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「沈黙は死」と言われた時代 テレビの向こうに映る抗議活動に、静かな葛藤を抱いていた

1988年、サッチャー政権は教育現場で同性愛に触れることを禁じる法を制定した。抗議行動が起こる中、ひとり葛藤した当時の少年が30年の道のりを振り返る。

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それはセックスじゃない、と答えが返ってきた。教室で性教育のビデオをいくつか見せたあと、どう思ったかと先生が問いかけた。私は手を挙げて、よかったけれどゲイセックスに触れていませんでした、と答えた。11歳のときだ。

それはセックスじゃない、というのが教師の答えだった。時は1988年。その年、英国では自治体や教師が「同性愛を助長する行為」を禁じる法律が制定された。30年前の5月24日に成立した地方自治法28条、通称「セクション28」である(2003年に廃止されるまで続いた)。漠然とした内容で、学校教育の現場に関わる者はすべて、同性愛者について言及することができなくなった。エイズ感染の拡大がピークにあった時代だ。

セクション28をめぐる混乱と騒動の中、社会へ羽ばたく準備期間にある子どもたちを委ねられる立場の教師たちは、同条項に反するのを恐れ、口を閉ざすようになった。当時、先生たちが同性愛について学校で話すことを禁じられているなど、私のような生徒は知るよしもなかった。先生自身、同性愛について口にするのを禁じられていたからだ。

滑稽なほどの皮肉はこの部分だけだ。子どもだった私たちはそんな法は知らなかったが、何かが欠如しているのは感じていた。私たちの世代は、自分と同じように感じている人がどの程度いるのかも、この沈黙が何をもたらすのかも知らずにいた。

当時、この法に反対する抗議行動が起きた。レズビアンの女性たちが上院へ乗り込み、BBCニュースのスタジオに押しかけて抗議を表明した。このときイアン・マッケラン、マイケル・キャッシュマン、リサ・パワーらが立ち上げた同性愛者の権利団体、ストーンウォールは現在、英国最大のLGBT権利団体として活動を続けている。私のような子どもを守ろうと立ち上がった大人たちがいたのだ。こうした反対運動を行った人々と、法の制定に賛成した人々の間に起きた戦いはわかりやすく具体的で、記録もしっかり残っている。一方、この法に何らかの影響を受けた子どもたちがひそかに体験していた葛藤は、そうではない。

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セクション28に反対する大規模な抗議デモ。1988年、マンチェスター

当時、欧米では「Silence = Death(沈黙は死)」というフレーズが生まれ、叫ばれ、Tシャツやプラカードに掲げられた。セクション28を指したものではないが、当時、多くの人がエイズで命を落としていく事態を目の前にしながら、何もできずにいる現状に対する抗議の声だ。だが、同性愛をとりまく沈黙は、決して完全には理解されないまま、大勢の人を死の淵へ追いやっていた。

この30年で私が徐々に学んでいった教訓の一つが、同性愛を嫌悪する人間の最大の罪は、同性愛の当事者みずからにそれを助長するよう仕向けること、そしてそれが自己破壊を招くことだ。

だがこれも、チューダー王朝の歴史や二次方程式の授業の合間に教えてほしかった同性愛にまつわる教訓の一つにすぎない。その他は30年の間にさざなみのように、あるいは時に大波となって、広がっていった。今、それらを伝えるにあたって、ゲイであることについて知っておきたかったと思うのは、沈黙に責任を負うべき人々を辱めるためではない。それは歴史が示してくれる。そうではなく、未来につながる話だからだ。

まず、セックスについてから始めよう。ゲイセックスについて、何でもいいから何か教えてもらえていればよかったのに、と思う。相互の自慰やオーラルやフィスティングを推奨するわけではないが、後々こうしたことを経験する者に、潤滑剤を使うとアナルはずっとよくなるし実際に可能になるのだと教えてくれてもいいんじゃないか、と考えるのはそれほど行き過ぎだろうか。あるいはそうすればコンドームが破れずにすんで、ひいてはどこかで誰かが救われることにもつながるのだと。

しくみについて教えてもらうだけでもだいぶ違っていたのにとも思う。男性同士で正常位の性行為ができることさえ私は知らなかった(1988年の時点では、ゲイ同士の性行為は21歳になるまで違法とされていた。異性愛のそれより5年遅い)。それから20年以上経ってから取材したある男性は、男同士がハグして抱き合っていいとは知らなかったと話した。「男同士は路地裏でこっそりやる以外にない」とどこかで耳にした知識しかなかった、という。

男として男性と性交渉を持つとき、HIV感染を防ぐ手段を知っていれば救える命がいくつもあったはずだ。こうした青少年の中に、知識がないがゆえにやがて命を落としていった人がいただろう。沈黙のうちの感染拡大である。

セックスを求めてくる人に対してどうノーの意思表示をするかも教えてほしかった。ノーと言っていいこと、断っても失礼ではないこと、境界線は尊重されるべきであることを。

こうした一連のことを理解する機会は、あまりに遅れてやってきた。

これも教えてもらいたかった。セクション28制定から5年後、16歳でゲイバーやゲイクラブへ足を踏み入れたとき、自分より年上の人たちも境界線についてちゃんと教えられていなかったこと。彼らの境界線も、私の境界線も。それから、コミュニティ全体の空気を否定すると、そこに属するメンバーが自分たちの境界線を傷つけたり、場合によっては引き裂いたりもすること。

カミングアウトのしかたも教えてほしかった。どんな言い回しで、いつ、どこで言うのが一番いいのか。カミングアウトすればなぜ自分を消したい気持ちがなくなるかもしれないのか。

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28条反対デモ

セクション28成立から2年後、13歳のとき、両親に知られないようこっそり家を出て、住んでいた村にあった商店の隣にたたずむ赤い電話ボックスへ向かった。手には小遣いをためた硬貨をにぎりしめていた。中には1ペニーもあった。汗でぬれたたくさんのコインを次々に投入し、どこかで見つけた番号にかけた。どこで見たのかはわからない。「もしもし、レズビアン&ゲイスイッチボードです。ご用件をどうぞ」。電話の向こうでそう声がした。それで十分だった。私は受話器を置いた。私と同じ、自分以外の誰かの声を聞きたかっただけだ。そうして自分の存在を確かめた。

セクション28の制定を推し進めた当時のマーガレット・サッチャー首相は、私のような少年の立場を考えたのだろうか? 自分のしていることについて想像力をめぐらせてみたのだろうか? こうした法が同性愛志向から私を「救う」のではなく、こうした法が、家や学校という子どもを守り育むべき環境から私たちを疎外し、答えを外に探し求めて追い込むとは考えなかったのだろうか? 大勢の未成年者がトイレでじっと息を潜めた。

このとき電話をしたことで、私は初めて呼吸できた。次の息継ぎは翌年やってきた。

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どうカミングアウトするかだけでなく、それがどれだけ大きな変化になるかも教えてほしかった。1991年のある日、14歳の私は、発作的にそうしなければという必要性に駆り立てられるようにして、親しい友人3人に「自分はゲイだ」と告げた。すると肺が空気で満たされていった。この先の人生を前に進んでいく術を得た。そうして時とともにカミングアウトに構えずにすむようになった。回を重ねるごとに筋肉が鍛えられていった。

こうした言葉を発しなければどうなるのかも知っておけばよかった。ひっそり隠れて息を殺し、人生をそっくり奪われてしまうこと。こうして人生を奪われた人がどれだけいたか、知ることができたはずだ。歴史上の大いなる強奪。

学校で同性愛を理由にしたいじめにあったときにどう対処するか、これも教えてほしかった。他の大勢に比べれば私は恵まれていたほうだ。最小限のいじめにすぎなかった。最小限というのは、すれ違うときに同級生から「あいつにさわるな、さわるとエイズがうつるぞ」と言われる程度、という意味。あるいは、教師から「年上の女の子用ブラウスを着てる子」呼ばわりされる程度、という意味。そうしたいじめについて教えてくれていれば、他者を排斥するというのがどういうことなのか、子どもたちが考える機会になったかもしれない。今、セクション28が長きにわたり落としてきた影を払拭するため、いくつかの団体がこれに取り組んでいる。

こうしたいじめが後の人生にどう効いてくるのかも教わっておきたかった。その後やってくる事態に備えるため。30年後でも通りで同性愛に対するヘイトの声を浴びせる人がいる事実を知っておくため。今、同じことはネット上でも起きている。

自分がゲイであることを理由に道で誰かに追いかけられ、攻撃されそうになったときにどうすればいいか。これも教えてほしかった。警察が助けになってくれた試しがないからだ。やり返すべきか? それとも逃げるべき? わかったときにはもう遅すぎた、多くがそんな経験をしている。

暴力にさらされて逃げられないときにどうすればいいか、知りたかった。顔を縫うような目に遭う事態への心構えをさせるのは、誰の手にかけても不可能だっただろう。でも君は乗り越えられるよと声をかけることはできたはずだ。

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何年か前、同僚の女性から10代のゲイの息子について相談を受けたことがある。自分はどうすべきなのだろう、どうしてあげるのが息子のためになるのか、という。私は若いLGBT当事者が直面する危機について話した。いまだ続く沈黙の状態から、まったく準備のできていないまま、また多くの場合自分は価値がある人間だという自尊心を十分に養えていないかまったく持てないまま、ゲイシーンへ足を踏み入れる。母親としてはそうしたバーなどへ一緒に行くか、そこでの体験、つまり率直に言えばセックスとドラッグについて、母親に話してもらえるだけの信頼を彼の中に育んでもらうことだ。

自分が10代で、酔った大人、それも自分のことを大事に考えてくれていない大人に囲まれるのがどういうことかも教えてほしかった。

コミュニティの中には酒を飲んだり、薬をやったり、マリファナを吸ったりする人がいること、そしてそれがなぜなのかを教えてもらっていれば、とも思う。最初のころに遭遇するであろう敵意や、耐えなければならない沈黙、それに続く自己破壊行為との関連が見えてくるから。心を病む人が多い理由も。どこへ助けを求めればいいのかも。

効果的な治療が見つかる前、90年代半ばのゲイシーンに触れる心構えを、先生に――自分の学校にゲイの先生もいたと後で知った――示してもらいたかった。当時、エイズの代表的な合併症として、顔などの皮膚に斑点があらわれるカポジ肉腫の症状が知られていた。発症した若い男性が車椅子に座っていれば、誰もがそのたどる道をそれとなく感じ取った。

でも、何よりも教えてほしかったのは?

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28条反対デモ。1988年、マンチェスター

たった一人の教師でもいい、私がゲイであるからこそ、どんなにすばらしい経験が待っているかを教えてほしかった。すなわち、抑圧の反転だ。底抜けの楽しさ、バカみたいな格好でステージに立って踊るひととき、自分と同じ仲間との一体感。自分がゲイでなければ出会わなかったであろう人々。共通の理解があるからこそ、見知らぬ場所でも生まれるつながり。ゲイの友人たちがくれる深い愛情。最後まで時には文字どおり背中を押してくれ、訪ねてきて、ハグし、料理をふるまい、病院で寄り添って手をとり、痛みをユーモアに変えて笑わせてくれる仲間たち。

それからセックスも。まったく、言葉にしがたいあの底抜けの狂宴を誰かが15歳の私に教えてくれていれば、そこへたどり着く期待を胸に暗闇を進んで行けただろう。

LGBTの人たちがどんなにすばらしいか、誰かに教えてもらえればよかったのだ。大人になるに従って私が見てきた、数え切れないさまざまな次元におよぶ彼らの優しさ、勇気、不屈の強さ、気概。攻撃にさらされたときも、違いを脇に置いて戦う、あるいは不寛容な偏見を中指を立てて切り捨て、次のグラスをあおる強さ。

こうしたことを知っていれば、生きる希望がわいたはずだ。

無理な話だが、この瞬間がくるのを知っていたら、というできごとが一つある。個別のできごとだが、そうして芽生えた感情は毎年ある一日にLGBT全体で共有される。

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マーガレット・サッチャー首相。1988年

私にとってその日がやってきたのは、2009年4月のことだった。私はその日1日、記者の仕事の一環として、ゲイの人間を「矯正」しようと考える人たちの会議にひそかに潜入していた。会議では同性愛という「悪」をいかに覆すかをテーマにいくつもの講演が行われ、当事者の若い男性が実験台になった実演まであった。周到に用意された憎悪を見せられた異境の体験だった。終了後、会場を後にした私はソーホーへ向かい、ゲイバー、アドミラル・ダンカンの前に立った。10年前、同じくLGBTに嫌悪を抱いていたデヴィッド・コープランドという人物が釘爆弾を仕掛け、3人が死亡、79人が負傷した店だ。

飲みものを手に、通りを眺めた。ロンドンで一番のゲイカルチャー中心地、オールド・コンプトン通りをLGBTの人々が行き交う。手を取り合う若い男性カップル、ベビーカーを押すレズビアン女性たち、人種も階級もさまざまな人々、レザーの上下で決めた車椅子の男性、さっそうと歩くトランス女性――あらゆる人が普通にそれぞれの日常を生きている。私は自分たちが遭遇する憎悪に思いをはせた。子ども時代、大人になってから、それでも歩き続けてきた道のり。そして全身のすみずみで、これまで長年かけて築いてきたものが力強くわきあがり、涙になってあふれ出すのを感じた。それがプライドだった。

いつかこう感じる日がくるよと教師に言われても、信じられなかったかもしれない。だが誰かに教えてもらえていればと思う。ただ生き抜くために、どこからか、何らかのプライドをすばやく構築しなくてはいけないのだと。身を守るよろいがどれだけ必要なのかを教えてほしかった。とりわけ、個人を越えた領域、つまり政治において。

Steve Mayes / Steve Mayes/REX/Shutterstock, Mayes

ただ基本的な権利のためにどれだけ戦わなくてはならないか、教えておいてほしかった。例えばストレートの人と同じように軍に入隊し、敵の陣地で吹き飛ばされる権利。同性カップルが異性カップルと同じように愛を誓う権利ももちろんそうだ。血と汗と涙を流して手にした勝利がいかにほろ苦いものかも、知っておけばよかったのかもしれない。短期間のうちに物事が変化すること、同時にそれがひどくゆっくりでじれったく感じられること。カミングアウトが珍しくなくなり、法制度が次々に変わって、生活全般において表面上は変化が起きても、その裏で今でもたくさんの子どもたちが学校で日の当たらない場所に追いやられ、あざけられていること。

30年経った今でもメディアや政治家の一部、その他の人々がLGBTにこんな発言をしているのだという現実に、前もって心の準備をさせてほしかった。同性婚をめぐって下院で繰り広げられた非難と抗議の応酬。性的アイデンティティが一致しない人々に対して露呈された憎悪。トランスジェンダーは今、新たな標的になっていると言っていい。

われわれは策を練ることができたのかもしれない。

Joe Slater / Joe Slater/REX/Shutterstock

1999年、アドミラル・ダンカン爆破事件の後

だが、歴史の教訓は叫びの声をあげつづけている。とりわけ西側諸国の外で顕著だ。2013年、ロシアでセクション28に似た「非伝統的な性的関係の宣伝行為を禁じる」法が初めて制定されたのもそうだ。教師にとどまらず、(こちらも条文の曖昧さから)すべての人の声を封じる法である。暴力は急増した。同年、ナイジェリアで同性婚(禁止)法ができたときもそうだ。同性カップルの同居生活や、(こちらも漠然とした法の解釈から)同性愛者のグループに所属したり公衆の面前で手を取り合ったりするだけでも投獄による処罰の対象となる。

歴史は今も叫びつづける。英国で同性愛に関する声を法が封殺してから30年、同性愛とジェンダーアイデンティティにきちんと触れ、それとどう向き合うかを含めた性と恋愛に関する教育の義務化には至っていない。子どもたちの世代は今も、法やヘイトスピーチや流血を招く攻撃を通じて「それはセックスではない」、さらには「それは愛ではない」と言い放つ世界に対して、なすすべのないままでいるのだから。


この記事は英語から翻訳されました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan

Patrick Strudwick is a LGBT editor for BuzzFeed News and is based in London.

Contact Patrick Strudwick at patrick.strudwick@buzzfeed.com.

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