アンパンマンが絶対に「いただきます」を言わない理由

    映画『それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫』が公開された。アンパンマンはお腹のすいた人に顔を分け与えるのに、自分自身は決してものを食べない。30年以上アンパンマンの声優を務める戸田恵子が、その理由を語った。

    アンパンマンはお腹のすいた人に顔を分け与えるのに、自分自身は決してものを食べない――。

    『アンパンマンvsアンパンマン』(2000年)という書籍を読んで、その事実を初めて知った。

    原作者の故やなせたかし(1919〜2013年)と、1988年のアニメ放送開始から30年以上にわたってアンパンマンの声優を務める戸田恵子による対談本だ。

    いったい、どうしてなのだろう? 戸田に尋ねると、興味深い答えが返ってきた。

    「一度も言ったことがない」

    ――アンパンマンは絶対にものを食べませんね。対談本で知って驚きました。

    「いただきます」っていうセリフは、一度も言ったことがありません。

    ほかのキャラクターはみんな食べますが、アンパンマンは近くでニコニコ笑って見守っているだけです。

    ――なぜでしょう?

    神様とは言わないけど、唯一無二の特別な存在だからだと思います。食べるという行為には「俗」な面もありますが、アンパンマンはそういうところにいないのかなって。

    第1回の放送で、アンパンマンはジャムおじさんを助けた後にこう言います。

    「僕、胸の中がとってもホカホカしてるよ。人を助けるってこんなに胸があったかくなるものなの?」

    そこからパトロールの仕事を始めるんです。自分の顔を誰かに食べさせるんだけど、顔が削られていくと、どんどん弱くなってしまう。

    自分がダメになるとわかっていて、人のために何かをするっていうこと自体が、もはや神的だなと。

    ――究極の自己犠牲。

    そうなんです。だからすごい設定だなって思います。

    絶対に逆転しない正義

    ――アンパンマンにはやなせ先生の戦争体験が反映されていて、先生はアンパンマンを「決して逆転しない正義の味方」と評しています。正義と悪は国や時代によって簡単に逆転するけれど、「ひもじい人を助ける」という正義は逆転しないと。

    先生は戦争を体験していらっしゃるし、弟さんも亡くされている。そういう厳しい体験の中で、ひもじい人を助けることが一番の正義だと考えたんでしょうね。子どもがひもじい思いをするのは許せないっていう。

    アンパンマンの世界観の中では「共存」も描かれています。パンがあれば、おむすびもある。シュガーぼうやがいて、ソルトくんもいる。

    食品だけじゃなくて、ばいきんまんみたいな「菌」も共存していますよね。

    アンパンマンは、つぶあん?こしあん?

    ――アンパンチで完全にやられるわけじゃなくて、「バイバイキーン」と言って、また翌週出てくる(笑)

    そうそう。どっか遠くに行っちゃうだけで。

    設定の話でいうと、お金も全然出てきません。お金という概念がないんですよ。高い安いとか、これで儲けようとか、そういう精神が一切ない。ピュアランドなんです。

    かなり初期のころ、イベントに出た時に子どもたちから「アンパンマンの中身はつぶあん? こしあん?」と聞かれて困ったこともありました。

    その場では「先生に確認しておきます」と言って、あとで伺ったらつぶあんだとわかったんですけど。

    「生前葬」を撤回

    ――6月28日公開の映画『それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫』は、やなせ先生の生誕100周年記念作品でもあります。生前の先生の思い出を伺えますか。

    東日本大震災以降、お付き合いがとても深くなりました。それまではイベントだったり、対談やパーティーだったり、お仕事上のお付き合いが多かったのですが。

    ちょうどその当時、先生は「そろそろ引退したいので、生前葬をやります」とおっしゃっていたんです。

    そこに震災が起きて、「死んでなんかいられない。引退は撤回だ!」と。被災地の子どもたちのためにやれることをやろう、ということで密に会うことが多くなりました。

    震災とジレンマ

    だけど、自分たちでは動かせないぐらい、アンパンマンが大きなものになっていて…。何か動かそうと思うと、いろいろハンコや許可がいるんです。

    そんな壁にぶち当たってジレンマを抱えていた時に、先生のところへ相談に伺ったりもしました。先生は寒い中、節電で暖房もかけずにお仕事をしていらして。

    私、性格的にできないんだったらいいやって投げ出しちゃうところがあるんです。でも先生は、自分のできることを見つけて、精一杯やろうという考え方。

    そうやって先生に預かったメッセージを被災地のラジオで読ませてもらったり、キャラクターからの応援の言葉をCDに入れて、携帯で聞けるようにしてもらったりしました。

    ちょっとでもやれることがあるなら、その中で120%やっていこう。そういう先生の教えは、本当に大きかったですね。

    避難所に響いた「アンパンマーン!」

    ――被災した子どもが、アンパンマンのポスターを見て急に目を輝かせるといったこともあったと聞きました。

    『アンパンマンのマーチ』を被災地の皆さんが歌ってくれたりとか。

    《なんのために生まれて なにをして 生きるのか》という歌詞はちょっと哲学的ですが、大人たちを元気づける歌でもあったのかなと思います。

    ある避難所で、子どもが「アンパンマーン!」と助けを求める声をあげたんだそうです。その時、周囲で笑いが起こった。

    実際にはアンパンマンは飛んでこないわけじゃないですか。だからそれはとても切ない笑いではあるんだけど、一瞬でも避難所が和んだのだとしたら、ちょっとだけ救いだなと。

    人生は喜ばせごっこ

    ――やなせ先生からの言葉で印象に残っていることは。

    「人生は喜ばせごっこですよ、戸田さん」とおっしゃっていました。「人が喜ぶことをおやりなさい。その精神でいれば世の中うまくいくんだ」って。

    私たち声優だけじゃなくて、スタッフみんなを呼んでパーティーをするんです。ご自身でも歌を歌って参加者を楽しませて…。

    震災の時も「僕はもう年寄りだから、現地に行って瓦礫を片付けるような力仕事はできない。でも僕にできることがあるから、それをやります」と被災地の子どもたちや、ボランティアの大人たちへ贈るものを準備していらっしゃいました。

    私にとっては、先生=アンパンマン。本当に、常にみんなを楽しませ、喜ばせてくれる方でした。

    〈戸田恵子〉 1957年9月12日、愛知県出身。NHK『中学生日記』の前身『中学生群像』で女優デビュー。「あゆ朱美」名義での演歌歌手としての活動を経て、野沢那智主宰の「劇団・薔薇座」で舞台出演を本格化。芸術祭賞演劇部門賞、葦原英了賞、紀伊國屋演劇賞個人賞など受賞歴多数。アンパンマンのほか、『機動戦士ガンダム』のマチルダ・アジャン、『ゲゲゲの鬼太郎』(3作目)の鬼太郎、『キャッツ・アイ』の瞳、『きかんしゃトーマス』のトーマスなど、声優としても数多くのキャラクターを演じている。