きくちゆうきさんがTwitterで毎日発表してきた漫画『100日後に死ぬワニ』が、3月20日でついに「100日目」を迎えた。
投稿は70万回以上リツイートされ、190万を超える「いいね」が集まるなど、多くの人がワニくんの最期を見届けた。なぜ「ワニ」はこれほどまでに人々を惹きつけるのか?
ベストセラー『メメント・モリ(死を想え)』の著者で、3月27日に最新刊『日々の一滴』を上梓する作家・写真家の藤原新也さんに、話題作を読み解いてもらった。
人生を凝縮した100日間

『100日後に死ぬワニ』を読んで最初に何となく感じたのは、作者は大丈夫?ということだった。
まるで雲ぶとんの上に座っているような、明るい何でもない日常を生きるワニくんに鬱的なものを感じたんだね。100日後に自身の死をもってエンディング――なんて物騒なことをつい想像してしまった。
ワニくんが生きているような平凡でありふれた日常は、誰もが共有できるもの。その先に「死」が訪れる。それは平凡な日常とは真逆だけど、人生80年の中で本当は誰もが共有しているわけだね。100日間というのはそれを凝縮しただけ。
この100日でこれだけ話題になったのは、人々の普通の日常が新型コロナウイルスにさらされた危機感と、どこかでリンクしているんじゃないかな。
『メメント・モリ』から変わったこと

1980年代に私が『メメント・モリ(死を想え)』を書いたころと比べて、人間は本質的にそんなに変わっていないと思っている。しかし、時代環境は大きく変わった。
95年以降、ネット的なバーチャル世界が世の中を席巻しはじめたけど、9.11、3.11、そして今の新型コロナの流行と、まるで逆襲するかのようにむき出しの現実が次々と容赦なく襲いかかってきている。
ワニくんの世界の、9.11も地球温暖化も、コロナもなく、社会問題や政治問題もネグレクトして淡々と続く日常はリアリティーには欠けるが、時代の過酷とともに痛覚を停止させて生きる現代人の姿と重なるんだね。
つまり、「アンチリアル」にリアルを感じるんだ。
ワニくんはまだ生きていた?
「100日後に死ぬワニ」 100日目
死には病死、交通事故、殺人、孤独死、など様々な姿があるが、個人的な想いを言えば、ワニくんの最期は、血が流れたり苦しんだり、痛みを感じさせるようなリアリティーのある死に方ではない方がいいなと思っていた。
その意味で100日目の回でワニくんの全身を見せず、体の3分の1ほどしか描かなかったのはよかった。顔を描くと生々しくなってしまうから。
ワニくんが花見に来るのが遅く、ネズミくんは「迎えに行くわ」の言葉とともにその場を立つ。
ネズミくんはその途中、スマホで撮った桜の写真をワニくんに送るわけだが、その次のコマではヒヨコが車道に居る様子が描かれている。
ひ弱なヒヨコが車道にいるのは危ないよね。おそらくはワニくんがヒヨコを庇護できなくなった状態ということ。
ワニくんの腕や体の周辺に動きを表す複数の線(ヒヨコにも)があるのは、まさに死につつある臨終の一瞬を描いているということだろう。この時点では虫の息だけど、まだ息があったんじゃないかな。
スマホが暗示する「死」

道路には桜の木の幹が描かれ、桜の花びらが散っているから、ワニくんは仲間のすぐ近くまで来ていたんだと思う。
次のカットでヒヨコは振り向く。スマホが路上に落ちた音を聞いたように見える。
ヒヨコが覗き込むスマホの画面に表示された桜の写真には「既読」がついており、「スゲー!!」「春に来たって感じ〜」と返信されているものの、そこでやりとりは途切れている。
つまり、そこでワニくんの死が宣告されている。
リリカルなラスト「作家だな」

スマホというデバイスを使って死を暗示させるのは、今っぽくて面白い。そして最後に桜吹雪の大団円。リリカルで映画的なエンディングだね。
個人的には物語性のあるものよりは、クールな表現の方が好み。
実を言うと初めは、最初の4コマだけで終わりだと勘違いしていた。ネズミくんが「迎えに行くわ」と言うところ。あそこであっさり終わって、読者の想像に委ねるのもクールで悪くないなと。
でも作者はロマンチックで凝ったラストを選んだ。この人は作家だな、と思ったね。
