
テレビ局の雇われディレクターとしてドキュメンタリーを撮影している木下由宇子(きのしたゆうこ)は、放送予定の番組の主題にと、3年前に起きた女子高生いじめ自殺事件を追っていた。
事件の発端は、ある学校で流れた「女子生徒と男性教員が交際している」という噂。女子生徒は一方的に退学させられ、その日に自ら命を絶った。
やがて学校側の対応に批判が殺到し、マスコミの報道合戦が過激化する。男性教員やその家族も激しい誹謗中傷の的になり、男性教員も遺書を残して自死してしまう。
遺書で男性教員は女子高生との交際を否定し、メディアへの抗議をつづっていた。

由宇子は遺族らにインタビューを重ね、当時の報道方法やマスコミの対応に疑問を投げかける形で、番組の構成を練っていた。
局のプロデューサーたちと番組構成の確認をしていると、亡くなった女子生徒の遺族の、ある言葉が取り沙汰される。「報道が殺したんですよ」。
プロデューサーは「身内批判になる」として、報道部に影響のない構成への練り直しを指示。
由宇子は「間違いを認められるって、格好いいと思うんですよ」と食い下がるが、許可は降りない。正義感の強い由宇子は、悔しさを募らせていた。

由宇子には、もうひとつの顔がある。
父親が営む学習塾で、夜は講師の手伝いをしていた。アットホームな学習塾で、父親も教壇に立っており、ふたりは生徒たちから慕われていた。
そんな日常、そして「事件の真相を伝えたい」という由宇子の正義感が、一瞬で揺るがされる出来事が起きる。
父親が犯した「ある過ち」を、由宇子は知ってしまうのだ。父の過ちによって、由宇子の信念だけでなく、社会的立場も危ぶまれる事態になる…。

監督の警鐘「言葉で人を殺せてしまう」
メガホンを取ったのは、『かぞくへ』の春本雄二郎監督。脚本・編集・プロデューサーも務めた。
「助監督を8年続けていた商業映画のシステムではさまざまな制約があり、思う通りの表現ができないと、内側では感じていました」
「自分が監督する映画を撮るときは、そういう制限が一切ない条件で撮りたいという思いがありました」と、春本監督は語る。
「2014年に1本何か絶対撮ると決めて、助監督を休んで脚本を書こうと思いました」

そのタイミングで春本監督は、あるいじめ自殺事件の報道を目にした。事件では、加害者の少年の父親と同姓同名ではあるがまったく関係のない人物の個人情報がネットに晒され、叩かれる事態となっていた。
「自分が朝起きたとき、知らない人たちから一斉に顔写真をあげられていたり仕事が晒されていたり、攻撃される時代になったんだなと。一瞬にして日常が破壊される時代になったんだと、ショックを受けました」と春本監督は当時を振り返る。
事件から『由宇子の天秤』の着想を得たという。そこから6年、物語を温め、1500万円の低予算内で、さらにその半分はポケットマネーも出して作品を完成させた。

そこまでして映画を撮り伝えたかったメッセージを、春本監督は次のように語る。
「言葉で人を殺せてしまうと、みんな自覚しないといけない。社会が自覚しないといけない」
「SNSも、僕はもう匿名の時代ではないと思います。言葉によって人を殺せる力を、みんなが持っているわけだから。実際に言葉の力で、人が死んでしまう事件も起きているわけですよね。プロレスラーの木村花さんもそう」
見ている情報は一面的なもの
今の情報社会は、「自分にとって気持ちの良い情報ばかりが出てくる仕組みになっている」と、春本監督は警鐘を鳴らす。
SNSやニュースサイトなどで流れてくる情報は、ユーザーの動向によって変わる。情報が溢れかえるネット社会で目にするものは、個人個人にパーソナライズ=最適化されていることがほとんどだ。
春本監督は、その事実にもっと目を向けてほしいと語る。『由宇子の天秤』で教育とメディアをモチーフにしたのも、それが理由だという。
「これはAIが最適化した情報だよと、そこまで意識して見ている人はあまりいないと思うんです。ちゃんとそのことを学校で教えて、メディアリテラシーを高めるべきです」

映画では、自殺事件の遺族たちがネットリンチに怯え、世間の目から隠れて生活する様子も描かれている。登場人物たちに向けられる「社会の厳しい目」は、最適化された情報社会の産物でもあると春本監督は考える。
「自分が調べればなんでも手に入る社会が、実は最適化された社会だと自覚していない場合、そこに当てはまらないものを見たときに『こんなのおかしい』『異質だ』と排除しようとしてしまう」
由宇子、由宇子の父親、事件の遺族、テレビ局関係者、塾の生徒…。作中で、さまざまな登場人物のそれぞれの「過ち」と「正義」が交差する。
背景には、社会的な正義と司法的な正義のせめぎ合いがある。司法的に裁かれ罪を償っても、もしくは司法的に間違いでないとされても、「社会は許さない」。社会の制裁を恐れるがゆえに、さらなる過ちが生まれてしまう。
そのような風潮の中で春本監督は、情報の受け手・発信者ともに「のりしろを探る」ことが重要だと語る。
「たとえば『間違いだとわかっていながら告白できなかった』なら、なぜそういう選択をしなければいけなかったか。犯した行為自体ではなく、なぜその行為が起きたのかという、光の当たっていない地続きの部分に対して眼差しを向けることが、私たちには必要です」