ボリウッド映画の撮影現場で受けたセクハラ、10年後の告発に支持の声

    かつて撮影現場でのセクハラに傷つき、インド映画の世界を離れて渡米したボリウッド女優がいた。10年後の今、過去を告発した彼女を支持する声が寄せられている。

    AFP=時事通信

    7月、久しぶりにインドへ戻ったタヌシュリー・ダッターは、新たな生活を始める前にしばらく両親と穏やかな時間を過ごしたいと思っていた。

    これまで数年間、アメリカで暮らしてきた。ロサンゼルスから始まってニューヨークへ渡り、今回の帰郷後にニュージャージーへ移る予定だ。郊外での暮らしは、じっくり考え、慎重にあたためてきた計画だった。自分の城であるアパートメントに暮らし、近くには友人たちが住んでいて、定収入があり、聖書を読む会に通う生活が待っている。

    かつてボリウッド映画に出演し、世界的なミスコンテストにも出場した。34歳になるダッターはここ数年、ニューヨーク近郊に住むインド出身者のイベントに姿を見せていた。そこそこの収入になったし、スポンサーにとっても金銭的に悪くない契約だった。ボリウッドスターを招けば、多くの場合、ビジネスクラスのチケット代を出してインドから来てもらわなくてはならない。2010年以降、映画への出演がないダッターは、制約もなくかかる費用も少なかった。

    だが7月、インドに降り立ったときから、ダッターは10年前に戻ったような気がした。10年前、ダッターはボリウッドのベテラン俳優でインド映画界の大物、ナーナー・パテーカルから受けた性的に不適切な行為を訴えた。今回、帰国したダッターが渦中の人となったのは、テレビのインタビューで2008年の体験を改めて告発したためだ。#MeTooの動きを通じてすでに多くの女性の話を聞いていた人々の間で、ダッターのインタビューは拡散され、インドのメディアで大きなうねりを起こした。プリヤンカ・チョープラーをはじめ、業界で発言力のある数名がダッターへの支持を表明している。

    Agreed..the world needs to #BelieveSurviviors https://t.co/ia82UsCkkq

    ダッターが率直に声をあげた勇気に対し、祖国インドでにわかに関心が高まったのには、別の背景もある。インドの映画産業にはかつてのハリウッド同様、いわゆる沈黙のおきてが存在する。たくさんの階層からなるこの業界に身を置く人なら誰でも、プロデューサーや大物俳優などが立場の弱い人を食い物にした話を山ほど知っている。だが誰も公に口にはしない。そんなことをすればこの世界にいられなくなるからだ。インドの映画界は巨大な雇用を生み出す産業で、その規模は2020年には4150億円を超えるといわれる。

    「私はこの件について声をあげるのをやめたことはありません。2008年からずっと訴えてきました」。ダッターはムンバイで電話取材に答えた。「変わった点は一つだけ、突然たくさんの人が耳を傾けるようになったんです」

    もう一つ変化があった。ダッターは一度は映画の世界を追われ、仕事仲間からも距離を置かれていたが、業界で仕事をする若手女性たちが急に協力を申し出てくれ、その証言がダッターの訴えを裏づける形になった。

    2008年、24歳だったダッターは女優としてのキャリアを歩み始めたところだった。ムンバイではまだ来たばかりのよそ者で、この世界での成功がかすかに視界に入りつつあった。3月26日、ダッターは映画『Horn OK Please』の歌と踊りの場面の撮影に臨んでいた。女優として役を得て出演していたわけでないが、インド映画では話の本筋とは直接関係のないセクシーなダンスシーンを途中にはさみ、その時代の人気女優に踊らせて、映画の興行収入増をねらう手法は一般的だ。

    ダッターによると、リハーサル中、主演のパテーカルが撮影用のセットに現れ、自分もそのシーンに出ると主張した。そしてダンスシーンの中に卑猥な動きをいくつか取り入れるよう振り付け担当のガネーシュ・アチャリヤに依頼したという(このとき現場にいた数名は、ダッターの上に身体を重ねて横たわる動作が含まれていたと証言する)。

    AFP / Getty Images

    10月8日に自宅の外で弁明のあと、取材陣に取り囲まれるパテーカル氏

    BuzzFeed Newsではパテーカルとアチャリヤ、さらに監督とプロデューサーに再三取材を申し入れたが、いずれも断られている。一方パテーカルの弁護士は、ダッターに対して謝罪を求める法的な通知を出す意向を明らかにした。また、パテーカルはテレビ局の取材に対し、「200人ほどの人が見ている前でのできごと」をなぜダッターがセクシャル・ハラスメントだと訴えているのか理解できない、との見方を示している。

    現場にいた人の証言によると、ダッターはダンスシーンのリハーサル中に突然その場を立ち去るとメイク用トレーラーに閉じこもり、出てくるのを拒んだ。やがて両親が家の車で現れ、ダッターを乗せてスタジオを離れたという。

    このとき現場にいた多数の関係者のうち二人が、当時23歳で駆け出しの記者だったジャニス・セクイラと、映画のアシスタントディレクターを務めた22歳のシャイニー・シェッティだった。今年9月、二人はダッターの訴えを支持するとTwitterで述べた

    「同じ女性として、他の女性が不快な気持ちでいればわかります。あのとき、彼女が困っているのはわかりました」とシェッティは振り返る。

    「当時、私はまだ22歳で、映画制作の現場に関わるのは初めてでした。ボンベイ(ムンバイの旧称)に来て2年になるかどうかというころです。あのとき私は何もできなくて、まだ一人前の大人になる途中でした。でも今は私たちが団結して動くことが大切です」

    現在、エンターテインメント関連のジャーナリストになったセクイラは、ダッターの告発を支援するのは重要だと話す。多数の人が見ている前でのできごとで、屈辱的な行為、いじめ、性的に不快な行為が行われたからだ。そしてセクイラ自身、そのほぼ一部始終を見ていた。

    Some incidents that take place even a decade ago remain fresh in your memory. What happened with #TanushreeDutta on the sets of “Horn Ok Please” is one such incident - I was there. #NanaPatekar [THREAD]

    ジャニス・セクイラ「10年も前のできごとが鮮明な記憶として残ることもある。あのとき撮影現場でダッターがした体験もそう。私もあの場にいた一人だった」

    「あの日、同僚のカメラマンが先に現場へ来ていて、私が後から入ってくると『何でもない、あの女優が怒ってるだけだ』と言ったんです。セットに近づいていくと、ダッターは確かに怒っているようでした。主演のパテーカル、振り付け担当のアチャリヤ、プロデューサーの3人が隅に集まって話していて、他の人はみんな脇に立ってどうしたらいいかわからずにいました」

    撮影クルーの一人になぜ中断しているのか聞いてみると、ダッターが「協力的でない」から、との答えが返ってきたという。

    それから10年にわたってボリウッドを取材してきた今のセクイラには、その言葉の意味がわかる。23歳だった当時はわからなかった。

    「振り付けのアチャリヤがダッターに何か言って、クルーがダンスシーンの何カットかを撮ろうとしました。この間パテーカルはずっとその場に立っていたんですが、カメラの前へ行くとすごく妙で卑猥な動きの踊りをダッターに一緒にさせたんです。30秒か40秒くらい経ったところで、ダッターが黙って出て行きました」

    そこで現場は騒然とした、とセクイラは言う。「大声や怒声が上がって、ダッターが閉じこもったトレーラーへ様子を見に行く人もいました」。ダッターが出てこない中、現場にいたダンサーやクルーは不満を募らせていった。パテーカルは途中でその場を離れ、姿を消していた。

    しばらくすると、トレーラーの外に何人かがやってきてダッターに抗議を始めた。セクイラは次のように振り返る。「大声を出してドアをたたいたり、出てこいと叫んだり。ギャングでした。誰に言われてやっているのかと一人に聞いてみると、『プロデューサーに頼まれた。金を取り返したいと言っている』という返事でした」

    セクイラは続ける。「これは仕事です。一人の女性が仕事をするために雇用されているわけです。彼女がその仕事を受け入れられないからといって、ギャングを連れてきて脅迫するなんて許されませんよね。きちんと話し合って、彼女の思いを受け止めて、現場で起きた一連のできごとを彼女がどう感じたのかに耳を傾けなくてはいけないはずです」

    警察が来たが、事態を収めるようなことはほとんどしなかった。「警察は明らかに、集団が現場の設備を破損することの方を気にかけていました」

    夜9時ごろ、両親が車でやってきて、ダッターを連れて帰るのをセクイラは見ていた。「撮影スタジオに車が入ってきたとたん、集団は暴徒化しました。車を取り囲んでドアをたたき、窓とサイドミラーを壊しました。ご両親は不安そうなおびえた表情で、強い恐怖を感じていたのでしょう。この集団に娘を襲われると思ったはずです」

    その後、ダッターはついにトレーラーから出てきて、両親とともに車に乗り込んだ。

    「覚えているのが、着替えられなくて衣装のままだったことです。アイテムナンバー(インド映画に挿入される歌とダンスのシーンで、セクシーな要素を含むことも多い)の撮影だったので、露出の多い衣装でした。ダッターは自分を辱めた人たちと1日同じ場所にいて、そのままの状態で家へ帰ったんです」

    当時この件を伝えたメディアは、「プロ意識に欠ける協調性のない女優が不機嫌になって起こした騒動」として報じた。

    「監督に押しつけられた肌もあらわな衣装を着た私の画像があって、すぐ隣に伝統的なインドの服をまとってガネーシャ(インドで人気のヒンドゥーの神様)に頭を下げたり貧しい農民と話をしたりしているパテーカルの画像が並べられていたら、どちらを信じると思います?」ダッターは電話取材でそう振り返った。

    セクイラは当日、現場でダッターに声をかけることはできなかったが、一連の件について話を聞かせてほしいとメッセージを送った。そして夜遅くに返答があり、カメラなしで自宅へ来てもらいたいと依頼された。

    セクイラはダッターの家を訪ねたときをこう振り返る。「彼女は明らかにずっと泣いていたようでした。ご両親は映画業界とは関係のない一般の方なのですが、動揺がおさまらない様子でした。ダッターはあんなことが起きたのが信じられない、誰ひとり味方になろうとしてくれなかったことが信じられない、と言っていました。とにかく『どうしてこんなことが起きるのか』『なぜ私はこんな状況になってしまったのか』と繰り返していました」

    あのとき、なぜダッターを擁護する声をあげる人がいなかったのか、セクイラは理解できなかったという。「反対の声をあげれば、あの力のある俳優本人とのつながりやその周辺にいる人たちとのつながりを失うことになるとわかっていたからでしょう。幸い、今の私は仕事を干されるかもしれないという不安はもうありません」

    だがパテーカルの影響力は、実は映画業界とのつながりよりも、政治家であるサッカレー家との近さによるところが大きい。サッカレー家は極右団体を率い、ムンバイで権力を振るう。2008年の騒動があったとき、パテーカルと親しいラジ・サッカレーはダッターを業界のブラックリストに載せるよう業界関係者に通達したとされる。

    インドのテレグラフ紙の取材で、パテーカルは自身がサッカレー家と親密である点に触れたほか、取材に来た女性記者にほどけた手首のひもを結び直させる、年齢をたずねる、夫は何をしているかと聞く、未婚と知ると理由をたずねるなどしている。さらに、子どもが身体に奇形をもって生まれたことで妻を責めたところ、夫婦の間が疎遠になったとも話している。

    インドの映画業界でベテラン俳優として地位を築いたパテーカルは、女性に対して激しやすい気性たびたび指摘されながらも、長年かけて作りあげてきた「善意の人」のイメージからそれを許されてきた面がある。有名なムンバイのガネーシャ祭りでは、一般の市民に交じって通りを歩く姿を見せてきた。パテーカル自身も貧しい環境で育ったため、インドの農民が直面する窮状に心を寄せているのはよく知られるところだ。

    男性ボリウッドスターの多くがいわゆる「スケールの大きな」人物像をともなう。そこからは、映画の中でも実社会でも、男性は欠点があっても構わない、乗り越えてきた過去があってこそ、と等身大の個であることが許される現実がみてとれる。だが、女性はそうではない。

    AFP=時事通信

    この一件の後、ダッターは事実上、映画の世界を去った。まだ実績もなく、確たる居場所も築いていなかった彼女がいないものとされるのはあっという間で、翌2009年は多少の仕事のオファーがあったものの、ほどなくダッターはすべての仕事から手を引いた。心の傷は深く、撮影現場へ通うのが苦しくなったという。

    「いらだったり、過呼吸になったり、頭の中にぼんやりと記憶がよみがえったりしました。なぜあの人はあんなことを言えるんだろう、どうしてあんなことするんだろう、私の将来はもう終わりかな、などと考えました。あの人たちはあんなことをしても何も言われず普通に生きているのに、と。あのころは祈ることさえ難しかった。とにかくなんとか息をしているのが精いっぱいでした」

    大勢の人が見ている現場で屈辱的な扱いをされたせいで、自分の人生すべてがさらけ出されたような気持ちにもなった。「朝起きても、やる仕事も行く職場もありません。なぜ私を生かしているのか、神様に何度もたずねました。何の目的もないと感じていました。たった一人の人のおかげで、いきなり理由なく人生を奪われてしまったんです」

    中でも、集団に囲まれて暴力にさらされたことが心の傷になり、その後何年にもわたってPTSDに悩まされた。人が集まっているのを見ると怖くなり、夜中にたびたびパニックに襲われて目が覚めた。

    「四六時中そうだったわけではないですが、心の奥にずっと残っているんです」

    心の治療を受けようとは思わなかった。「カウンセリングや心理療法を受ける女性は病んでいるか不安定な人」という間違った考えが心の中に植えつけられていたからだという。

    代わりになぐさめを見いだしたのは、スピリチュアルの世界だった。ダッターが歩んだという「旅路」の途上では、ヒマラヤの山々を自転車で巡り、ヨガの集まりや瞑想の合宿に参加し、ヴィパッサナー瞑想という人気の瞑想も実践した。

    するとある時から、少しずつ穏やかな心を取り戻せるようになり、その後、許す気持ちが芽生えてきた。今、苦しみと向き合い乗り越えるあのときの力が再び試されている。

    「ときどき、自分が話しているインタビューなどを見ていて、こうして声をあげる勇気はどこから出てきたのだろう、と思ったりします。本当の答えはわかりません。ようやく、伝えるべきメッセージを発信する伝え手になれたんだと思います」


    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan