平成のインターネット史を振り返る時、外すことのできないトピックがある。
匿名掲示板「2ちゃんねる」。
犯罪予告やデマの温床として「便所の落書き」と揶揄される一方、企業の内部告発や「電車男」などのコンテンツも生んだ。
創設者の西村博之はパリでの生活を送りながら、『自分は自分、バカはバカ。』『このままだと、日本に未来はないよね。』など、多数の書籍を刊行している。
一体どんな子どもだったの?
2ちゃんねるで印象深い「事件」は?
一時帰国したひろゆきに、疑問をぶつけた。
【インタビュー後編はこちら】
2ちゃんねる創設者ひろゆき「人生最大の挫折」と結婚決めた「サイゼの夜明け」
「おいら」か「僕」か

――ひろゆきさんは本によって一人称が「おいら」だったり、「僕」だったりしますが、使い分けってあるんでしょうか?
編集さんが勝手に決めていて、(語り下ろしのため)僕は書いてないんで(笑)
――いま「僕」とおっしゃってましたけども。
初対面の人に「おいら」って言うと、おかしい人みたいじゃないですか。一応、社会的な場では「僕」って言うようにしてます。
――「おいら」って言って様になるのって、ビートたけしさんか、ひろゆきさんか。あとは上地雄輔さんぐらいですよね。
おいら界は狭いんで。確かに上地さんはそうですね。あとIT系だと、けんすう(起業家の古川健介氏)もおいら派です。
嫌われない人はいない

――最新刊『自分は自分、バカはバカ。』のなかで、「他人から嫌われない人なんて存在しません」と説いています。
好かれるに越したことはないと思うんですけど、生きていると嫌われることって必ずある。
嫌われてると思っていない人って、たぶん気づいてない人。それか、よほど金持ちでずっと金をばらまき続けているんじゃないですか。
トカゲ事件

――そういう考えに至った原体験は。
小学校2、3年ぐらいかな。トカゲを捕まえるのが趣味だったんです。
父が国税局の職員で、官舎の5階に住んでたんですけど、4階のおばさんの家にトカゲをばらまいたら、すげえ怒られて。
プレゼントしようと思っただけなのに、恩を仇で返されたと思って、おばさんの腕に噛み付いたんですよ。
――なかなかヤバイ子どもですね。
自分の家でもよくトカゲをばらまいていて、掃除をするとタンスの裏とかでよくトカゲが死んでました。
素で常識をわきまえているタイプではなくて、そうせざるを得ないから空気を読む学習をしたというか。人間を観察して、自分とは違う生き物だと認識した感じですね。
原付の事故で留学

――家では「ゲーム禁止」だったそうですが、教育方針が厳格だったがために、後にフリーダムな方に振れたという部分はありますか?
それはあると思うんですよね。子どものころゲーム機がなかったので、ゲームやりたいっていうのは、どこかコンプレックスみたいに残っていて。
大学で入った「犯罪科学研究会」というサークルも、部室に行くとゲームやり放題でした。
――大学時代にアメリカに留学したきっかけは、原付バイクで事故に遭ったことだったと聞きました。
高田馬場で明治通りを直進していたら、曲がってきたタクシーの後ろに当たって吹っ飛んで。横にいたバスにガンってぶつかりました。
すげえ足が痛かったんですけど、病院行ったら「折れてはいない」って言われたんで、そのままバイトに行って。
――結構、大きな事故ですね。その時の慰謝料で留学したと。
まあ、そうですね。
2ちゃんねるは「N対N」

――2ちゃんねるを立ち上げたのも、米国留学中ですよね。なぜ、開設しようと思ったのですか?
暇だったんです。春休みで授業もないし、大学の寮の友達もみんな地元に帰っちゃって。それじゃあプログラムでもやろうかなと。
当時はまだニュースサイトもそんなに多くなかったので、日本の情報を得るのに「あめぞう」という掲示板を見ていて。これ自分でもつくれるかな?と思ってやってみたっていう。
――あれだけ大きなものになるとは考えていなかった?
割と大きくなるだろうとは思っていたんですけど、思ったより早かったというか。
電話って1対1で会話をするツールで、テレビは大勢に発信するから1対N。だけど、N対Nのメディアって、当時そんなに多くなくて。
N対Nでしか手に入らない情報ってあるし、そういうメディアはインターネット上にしかないから、これはたぶん増えるだろうと。
何か情報を得たいと思って、質問したら返してくれる環境ってすごく便利なんですよね。自分が便利ということは、ほかの人もそうであろうというのがあるんで。
みんな辞めちゃったけど…

――あめぞうも含めて、ほかにも掲示板はあったわけですが、どうして2ちゃんねるだけが存続できたのでしょう。
データが消えない仕組みをつくったっていうのがひとつ。あとはみんな辞めちゃったけど、僕は辞めないで続けたっていう。
始めたのが1999年。インターネットとかIT起業って儲かるよねってなったのって、それから結構経ってからなんですよ。そのころはまだ、ネットは金にならないと思われていた。
面倒くさいことを続けても、別に何の見返りもないし、忙しくなるとやめるっていう方が至極当然ですよね。
――ひろゆきさんは、なぜやめなかったのですか。
暇だったからじゃないですか。働いてなかったから、何かトラブルがあってもすぐに対応できた。
当時のサーバーって割と脆弱で、何日かに1回落ちるとか当たり前。
そういう時に働いている人だとなかなか対応できないですけど、僕はある程度時間があって、ダラダラした生き方をしてたので。
「うそはうそであると…」名言の背景

――平成の2ちゃんねる史を振り返って、印象に残っている事件は。
一番最初に有名になったのは、西鉄バスジャック事件ですね。
(※17歳の少年がバスを乗っ取り、刃物で乗客を殺害。犯行前に「ネオむぎ茶」のハンドルネームで2ちゃんねるに書き込んでいた)
――あの時、ひろゆきさんが『ニュースステーション』でコメントした「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉は、いまだに語り継がれています。
テレビの人に聞かれたから言ったっていうだけで、大した話ではないんですよ。
ほかにも同じようなことを思っている人はいたと思うんですけど、たまたまテレビに出て喋ったのが僕だった。使い勝手がいいっていうか。
『電車男』と犯罪予告

――ほかに2ちゃんねる絡みで思い出深い話ってありますか。
「湘南ゴミ拾いオフ」は個人的に好きでした。『27時間テレビ』の企画で湘南の海岸を清掃する前に、先回りしてみんなで掃除してしまったという。
――2ちゃんねるは犯罪予告などに使われる一方で、『電車男』のような面白いものが生まれるカオスな場でもありました。管理人として秩序を与えることもできたと思うのですが、あえてそうしなかったのは?
観察するのが好きだったっていうのはあるかもしれないですね。こういう状況に対して、人はどう使うのか。それは各個人で決めてくださいっていう。
なので『電車男』みたいなコンテンツが生まれることもあるし、やらかす人もいるし。

〈西村博之〉 1976年、神奈川生まれ。生後間もなく東京へ移る。都立北園高校を経て、中央大学に進学。1999年、米国留学中に匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し、管理人となる。2005年、ニワンゴの取締役管理人に就任し、翌年に「ニコニコ動画」を開始。2009年、2ちゃんねるの譲渡を発表。2015年には、英語圏最大の匿名掲示板「4chan」の管理人に。近著に『自分は自分、バカはバカ。』『論破力』『無敵の思考』など。
平成時代に活躍した注目の人物にBuzzFeed Japanがインタビューした「平成の神々」。新しい時代を迎えた神々の言葉をお届けします。
※この記事は、Yahoo! JAPAN限定先行配信記事を再編集したものです。