【受賞スピーチ全文】村上春樹さん「影と生きる」アンデルセン文学賞

    「影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」

    デンマークの童話作家アンデルセンにちなむ「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」の授賞式が10月30日、生誕地オーデンセであった。受賞した村上春樹さん(67)は英語スピーチで、アンデルセンの小説「影」を取り上げ、自らの執筆の姿勢と重ねて、影から逃げずに生きる重要性を説いた。

    BuzzFeed Newsは村上さんの英語スピーチ全文を委員会から受け取った。日本語訳は次の通り。

    最近になって初めてハンス・クリスチャン・アンデルセンの短編小説「影」を読みました。僕がきっと気にいるだろうと、デンマーク語の翻訳者メッテ・ホルムが薦めてくれたのです。読んでみるまで、アンデルセンがこのような小説を書いていたとは思ってもみませんでした。

    「影」の日本語訳を読んでみて、強烈で恐ろしい筋の話だと思いました。日本で多くの人たちにとって、アンデルセンは子ども向けおとぎ話の作者として知られていて、彼がこのように暗く、希望のないファンタジーを書いていたと知って、驚きました。

    そして自然と疑問に思ったんです。すなわち「なぜ、このような小説を書かなければならないと感じたのだろうか」と。

    小説の主人公は、北国の故国を離れて、南国の外国を旅する若い学者です。思ってもみないあることが起きて、彼は影をなくします。もちろん、どうしたらいいのかと困惑しましたが、なんとか新しい影を育て、故国に無事帰りました。

    ところが、その後、彼が失った影が彼の元に帰ってきます。その間、彼の古い影は、知恵と力を得て、独立し、いまや経済的にも社会的にも元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていました。

    言い換えれば、影とその元の主人は立場を交換したのです。影はいまや主人となり、主人は影になりました。

    影は別の国の美しい王女を愛し、その国の王となります。そして、彼が影だった過去を知る元の主人は殺されました。影は生き延びて、偉大な功績を残す一方で、人間であった彼の元の主人は悲しくも消されたのです。

    アンデルセンがこの小説を書いたとき、どんな読者を想定していたのかわかりません。しかし、読み取れるのは、僕が思うに、おとぎ話の書き手であるアンデルセンが、ずっと取り組んできた枠組みを捨てて、すなわちそれは子ども向けの物語を書くことでしたが、その代わりに大人向けの寓話の形式を使って、自由な個人として、大胆に心の内を吐露しようとしたことです。

    ここで僕自身について話したいと思います。

    僕が小説を書くとき、筋を練ることはしません。いつも書くときの出発点は、思い浮かぶ、ひとつのシーンやアイデアです。そして書きながら、そのシーンやアイデアを、それ自身が持つ和音でもって展開させるのです。

    言い換えると、僕の頭を使うのではなく、書くプロセスにおいて手を動かすことによって、僕は考える。こうすることで、僕の意識にあることよりも、僕の無意識にあることを重んじます。

    だから僕が小説を書くとき、僕に話の次の展開はわかりません。どのように終わるのかもわかりません。書きながら、次の展開を目撃するのです。

    なので、僕にとって小説を書くことは発見の旅なのです。子どもが次に何が起きるのだろうとワクワクしながら一生懸命に話を聞くように、僕は書いているときに、全く同じワクワク感を持ちます。

    「影」を読んだとき、アンデルセンも何かを「発見」するために書いたのではないかという第一印象を持ちました。また、彼が最初、この話がどのように終わるかアイデアを持っていたとは思いません。

    あなたの影があなたを離れていくというイメージを持っていて、この話を書く出発点として使い、そしてどう展開するかわからないまま書いたような気がします。

    今日、ほとんどの批評家ととても多くの読者は、分析するように話を読みます。これが正しい読み方だと、学校で、または、社会によって、訓練されます。学術的視点、社会学的視点や精神分析的視点から、人々はテクストを分析し、批評します。

    と言うのも、もし小説家がストーリーを分析的に構築しようとすると、ストーリーに本来備わっている生命力が失われてしまうでしょう。書き手と読み手の間の共感は起きません。

    批評家が絶賛する小説家でも、読み手は特に好きではないということもよくあります。多くの場合、批評家が分析的に優れていると評価する作品は、読み手の自然な共感を得ることができないからです。

    アンデルセンの「影」には、このような生ぬるい分析を退ける自己発見の旅のあとが見て取れます。これはアンデルセンにとってたやすい旅ではなかったはずです。彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめることになったからです。

    でも、実直で誠実な書き手としてアンデルセンは、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、ひるむことなく少しずつ前に進みました。

    僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。

    そこで僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。

    でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。

    読み手とともに、この過程を経験する。そしてこの感覚を彼らと共有する。これが小説家にとって決定的に重要な役割です。

    アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たちの自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自身の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。

    それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説「影」の学者のように自身の影に破壊されて終わるでしょう。

    自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。

    明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。

    ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。

    影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません。

    侵入者たちを締め出そうとどんなに高い壁を作ろうとも、よそ者たちをどんなに厳しく排除しようとも、自らに合うように歴史をどんなに書き換えようとも、僕たち自身を傷つけ、苦しませるだけです。

    自らの影とともに生きることを辛抱強く学ばねばなりません。そして内に宿る暗闇を注意深く観察しなければなりません。ときには、暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。

    そうしなければ、やがて、影はとても強大になり、ある夜、戻ってきて、あなたの家の扉をノックするでしょう。「帰ってきたよ」とささやくでしょう。

    傑出した小説は多くのことを教えてくれます。時代や文化を超える教訓です。