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医療は人と人とのつながりまで介入すべきなのか? 医療人類学者が「社会的処方」に疑問を抱くわけ

医療者が患者を地域の社会的なつながりに結びつけることで、その人の健康を支えようとする「社会的処方」。それに疑問を投げかけた医療人類学者に、社会的処方の必要性を訴える緩和ケア医が対談を申し込みました。

社会的に孤立していることは、時に健康を脅かします。人との交流が乏しいと、抑うつのリスクや、認知症の発症リスク死亡のリスクまで高くなることが日本でも観察されています。

そんな問題に対し、医療者が地域でのつながりを提供して、その人の健康を社会で支える「社会的処方」という新しい取り組みが日本でも広がりつつあります。

政府の骨太方針2021では孤独・孤立対策として「いわゆる社会的処方の活用」という方針も盛り込まれました。

しかし、そんな動きに対して、医療人類学者の磯野真穂さんが「人間関係まで専門家に処方してもらわないと、私たちはつながれないのか?」と疑問を投げかけました。

社会的処方研究所」を作り、社会的処方を推進する緩和ケア医、西智弘さんと磯野さんの対話をお届けします。

きっかけは磯野さんの「社会的処方」に対する批判

きっかけは、磯野真穂さんが取材を受けた2021年4月の記事「医療人類学から考えるコロナ下の生と死―一度しかない最期の別れを奪っていいのか」で、「社会的処方」を批判したことです。

「最近、医者が孤独な人につながりを処方する『社会的処方』という試みが注目されています。もちろん孤独の問題に医療者が気付き、何とかしようと思うのは当然だと思います。しかし非医療者の私たちは、そこに疑問を投げ掛けるべきではないでしょうか。人間関係まで専門家に処方してもらわないと、私たちはつながれないのでしょうか。つながることすらも専門家にアウトソースされてしまう状況を手放しで称賛するような空気には、あえて疑問を呈していきたい」


これを読んだ西さんは、「とても興味深い批判です。私が提案する社会的処方のあり方は、磯野さんの批判とは真逆の『医療の民主化(健康に関わる問題を市民の手に取り戻そう)』の推進に基づいたものだからです」と対談をBuzzFeedに提案しました。

快諾した磯野さんは、西さんの編著書『社会的処方: 孤立という病を地域のつながりで治す方法』(学芸出版社)を読んで、対談に臨んでくれました。

医療者が生活の隅々にまで指示を出したコロナ禍

——磯野さんが、なぜ孤独や人間関係にまで医療が介入しなければならないのか疑問を呈したところから、この対談が実現しました。磯野さんの批判を西さんはどう受け止めましたか?

西:よくある疑問ですし、確かにその通りだなとも思いました。これについて議論することで、孤立支援のあるべき姿や、他にこういう方法があるのではないかと新しい道を見出せるのではないかという期待があります。

まず、コロナに関するインタビュー記事で、なぜ社会的処方について触れたのか知りたいです。

磯野:コロナが流行して、私が人類学者として違和感を持ったのは、医療側から生活の隅々までああしろ、こうしろという指示が飛び、かつそれがある種の脅しのような形で行われたことです。

「あなたの無自覚な行動のせいで、あなたの大切な人が死ぬかもしれない」というような自責感を煽る言葉と共に、「人と会うな」とか「成人式に行くな」とか「会食に行くな」とか、「若者が自覚がない」という言葉が投げかけられました。それは私から見ると、非常に安易な警告に見えたのです。

加えて、いく人かの医療者からは、「現場を知らない、知識のない素人が知ったようなことを言うな」といったメッセージも発せられ、それを非医療者が手放しで称賛するような空気もありました。

現場でご苦労なさっていた医療者の方は私の周りにもいます。しかし、医療者は病気の専門家ではあっても、暮らしについての専門家ではありません。

にもかかわらず、医療の視点が暮らしの隅々に行き渡り、医療の指示のもと暮らしを再編することが「正しい」かのようなアドバイスが溢れました。

西さんがご覧になったインタビューはかなり前なので、詳細を覚えてませんが、そのような話の流れの中、人と人とのつながりまで医療者に処方してもらわないといけないのはおかしいのではないかという、「社会的処方」に対する批判を口にしたのだと思います。

西:「社会的処方」の概念が注目されてきたのはコロナよりも前の話で、僕が『社会的処方』という本を出したのも、コロナの流行が始まったばかりの2020年2月です。

その前から、イギリスを中心に孤立と孤独が寿命を縮めるなど医療の問題にもなり、医療だけでなくみんなでできることをやっていきましょうという動きが出ていました。

日本でも、健康を考えた時に孤立という問題を放置するわけにはいかないということで「社会的処方」が出てきました。その頃にたまたまコロナ流行が始まり、より社会的分断や孤立が促進されたので、国も「社会的処方」を骨太の方針の中で取り上げるようになったのです。

社会的処方はコロナの文脈の中で突然出てきたものではないのです。しかし、コロナを契機に注目されるようになったのは確かです。

人とつながることが専門家によって発注され、医療者が「これが正しい生き方だ」という道を示し過ぎている嫌いは確かにあるのかもしれません。

「処方」という医療の言葉への違和感

磯野:はい、社会的処方がコロナ前からある取り組みであることは存じていましたが、西さんの御本は、この対談が決まってから拝読しました。

本を拝読して、「処方」という言葉と西さんが実際になされている活動との間にかなりの距離を感じました。

いろいろな地域での活動を「社会的処方」の実例としてたくさん紹介していて、その一つ一つは大変面白く、かつ感銘を受けたのですが、それと「処方」という言葉の相性は良くないと感じます。

西:イギリスで使われている「social prescribing」を、単純に「社会的処方」と日本語訳して使っているだけなのです。

そして「社会的処方」という言葉は、医療の枠組みで使われることがとても多い。医療者が「リンクワーカー」と呼ばれる人に患者を紹介して、その人が地域のグループに患者さんをつなげる枠組みです。

「社会的処方」というと、なぜか医療者が患者さんに紹介する、という方法が強調されがちです。でも実際には、リンクワーカーのように間をつなぐ人が中心だったりします。

イギリスのフルームという町では、「リンクワーカー」は「ヘルスコネクター(医療のつなぎ役)」という医療専門職と、「コミュニティコネクター(地域のつなぎ役)」という地域の住民ボランティアに分かれています。

専門職は十数人しかいないのですが、コミュニティコネクターは1000人単位で街の中で役に立てることをやりますよ、という姿勢で活動しています。

両輪が回りながら、地域の中で孤立・孤独の問題に取り組んでいるのです。

「社会的処方」という言葉だと、医療者が起点になってつながっていくように見えてしまうし、確かに日本の中では医療を起点に捉えられている節があります。しかし、医療者や専門職はこの仕組みの一部分でしかないのです。

実際に街の中では、地域のお節介おばさんとかお節介おじさんがネットワークを作りながら孤立している人とゆるくつながっています。それがコミュニティ全体のネットワークにもつながっていく。

あくまでも「市民活動」なので、そこに目を向ける場合は、「社会的処方」という言葉はあえて使わない方がいいかもしれません。

厚労省、政府が国の政策として推し進めることの意味

磯野:伝統的な社会では、人が緩やかにつながり、向こう三軒両隣で何が起こっているかが何となくわかっている状態がありました。それは暖かくも、煩わしい関係ですが、いずれにしても、いやでも繋がっていないと生きていけないような環境がそこにはあった。

しかし資本主義社会が進み、多くの技術やサービスが開発される中、そのような共在のあり方は減った結果、意図せず孤立してしまう人が出てくるようになりました。

その方達を必要に応じ、何らかの形で「つながり」に戻していこうという試み自体は、私も賛成です。本の中で書かれているさまざまな取り組みも、そういうことを目指しているのだろうと感じています。

とはいえ、たとえば政府や厚生労働省が「社会的処方」に注目し始め、仮に政策として取り入れたとすると、どんなことが起こると予想されていますか?どんなことが起きればいいのでしょう。

西:「向こう三軒両隣」のようなパブリック(公共)の関係性が縮小していくなかで、地域のしがらみのようなものを取り戻そうとは思いません。

でも、結婚が当たり前ではなくなり、LGBTQなど人の生き方、つながり方が多様となっている社会で、人は孤立しやすくなっています。孤立して苦しむ状況にブレーキをかける可能性が社会的処方にはあるのではないかと思うのです。

家族という単位以外にも人と人がつながり合うことはできるし、ビジネスとプライベートの間に、本来はパブリックがあると思います。PTA活動や町内会活動もその一つかもしれません。そうした公共の関係性に自分の力や時間を使っていくことは大事なことだよね、という文化が根付いていくといいなと思うのです。

これを医療者が大事だと考えるのは、孤立や孤独を放っておくと寿命が縮むとか認知症が悪化するから、それを防ぎたいという医療的な下心があるからです。

でも医療の文脈だけで「このつながり方が正しい」と主張しても一方的ですし、パワーが弱い。そこで国が「みんなにとって大事な活動ですよ」と言ってくれると、「政府もこう推し進めている」と言いやすい面はあります。

磯野:なるほど。たとえば政府が推進し、制度化されると、「社会的処方を1件行えば診療報酬で○○点つく」という形になるのでしょうか?

西:それは期待していません。「社会的処方」を進めることで診療報酬をもらえるようにした方がいい、利益誘導した方がいいという意見も確かにあります。僕や社会的処方に関わっている先生たちは懸命に止めている感じです。

診療報酬体系に組み込み、人と人とをつなげる行為が金銭に置き換わると危ない。つながることを強制することや、「孤立しないことは正しいことである」という考えを押し付ける暴力になる危険性があります。

また、金銭で誘導して、「儲かるから俺たちもやる」という動機で関わるのはまずいと思っています。少なくとも処方する医者につけるべきではない。

もし予算をつけるなら、処方される側や間をつなぐ支援者につけることには賛成です。「何件つなげたから、お金をいくらください」と「成果」を主張し出すのは危険だとも思います。そうなると強制力が働きかねません。

「社会的処方」は医療者が患者の生活に目を向けるきっかけに?

磯野:病気を治したり、付き合っていく過程において、人と人とのつながりがなくてはならないことを医療者に気づいてもらうため、「社会的処方」という言葉が有効であるとお考えなのでしょうか?

西:これまで、医者の仕事は病気を治すことであり、患者さんが関わる社会のことや生活のことは専門外だし、あとは自分で何とかしてくれという文化がありました。

しかし、最近になって、緩和ケアでも、その人の暮らす社会や生き方に医療も踏み込まなければいけないという流れができてきました。

孤立・孤独という問題も患者さんの健康状態と関わりがあるし、医療者も目を向けていかなければならないですよねと問いかける意味でも、社会的処方は都合がいい言葉なんです。

磯野:おっしゃることはすべて賛成で何の違和感もありません。

ただ、社会的処方に賛同するお医者さんがカジュアルに「薬ではなくつながりを処方しよう」と言うのを聞くと、やはり違和感しかないのです。

西さんがおっしゃるような意味でのつながりの必要性については、私も全く同意します。でもつながりが薬を処方するかのように処方されるようになったら人間は終わりだろうと思うのです。

——「つながりを処方されたら終わり」という言葉がありましたが、磯野さんはつながりをどのようなものだと考えているのですか? 

磯野:つながりというのは、それぞれのコミュニティの中で下から立ち上がってくるものだと思います。上から与えられるものではない。

例を挙げれば、友達はクラスの先生から「処方される」ものではなく、休み時間をだらっと過ごしたりする中で見出されてゆくものではないでしょうか。

また「処方」は日本の社会において、お医者さんが占有的に持っている権利です。西さんは、社会的処方の取り組みを「医療の民主化」だとおっしゃっていますが、「処方」の意味を踏まえると、それは民主化と相反します。

西:一般的に「処方」と使うときは、「この薬を飲みなさい」と強制力を伴う命令形の世界だと思います。

患者さんが処方薬を自由に選んで飲むわけにはいきません。専門家がこれがいいと判断して出しているのだから、患者はそれに従って飲むことを期待されています。

その意味で、「社会的処方」という言葉を医者が誤解してしまうと、患者に悪い結果をもたらしかねません。医者が強制的に指示することではなくて、市民活動の中から立ち上ってくるものの中に医療者が参加させてもらう枠組みだと僕は強調しています。

磯野:そうなると、ますます「処方」ではないですよね。

西:「処方」という言葉が危険だという意味はわかります。

「医療の民主化」とは何?

磯野:きっとこの対談を記事で目にした方は、「たかが言葉じゃないか、揚げ足取りだ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、私はそうは思わない。言葉は力を持つからです。実際にやられていることと、それを示す言葉の距離が離れすぎていると、言葉だけが一人歩きします。

例えば、「人助け」を「殺人」と呼んだとしましょう。人助けの現場を見ている人なら、それが何らかの理由で「殺人」と呼ばれたとしても、そこで実際行われているのは「人助け」だと思えるかもしれない。でもその文脈を知らず、「殺人」を「人助け」と考えることはまず無理です。言葉の本来の持っている意味が強すぎるので。

同じように、「社会的処方」を言葉だけ聞いた人は、西さんが説明しているような意味で「処方」を捉えないと思います。「処方」は医師から与えられ、患者は変えることができない一方向的な指示ですから。

他方、処方という言葉は医師にとっての日常語です。しっくりくるし、持ち手が増えるという意味で、心強いのだろうとも想像します。

西さんが「医療の民主化」と言う時、どんなことを思い浮かべているのですか?

西:昔ながらのパターナリスティック(父権主義的)な医療は、医者が治療方針を決めて、これがあなたにとってベストな治療法です、と指示して進めるやり方です。

それに対し、僕が言う「医療の民主化」は、まずあなたはどういう人間で、どういう生き方をしてきて、これからどういう感じで生活していきたいと思っていますか?ということを患者さんに問いかけるところから始まります。

僕は専門家なのでエビデンス(科学的根拠)に基づいた治療の選択肢をいくつか持っていますが、「あなたに一番合う治療法はどれですかね?」と会話をしながら一緒に決めていく。僕は情報提供したり、伴走したりする立場であって、治療法を決めるのはあくまでも本人や家族です

そんな風に、医療を使いながら自分で自分の生き方を決めていくことを、僕らが専門家として支えていくことが医療の民主化だと思っています。もちろん「先生にお任せします」というなら、それもそれでその人の生き方だと思います。

磯野さんと進行性の乳がんを抱えていた哲学者、宮野真生子さんの往復書簡集『急に具合が悪くなる』(晶文社)を読みました。

この本でも書かれているように、医者は「あなたは僕の言うとおりにした方が一番いい未来を迎えられる」と、無意識に一つの方向に向かって患者さんの物語を作り上げていこうとしがちです。

宮野さんも違和感を訴えていますが、僕もその違和感が理解できます。

昔、僕は患者さんからこう言われたことがあります。

「自分の状況は先生の説明の通りだと思うけれど、先生の言う通りにすれば、自分の未来は医者に敷かれたレールを走っているに過ぎなくなる。僕を先生のレールに乗せるのはやめてくれ」

僕はすごくショックを受けました。患者さんはそういう風に思っているのかと。おそらく僕は一つの方向に誘導しようとするリスクの強調の仕方や、その人の生き方を否定するような説明の仕方をしていたのでしょう。

医療は医者のものではなくて、患者さんの幸せや人生のためのものです。どのような選択肢を選ぶかは、その人の生き方の表現です。医療の観点からベストな選択ではなくても、患者さんが選んだ表現をどう支えるかを考えるのがプロなのではないかと思っています。

社会から医療が奪ったものを返していく試み?

磯野:『急に具合が悪くなる』では、医療人類学でよく知られた枠組みを紹介しています。それが「民間セクター」「民俗セクター」「専門職セクター」です。医師という国家資格を持つ西さんは「専門職セクター」に入ります。

他方「民間セクター」は、まさに『社会的処方』で西さんが描かれている、人々が多様な形でつながりながら暮らしている、いってみれば普段の暮らしの領域です。

そしてこの3セクターを考える際に大切なのは、人は、体の不調を抱えたとき、いきなり専門職セクターに頼るのではなく、まずは民間セクターで何とかしようとすることです。

これまでの経験値で家にある薬を飲んだり、睡眠を増やしてみたり、家族や近所、友達のアドバイスに従ったりする。意外と人はかなりの不調をこの民間セクターで解決している。最近はネットで調べるというのもよくあるでしょう。

でもそれでも調子が良くならない時があります。そんな時人は「専門職セクター」であるクリニックや病院に行き、専門家の知見を得ようとします。

「社会的処方」でしようとしていることは、民間セクターの中に元々内在する、つながりの資源を、医療者側が把握し、必要な人に紹介する活動なのではないでしょうか?

西さんの御本を読み、「社会的処方」とは専門職セクターと民間セクターのパイプをしっかりつなぐ、試みだと感じたのです。

西:その通りです。

磯野:でもその活動に「処方」という言葉を当てると、民間セクターに元々あったものを、医療側が管理する、というニュアンスがどうしても出てしまう。

コロナに限らず、私たちの暮らしはどんどん医療化されています。他方で、そうやって何でも医療が介入して、現代医学で全てが解決できるかといえばそうではない。

それに気づいたからこそ、西さんは、従来の医療とは異なる流れを作り出そうとされている。

その意味で、西さんが目指されているのは、医療化とは逆の医療が社会から奪い過ぎてしまったものを、社会に返していく試みではないでしょうか。

だからこそ、その活動に当てられる言葉は、「処方」といった医師の占有権を自ずから表す言葉でないことを願うのです。

(続く)

【磯野真穂(いその・まほ)】医療人類学者

人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。

早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップ、読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開講。

著書に『他者と生きるーリスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。(オフィシャルサイト / Blog)

【西智弘(にし・ともひろ)】川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科医

2005年北海道大学卒。家庭医療を中心に初期研修後、緩和ケア・腫瘍内科の専門研修を受ける。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。

一方で「暮らしの保健室」や「社会的処方研究所」を運営する一般社団法人「プラスケア」を起業し、院外に活動の場を広げている。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。

『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『がんを抱えて、自分らしく生きたい がんと共に生きた人が緩和ケア医に伝えた10の言葉』(PHP研究所)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)、『だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(晶文社)、『わたしたちの暮らしにある人生会議』(金芳堂)など著書多数。