田中角栄、福田赳夫、竹下登…。歴代総理大臣と交友し、与野党問わず政界に幅広い人脈を持つ、俳優の杉良太郎。
政治家と腹を割って付き合ってきた杉が、驚きの政界裏面史を明かした。
角さんから「金さん」

――杉さんの政界交友録をお聞かせください。
田中角栄先生は会うなり「金さん、金さん」と呼んで。「杉さん」とは一度も言わなかった。「毎週欠かさず『遠山の金さん』を見てる」とおっしゃってました。
「金さんなんか見てるんですか?」と聞いたら、「医者とか政治家とか、頭を使う連中はああいう勧善懲悪のドラマが一番いいんだ」って。
角栄先生は遠くからものを言わない。近くに寄ってきて、目と鼻の先で一生懸命しゃべるんですよ。
「君はなー、国民に夢と希望を与えてるんだ。政治家に一匹でも夢や希望を与えられる者がいるか。頑張ってくれー! 君は日本の宝だー」って。
「越山会の女王」の迫力

――あのダミ声がありありと聞こえてくるようです。
田中事務所は入って突き当たりに小部屋があるんだけど、その小さい部屋に政治家が7人も8人も詰め込まれて座ってたね。みんな、「オヤジとどういう関係?」って聞いてきて。
そうしたら秘書で「越山会の女王」と呼ばれた(佐藤)昭さんが「お前らみたいなジャガイモとは違うんだ。杉さんはね、オヤジの大のお気に入りなんだよ!」って。凄い迫力にビックリした。
目の前で札束を配った角栄

――まさに政界裏面史ですね。
ある時、事務所で角栄先生の真横に座らされた。
「いまから1人ずつ政治家を呼ぶ。人間というのはこんなもんだっていうのを、君に見ておいてもらいたい」と言うわけだ。
「おい!」
「入ります!」
政治家が部屋に入ってくる度に、札束ドーン!
「しっかりやれよ」
3人ぐらい終わったところで、「どうだ? こんなもんだ。これでもみんな、裏切るんだ」って。
「人間なんてこんなもんだ」

――すごい話だ…。
昔は派閥の会長が自分の派閥の議員さんに「モチ代」とか「お小遣い」とかの資金を渡すのが当たり前でしたから。いまの時代の人が聞いたら、おかしいと思うだろうけど当時はね。
それからしばらくしてまたお会いしたら、テレビのニュースやワイドショーから責められていて。
「ワシが、ワシが電波をつくったんだ。その電波にいまやられてる。人生はこんなもんだ」と言ってましたよ。
(※田中角栄は郵政大臣時代、大量申請されたテレビ局の予備免許をめぐる調整を主導した)
人間なんてこんなもんだ。いいところ、綺麗なところばっかり見るんじゃないぞ。もっと人間の汚いところを見ろ――。
そんな思いで、私に受け渡しの場面を見せたんじゃないかな。ドロっとした人間くささのある政治家でした。
角福戦争もお構いなし

――福田赳夫元首相は杉さんの後援会長を務めていました。角栄さんとは「角福戦争」とも言われた犬猿の間柄ですが。
そこが不思議でね。2人は敵同士だったけど、私は真ん中にいたんですよ。野党の先生でも、社会党委員長だった田辺誠先生の委員長就任で友人代表の挨拶をしました。
福田先生とは、洋画家の安井曾太郎画伯の奥様の紹介でお会いしました。
奥様が「杉さんの応援をしてあげて」とお願いしている間に、私の顔をじっと見て「あー、ほー、ほー」と頷いて。「いい面構えをしてるな。吾輩が後援会長を引き受けよう」と言ってくださった。
その時、福田先生の奥様のかたわらにいたのが、書生をしていた小泉純一郎先生でした。
閣僚会議級のメンツが杉邸に

――ほかにはどんな政治家と交流がありましたか。
竹下登先生とは、大の仲良し。
ほかにも、橋本龍太郎先生、小渕恵三先生、島村宜伸先生…。昔は閣僚会議やるぐらいの先生方が、みんな月1回ぐらいウチに集まってました。
中川昭一君なんか「偉い人ばっかりだから」って入口のところに立ったまま、入ってこない。
『ズンドコ節』を替え歌にして「3年たったら竹下さん♪」なんて合いの手を入れたりして。総理になる日が近づいてきたら、歌詞が「もうすぐたったら竹下さん♪」に変わってね。
最後は『東京音頭』でお開き。私が歌って、竹下番の記者たちが応接間で踊ったこともあった。
小渕首相との最後の電話

――竹下、橋本、小渕…歴代総理の名前がポンポン出てきますね。
私の結婚披露宴の当日(2000年4月2日)の朝に、小渕先生から電話がかかってきて「今日はどうしても勘弁してくれ。行けないんだ」って。
「公務で大変なんだし、そんなこと気になさらないで下さい」と言ったんだけど、「いや悪い、悪い、悪い。申し訳ない」と。実は小渕さん、入院してた。
すぐ後に緊急病棟に移ったんだけど、その時はまだ元気だった。政治記者から「民間人で最後に話したのはあなただから、話を聞きたい」と言われました。
竹下登に弔辞をアドバイス

――安倍晋三総理の父親である安倍晋太郎議員とも親交があったとか。
安倍総理は私の顔を見たら必ず「杉さんはお父さんだから」っておっしゃるよね。竹下先生と安倍晋太郎先生の2人を結びつけたのは私なんだよ。
もともとは経世会と清和会で敵同士だった。それが親友、盟友になった。安倍晋太郎先生が亡くなった時、竹下先生は自殺するんじゃないかっていうぐらい落ち込んでた。
「安倍ちゃんが死んじゃった」と。あんな落ち込みようは初めて見た。弔辞の読み方も私がアドバイスしました。
「安倍ちゃん」と言うのがいいか、「安倍君」「安倍さん」がいいかなんて聞くから、私と橋本龍太郎先生が怒ったの。
「いまさら安倍さん、安倍君はないよ。安倍ちゃんがいいに決まってる」って。
「説得力がない」大物にお説教

――ほかにはどんなアドバイスを?
竹下先生は国会の予算委員会でも「かくかくしかじかでございます」って答弁するんだけど、「ございます」の時にはもう席に向かって帰ろうとしてるんだよ。
国民が見てるんだから、そういうことじゃダメだよと言ったの。
弔辞の練習をした時も「安倍ちゃん」の後、間をおかずに「なんとかかんとか〜」としゃべるもんだから、「早い! 何でそんなにペラペラ読むの。全然説得力がないんだよ」と説教したもん。
「どの辺でしゃべったらいいの?」
「安倍ちゃん、1、2、3、4、5、6…」
「そんなに待つの? ワシは待てん!」
「そこをグッと我慢する。10数えてからしゃべってください」
いま生きていたら…

――完璧な演出ですね。
「安倍ちゃん」の後、次の言葉が出てこない。胸が詰まってもうしゃべれなくなる。聞いている人たちもみんな泣いちゃう――。そこからボソッとしゃべりだすわけですよ。
当日は竹下先生の後ろに座らせてもらいました。大丈夫かな、間が短くないかな。いいぞ、いいぞ、その調子って。
竹下先生も、橋本先生も、小渕先生も、いま生きていたらなあと思うね。
再三の出馬要請

――これだけ政界と交友があると、杉さん自身も「出馬してほしい」と頼まれたことがあるのでは。
あるよ。何十回もある。大阪の市長選から衆議院、参議院まで全部あるね。
一番しつこく誘われたのは竹下先生。
「ワシも総理大臣を務めた男だから、いますぐには断らないでほしい。立場があるから、それを理解してくれ」
「何のことですか?」
「それが肝心なんだ。いまから言うが、すぐに断らないで、3、4日してから返事してくれんか」
「いいですよ。聞きます」
「実は是が非でも選挙に…」
「いや先生、私は政治家にはなれません」
――3日後って言われたのに即答(笑)
つい言っちゃった。
「だから『断らんでくれ』と言ったじゃないか。1週間くれ。1週間で政治家にする」と言うんだけど、「いやいやいや、それは無理です。政治家になるほど勉強してないんです。政治も経済も全然わかりません」とお断りしました。
政治家は無理

――何回誘われても、全部断っているんですね。
政治家は無理ですよ。自分の性格を知ってるから。おそらく2日ももたないんじゃないかな。政治は本音を言ったらアウトだから。その日に辞表を書かないといけない。
本音が通るなら政治は楽でしょう。でもそんな楽な仕事じゃない。
政治家は本音を隠して駆け引きをするじゃないですか。本当はこう言いたいんだけど、反発されるとか、時間をとられるとか、それによって法案が潰れるとかあるわけで。
海外で安倍総理に同行したことがあるけど、会談の合間に総理は走ってるからね。車から降りるなり、走り出す。後ろから全力疾走しても追いつけない。
外出したらずっと見られてる。どこへ行っても握手攻めで、同じことを何度も間違わずに言わないといけない。そしてその言葉には、すべて責任が伴うわけでしょ。
24時間、朝からずっと。あのエネルギーとバイタリティーですから。
この間、総理と食事した時に「あと2時間寝たい」とおっしゃってたよ。総理大臣ってなるもんじゃない。私には無理だと思ったね。

杉良太郎(すぎ・りょうたろう) 1944年、神戸市生まれ。1965年に歌手デビュー。ヒット曲に『すきま風』など。1967年、NHK『文五捕物絵図』の主演で脚光を浴び、以降『遠山の金さん』『右門捕物帖』など数多くの時代劇に出演。舞台の代表作に『清水次郎長』『拝領妻始末』など。デビュー前の15歳から福祉活動に尽力し、ユネスコ親善大使兼識字特使、外務省の日・ASEAN特別大使、日本・ベトナム両国の特別大使などを歴任。現在は法務省の特別矯正監、警察庁の特別防犯対策監、厚生労働省の肝炎総合対策推進国民運動の特別参与を務める。緑綬褒章、紫綬褒章を受章。2016年度文化功労者。