高校生のダンス動画をきっかけに、発売から30年以上の時を経てリバイバルヒットを果たした荻野目洋子の『ダンシング・ヒーロー』。
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【TDC】バブリーダンス 登美丘高校ダンス部 Tomioka Dance Club
「今夜だけでも シンデレラ・ボーイ♪」と歌うこの曲には、実はモデルとなった男性がいるという。
『ダンシング・ヒーロー』をはじめ、ライジングプロダクション所属アーティストのヒット曲を集めたアルバム『Heartbeat』の発売にあわせ、荻野目の才能を見出したライジングの平哲夫社長が知られざるエピソードを明かした。
才能のある人に尽くしたい

――ご出身は福島県。上京して芸能の道を志すまでには一大決心があったのでしょうか。
いまこの歳になったから言えるんだけど、僕は子どものころグレてたんですよね。田舎でグレていても仕方ないので、東京に出てきました。
楽器でもなんでも、1年か2年やれば、自分に才能がないのはわかりますよね。だとしたら、自分の好きな音楽業界で、才能のある人のために人生を尽くした方がいいと思ったんです。
青江三奈から学んだこと

――22歳で木倉事務所に入り、青江三奈さんのマネジメントを担当されました。
青江三奈さんスターでしたが、どんなに仕事が大変でも絶対に嫌って言わない。やっぱり、売れっ子になるってこういうことなんだなと思いましたね。
そういう考え方、生き方を見てきたから、僕自身もオファーが来たものに対してはほとんどNOとは言いません。
芸能マネージャーの基本はマスコミ・プロモーションです。要するにメディアにどれぐらいブッキングできるか。カラーテレビの時代になり、生存競争がものすごく激しくなっていました。
でも僕は音楽が好きだから、プロモーションだけでなくプロデュースもやりたかった。
プロデュース主導、クリエイティブ主導の事務所は少ないけど、お客さんが先についてくれたら、プロモーションもそんなに苦労しなくていいんじゃないかなって。
雌伏の日々

――30歳で独立します。
レコードプロデューサーをやりたくて、作家さんと一緒に音楽出版社をつくったのですが、うまくいきませんでした。
これまでやってきた芸能マネージャー系の仕事をするしかないんだけど、いきなり売れっ子なんか持てない。売れないタレントばかり担当していました。
売れてないから仕事も入らない。よそのタレントのファンクラブの物販もやりましたが、あまり利益にはならなかったですね。
荻野目洋子に感じた輝き

――くすぶっていた時期に出会ったのが、荻野目洋子さんだったわけですね。
テレビ東京の『ちびっこ歌まねベストテン』という番組で、3人組の小学生の女の子たちがオールディーズを歌っていて、これは面白いと。
プロデューサーの竜崎孝路さんに「うちでやらせてほしい」とお願いして、デビューさせたのが「ミルク」というグループです。
そのうちの1人が小学6年生の荻野目洋子。3人のなかで一番、才能を感じた。輝いてましたね。千葉の佐倉まで何度か車で送って行ったりして、ご家族の信頼も得ていました。
ところがその荻野目が、学業を優先するために芸能活動は辞めたいというわけですよ。一度は涙を飲んで断念しましたが、2年後、中学2年生になるころに改めて連絡したんです。
佐倉まで会いに行き、ご両親も交えて話すと「やっぱり歌をやりたい」と言う。
中学3年から『スター誕生』で審査員をしていた大本恭敬先生のところでレッスンを受けてもらって、高校1年の時にデビューさせました。
「荻野目ちゃんには合わないと思うけど…」

―トントン拍子のシンデレラストーリーのような…。
いえ、なかなか思うようなヒットは出ませんでした。
僕は荻野目の声を生かして、起伏のあるメロディーを歌わせたかった。作家は「はい、わかりました」と言うんだけど、メロディーがちょっと地味なんですね。
テンポのいいものを、と言っても上がってくるのはアイドルソングのようなものばかり。
――1980年代という時代性もあったのかもしれないですね。
アイドルソングとして比較されちゃうと、菊池桃子ちゃんだとか、亡くなってしまったけど岡田有希子ちゃんだとか、外見のいい子がいっぱいいたわけですよ。
だから僕はやっぱり、歌で勝負したいなと。
ある時、ビクターの制作担当から「荻野目ちゃんには合わないと思うけども、聴いてみてもらえますか」と言われた3曲のうちの1曲が『ダンシング・ヒーロー』(1985年)だったんです。
リアル版『ダンシング・ヒーロー』
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荻野目洋子/ダンシング・ヒーロー(Eat You Up) MV [New Dance Ver.] (Short Ver.)
――原曲は英歌手アンジー・ゴールドの『Eat You Up』。一聴して手応えを感じましたか。
売れる、と思いました。目の前で売れる曲を聴かされて、これを見逃しているようじゃプロデューサーとしてもマネージャーとしても失格です。
『ダンシング・ヒーロー』というタイトルも僕が決めました。歌詞の世界観のモチーフになった男の子がいるんです。
80年代の前半、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんの「新御三家」が20代後半になり、後に続く10代の男性タレントがいなかった。
これから10代の男性タレントが来るはずだと思って、赤坂でスカウトした高校2年生の男の子がいたんですよ。結局、デビューさせることはできなかったんだけれども、しょっちゅう会ってました。
その彼が「週末、ディスコでバイトしてるんです。新宿のディスコで僕がダンスを踊ると、みんなマネするんですよ」と言っていて。
そこから、タイトルを『ダンシング・ヒーロー』にしたんです。
続く『六本木純情派』のヒット

――「シンデレラ・ボーイ」にはモデルがいたんですね!
荻野目洋子、7作目の初ヒット。僕が39歳の時でした。
それから1年後、今度は『六本木純情派』(1986年)がヒットします。僕はこの曲が気に入っていたんですけど、どうしても作詞家が合わなくて。
最終的にお願いした売野雅勇さんは3人目なんですよ。ちょっとジャジーなメロなんで、それこそ六本木で聴いても古く感じさせないような、そんな作詞にしようとお話しして。
そのぐらいからですね。作家の方々が僕の話すことをある程度、聞いてくれるようになったのは。
盆踊りからのバブリーダンス動画
#ダンシングヒーロー盆踊り #2018一宮七夕まつり
――大阪府立登美丘高校ダンス部の生徒たちが「バブリーダンス」を踊る動画が拡散されたことで、『ダンシング・ヒーロー』は2017年にリバイバルヒットしました。
岐阜の美濃加茂など東海地域ではだいぶ前から盆踊りに『ダンシング・ヒーロー』が使われていて、なんとか全国区にできないかと荻野目を美濃加茂に行かせたこともあるんです。だけど、なかなか全国区にはできなくて…。
そうしたら全然関係のない大阪の高校生とコーチの方が、30年以上前の曲をああいうダンスにしてくれた。
最近のダンスミュージックはあまりメロディーがなくて、歌ものよりラップが多い。僕はもともと歌ものが好きなので、この10年ぐらい悩んでいたんですよ。
でも、『ダンシング・ヒーロー』のリバイバルで、メロディーがあるものでもいけるんだ、と思えたんです。
自信をなくすことも大事

――平さんにもそんな風に悩んだ時期があったのですね。「もう無理だ」「投げ出してしまいたい」と思うこともあるのでしょうか。
何回もありますよ。売れてる時でもそうだし、いまでも年に2、3回はある。
作品が思うように動かない時とか、思うような作品が上がってこない時とか。そういうことが続くと、もうちょっと無理かなと。
あえて自信をなくすことも、また大事なことです。僕は年に1回か2回クラブに、ダンスミュージックのリサーチに行くんですけども。
――ええっ! 平さんがクラブに?
クラブに行くと、余計に自信なくしちゃうんです。アメリカのトラックばっかりで日本の曲をかけないでしょう?
だから、わざと自信なくすために行くみたいなもんですね。
マイケル・ジャクソンの衝撃

――クラブといえば、ライジングにはダンスを武器にしているアーティストがたくさんいますね。
僕の音楽人生を振り返ると、子どものころは日本の流行歌を聴いていて、小学校4、5年生ぐらいでエルヴィス・プレスリーに目覚めた。
18歳でビートルズにショックを受けて、その次に30代でショックを受けたのがマイケル・ジャクソンなんですよ。
ミュージックビデオを見て、なんでこんなに早く踊れるんだと。荻野目にも当時からストリートダンスをやらせて。マスコミの人たちにも(ダンスの重要性を)一生懸命言ったんですけど、全然信じてないんですね。
それから10年経って、安室奈美恵のライブを見た人が「平さんの言ってたこと、やっとできましたね」と言ってましたけど。
――ライジングの「歌って踊れる」アーティストたちの源流は、マイケル・ジャクソンだったと。
ものすごく影響受けましたね。ですから、ワンパターンといえばワンパターンです。
2つのPの大切さ

――平さんは長年、プロデューサー、つくり手としての視点を大切にされてきました。
それはありがたいことに、僕の趣味の延長というか。そこにお金を払ってくれる方が何十万人かいてくれたことでうまくいった。
タレントはもちろん、発掘が大事。育成も大事です。だけど、本当にもっと大事なのは、プロデュースとプロモーションですね。
ヒットは1作で終わるわけにはいかない。簡単なことじゃないけど、苦しくても2作、3作と続けなきゃいけません。
なおかつ、プロモーション的な見え方も大切。要するに、お客さんがそのタレントを支持したくなる作品、番組になるように考えるっていうことですね。
1作じゃ終われないし、1人じゃ終われない。2人、3人、4人…とやっているうちに、いつの間にかこんなにタレントが増えちゃいました。

〈平哲夫〉 ライジングプロ・ホールディングス代表取締役
1946年8月24日生まれ。福島県本宮市出身。1985年、荻野目洋子のマネジメントのためライジングプロダクションを設立。「Johnny Taira」名義でプロデューサーとしても活躍。安室奈美恵、SPEED、MAX、DA PUMP、三浦大知ら、数々のアーティストを世に送り出した。阪神・淡路大震災、東日本大震災などでの支援活動にも尽力。2016年の熊本地震後には所属アーティスト14組56人で復興支援コンサートを開催、売り上げ全額を寄付した。