここは安全かって無意識が行動をコントロールしてる」。注意を引かないように。「ルーベンもそうだと思うよ」
変わる希望も
希望は、若い世代の意識の変化だ。アメリカの世論調査では同性婚への支持は徐々に広まり、昨年、6割に達した。
当事者がカミングアウトし、偏見や差別を溶かしていったことが大きい。テレビ司会者として活躍する、エレン・デジェネレス(58)。俳優のニール・パトリック・ハリス(42)。テレビに登場し、雑誌の表紙を飾る。
1970年代から続くLGBTの文化を讃え誇りを示すパレード「プライド」で練り歩き、存在を主張する。「日本でいうと夏祭り」と後藤さん。レディガガなど有名人がコンサートを催す。子どもたちも来る。
後藤さんは言う。
「日本でみんながカミングアウトできる環境にいるわけじゃないことはわかる。それに、カミングアウトは個人の選択。でも、家族や知り合いに当事者がいると知ると、怖がることはないんだって、わかると思うんだ」
「人々の理解が深まって、法制度も変えることができる。大局的に見ると、カミングアウトには、そういう意味合いがあることを理解するのが大事じゃないかな」
後藤さんの目に、日本の現状はどう映るのだろう?
ちょっと考えたあと、ハーヴェイ・ミルクの言葉を紹介してくれた。
「Once you have dialogue starting, you know you can break down prejudice.(話し合いを始めれば、ほら、偏見を断ち切ることができるんだ)」