「肩書きなんて一番嫌い」病魔を乗り越えたレジェンド俳優の「手放す」技術

    人気絶頂期にテレビの世界に見切りをつけ、還暦を過ぎると舞台の座長公演からも勇退。歌手・俳優の杉良太郎が語った「引き際の美学」と若い世代への伝言。

    『遠山の金さん』『大江戸捜査網』など、数々の当たり役で知られる杉良太郎。

    時代劇の全盛期に自らの決断でテレビを去り、還暦を過ぎると舞台の座長公演も勇退。昨年には、長年務めた日本・ベトナム両国の特別大使も退任した。

    「やめ癖がある」という杉が、引き際の美学と若い世代への伝言を語った。

    舞台にも「定年」

    ――何かをやめるには勇気がいりますが、杉さんは人生の局面局面で常に潔く決断してきた印象があります。

    私は「やめ癖」「やめ病」があって、何でも自分からやめちゃう。

    テレビ、自分からやめたでしょ。舞台も「定年」って言ってやめた。日越・越日の大使もそう。あんまり、ひとつのことに固執しないんです。

    「舞台に定年なんてないでしょ」と言われたけど、「俺は60 歳で体が動かない。お金とれない。それでチケット売ったら詐欺だろ。だからもうやめる」って。

    やめたい時は自分でやめる

    ――著書『媚びない力』には「杉良太郎を殺すときは、杉良太郎が殺す」と書いていますね。

    何かに取りすがってしがみついて、生きていこうという気持ちがない。

    自分がやめたい時は自分の意志でやめる。やりたい時は何が何だってやると。それだけひとつハッキリ決めておいたわけです。

    視聴率が悪くて番組を降ろされるとか、人から何か言われて引導を渡されるっていうことはあってはならない。もうデビューした時から思ってたので。

    でもそういう生き方は、災いや障害、誤解も生む。あいつはワガママだ!とかね。ちょっとでもはみ出したら、袋だたきに遭う。そんな世界はダメですよ。

    病室で考えた「最期」

    ――2015年には大動脈弁狭窄症を患い、心臓手術を受けました。年齢を重ね、病を得たことで見えてきたことはありますか。

    人間、ある程度の年齢に達すると、自分の最期を考えるようになります。ふたつの要素があって、ひとつは親友や大事な人が一人ずつ亡くなっていく。

    家族だったり、数少ない友人だったりが亡くなると、その都度ガクッとくるね。自分の命に限りがあることを思い出す。

    もうひとつは自分が病気をすること。病室で寝ていると、あと何年生きるんだろうとかって考え出すんですよ。大事なものを少しずつ手放すっていうのも、ひとつの表れかもしれない。

    肩書きなんて一番嫌いな性格なんだよ。

    「どこの誰々です」「それがどうした」

    「あの人すごいお金持ちですよ」「あ、そう。それで?」

    そう言いたい側の人間が肩書きを持ってる。ちょっとしんどいところではあるんだよ。だから面倒くさくなってやめちゃう。

    若い世代への伝言

    ――若い世代に伝えたい言葉はありますか。

    苦労しなさい。苦労したらいい。ひとつも損じゃないよ。楽して生きようなんて、そんなに人生甘くない。

    それから、自分がこの世に生まれてきた痕跡を善意で残すべき。ひとつでいいから、人のために何かしてあげて。

    これ聞いたからって、なかなかできないと思うけどね。

    文化の力を見せつけたい

    ――最後に、今後の抱負をお願いします。

    私はやっぱり、文化の力を見せつけてやりたい。「文化の力で戦争をさせない」とかね。

    家族が団らんできる平和。それが人間にとって一番幸せなんだっていうことを、文化の力でわからせたいんです。

    どうすればもっと力を使えるか。頭が悪くてわかってないのが歯がゆいところなんだけど。

    人間の生活において政治や経済も大切だけど、文化の力で世界を平和に導けたらいいと思うね。

    杉良太郎(すぎ・りょうたろう) 1944年、神戸市生まれ。1965年に歌手デビュー。ヒット曲に『すきま風』など。1967年、NHK『文五捕物絵図』の主演で脚光を浴び、以降『遠山の金さん』『右門捕物帖』など数多くの時代劇に出演。舞台の代表作に『清水次郎長』『拝領妻始末』など。デビュー前の15歳から福祉活動に尽力し、ユネスコ親善大使兼識字特使、外務省の日・ASEAN特別大使、日本・ベトナム両国の特別大使などを歴任。現在は法務省の特別矯正監、警察庁の特別防犯対策監、厚生労働省の肝炎総合対策推進国民運動の特別参与を務める。緑綬褒章、紫綬褒章を受章。2016年度文化功労者。