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妊娠と同時に子宮頸がんが見つかった女性の話

長男出産という喜ばしい日は、子宮を全摘した日でもありました。

今年1月の終わり、「明日、広汎子宮全摘と出産を同時にします」という件名のメールが届きました。

差出人は司会業の会社を経営する社長、森田美佐子さん(46)。妊娠と同時に初期の子宮頸がんが見つかり、帝王切開で出産するのと同時に、子宮を全摘するというのです。

子宮頸がんで子宮を全摘した理系女子が伝えたいこと」という記事を読んで、「(記事に出てくる)ひとみさんと同じように、全く問題ないと言われていたのに、数ヶ月後にいきなり子宮頸がんとわかりました」「明日頑張ろうと思えました。記事を見つけられて良かったです」と書いてきてくださいました。

翌日、無事長男の凛くんを出産し、手術も成功しました。

20〜40代の子育て世代に発症することが多く、「マザーキラー」とも呼ばれる子宮頸がん。がんの進行と胎児の成長とのギリギリ安全なバランスを考えながら不安な気持ちで妊娠期間を過ごした森田さんに、出産後、じっくりお話を伺いました。

不正出血で異変に気付き、妊娠も発覚

体に異変を感じたのは昨年6月下旬、現在は夫である恋人とセックスした後のことです。鮮血の不正出血があり不安になりましたが、前年10月の子宮頸がん検診で異常なしと言われてから1年も経っていませんでした。

10代の頃から生理不順で婦人科に通い、20歳になった頃からピルを飲んで生理周期を整えていました。17歳の時に父親をすい臓がんで亡くしてから、自分もいつかがんになるに違いないと、子宮頸がん検診は欠かさず受けていました。

更年期になってホルモンバランスが崩れているのかもしれないと考え、翌月、かかりつけの婦人科を受診しました。

2週間後に結果を聞きに行くと、「高度異形成の疑いがあります」と言われました。高度異形成とは、子宮頸がんになる一歩手前の前がん病変です。

(10月に異常なしだったのに、高度異形成なの?)

なぜ前の検診で見つからなかったのか苛立ちを感じながら、大学病院を紹介してもらい、精密検査をしている時に医師からさらに驚くべきことを言われました。

「あれ? 妊娠しているかなあ」

45歳になってからは、もうさすがに妊娠することはないだろうと避妊もおざなりになっていました。生理が遅れているのは更年期のせいだろうと思っていたので、びっくりしました。でも、すぐに心は決まりました。

「聞いた瞬間、産めるならラストチャンスだと思って産もうと決めました」

妊娠継続の希望を伝えると、拡大鏡で子宮頸部を診ながら組織を採取する精密検査は胎児がもう少し大きくなってから出ないとできないことを伝えられ、数ヶ月先の予約を入れられました。

(そんな先で大丈夫?)と不安になりましたが、仕方ありません。その足ですぐに恋人の自宅に向かい、子宮頸がんの疑いがあることと妊娠を同時に伝えました。「まじ?」。喜ぶというより彼は戸惑っていました。赤ちゃんとがんの不安を抱える生活が始まりました。

胎児の健康とがんの進行のバランス

その年の9月には拡大鏡を使った精密検査をして、がんであること、そして卵巣などに転移しやすい「腺がん」の疑いがあることも告げられました。同じ日に受けた妊婦健診のエコー検査で見た子供は元気に動き回っており、そのモニターを見ているうちに涙があふれました。

「がんへの不安よりも、『私は無事に赤ちゃんを産めるのだろうか』という心配しかありませんでした」

赤ちゃんがお腹の外に出ても順調に育つギリギリのタイミングと、がんの進行との生と死を賭けたせめぎ合いです。

10月頭には子宮頸部の一部を切り取る「円錐切除手術」を受け、病理検査の結果、がんは周囲の組織に転移する恐れがある浸潤がんにまで進行しており、子宮頸がんでは多い「扁平上皮がん」という種類に加え、転移しやすい「腺がん」も含まれていたことが確定しました。

年齢のこともあり、主治医からは「本来なら即、全摘手術ですが、あなたの場合は最初で最後の出産の機会でしょうから、28週まで頑張って産めるなら産みましょう。ただし、それまでにがんが進行したら諦めてください」と言われました。

MRI(磁気共鳴画像)検査でも異常は見られず、羊水検査で胎児にも染色体異常は見られませんでした。結婚し、出産予定日まで1ヶ月を切った12月半ば、主治医から電話がありました。

「産婦人科で会議をした結果、28週だと赤ちゃんの肺や網膜に後遺症が残るかもしれないので、30週ぐらいまで妊娠継続をした方がいいと思います。2週間延ばすならばがんにも影響はないかと・・・」と相談がありました。

MRIで再度、転移がないかを詳しく調べ、30週2日での出産に延期しました。

がんの状態を睨みながら、できるだけ長く赤ちゃんがお腹の中に居られるようにギリギリの判断です。森田さんはこの判断について、

「実は私のせいで早く産んでごめんとは1ミリも思っていない」と、同時進行で記録していたブログに書いています。

なぜなら

二人で生き延びなければ意味がないからだ

Pをはじめ、母、義父母、K、仕事でお世話になっている皆さん、本気で応援してくれている友人たち、病院の先生&スタッフ・・・

私の出産を許してくれた人たち皆に

これから恩返ししなくてはいけない

だから二人とも生き延びなければいけない

この出産と手術のタイミングが

二人にとって最善

ベストなのだと信じて疑わない

(2018年1月11日ブログ【未熟児網膜症】より)

28週で出産する予定だった時は、肺が未熟でしょうから、人工呼吸器をつけることになるのかが心配でした。30週に予定日が延びて、今度は目が心配になりました。それでも、このタイミングがベストだと信じたのは、17歳の時にすい臓がんで亡くした父のことも頭にあったからです。

「父ががんになった頃、私は反抗期でろくに病院にも行きませんでした。普通の女性なら反抗期が終わればまた仲良くなれて、父娘でデートもできたでしょうけれども、私はそれができず寂しい思いをしました。父が行かせたがっていた大学も奨学金を借りて進学しました。せめて20歳まで生きてほしかったので、私も産むと決めたからには、あと20年は生きようと決意したんです」

出産後、即子宮摘出

妊娠中は様々なトラブルが起きました。逆子になり、妊娠糖尿病も発症しました。直前には、子宮頸管の長さが22ミリと短くなり切迫早産となったため、予定を1週間前倒しで入院することになりました。入院と同時にインフルエンザにもかかっていることがわかり、ただでさえ不安なのに、最後まで落ち着いて過ごすことはできませんでした。

ところが、出産2日前の手術説明で、女性の医師は「あなたは本当にラッキー」と言いました。

「今、妊娠中に子宮頸がんが見つかる方がとても増えているんです。先日、出産まで待てなくてがんの手術と同時に中絶した方がいました。20代です。だからあなたは本当にラッキーですよ。最後に切迫早産になりましたけど、よくここまできました」

森田さんはボロボロ泣いてしまいました。

「私は20代で卵巣嚢腫の手術もしましたし、いつかがんになると思って生きてきたのに、健康な時にはやはりどこかがんは他人事でした。今回、とても大変な思いをしましたが、20代で妊娠がわかった時にそんなことになったらと想像したら、切なくてたまらなくなったのです」

そして手術当日、出産のための帝王切開は部分麻酔で行い、生まれた瞬間、大きな泣き声が手術室に響きました。

「ああ、息をしてくれた!」

嬉しくてただ涙が出ました。1492グラムの男の子。目標の1500グラムにはあと少し足りなかったのですが、ただ生まれてきてくれただけで幸せでした。

妊娠中、流産を疑った時に夫に「凛としていなさい」と励まされたのがきっかけでお腹の子に「りんりん」と声をかけていました。息子は凛と名付けました。

息子との初の対面直後に全身麻酔がかけられ、子宮や卵巣が摘出されました。

手術後の後遺症、子供の成長の喜び

手術後、排尿訓練も順調に進み、少しずつ回復していたかのように見えました。しかし、5日後に腹痛がひどくなり、ガスや便も出なくなりました。開腹手術の後遺症である軽い腸閉塞を起こしたのです。

絶食となり、その後1週間、鼻から胃に管を入れてガスを抜くなどしました。お腹の激痛で一睡もできず、昼間も朦朧として、体力は消耗しました。

手術後1週間で、今度はリンパ浮腫も左脚に現れました。リンパ節を切除したことでリンパ液がうまく流れなくなり、むくみが出るのです。左脚は右脚の1.5倍ぐらいに膨れ上がり、司会業として見た目に人一倍気を使ってきた身としては、「二度と人前に立てなくなるかもしれない」と気分が落ち込みました。

その後、自分でインターネットで調べ、着圧の強い市販のストッキングを買って履くと、徐々に改善されました。

「リンパ浮腫については手術前に説明の入った冊子を渡されただけで、弾性ストッキングがあることもマッサージの仕方も病院からは何も言われませんでした。退院する時も靴が履けない状態で、本当に一人悩みました」

救いは毎日NICU(新生児集中治療室)に会いに行く、息子の成長でした。抱っこすると自分のことがわかるように目を見開き、愛おしさが日々増していきます。

「正直、この年まで子供を産もうなんて考えたこともなかったのに、可愛くてたまらない。小さく生まれたということ以外、特に病気もなく、30週2日までお腹で育てることを提案してくださった病院に心から感謝しました」

そして、摘出した組織の病理検査の結果、転移などは見当たらず、抗がん剤や放射線治療はしなくてもいいことになりました。

「これから子供を育てていくのに、追加の治療をしなくていいと決まりとてもホッとしました。でももう無理はできないと思って、司会業からは引退し、今後は会社の経営だけに集中することにしたのです」

1ヶ月もの長い入院生活を経て森田さんは一足先に退院し、その後も母乳を搾っては毎日病院の息子の元へ通いました。そして、3月19日、無事息子も退院しました。体重は2566グラムに増え、親子3人での生活が始まっています。

健康な人でも何があるかわからない

今は毎月、病院に経過観察に通う森田さん。CT検査は半年に1回受け、今後も後遺症と一生付き合い、再発の不安を持ち続けなければならないと言います。

「がん検診は欠かさず、ジムには仕事をしながらほぼ毎日通い、食べ物のバランスにも気をつけていた自他共に認める『健康オタク』でした。できるだけ健康に気をつけて、いつかががんになるだろうと心の準備もしていたのに、やはり、実際になってみると慌てるものです。そして、想像していたよりもずっと大変でした」

子宮頸がんの中でも腺がんは性交渉で感染するHPV(ヒトパピローマウイルス)との関連が薄いとされていますが、大半を占める扁平上皮がんはHPVが原因となります。

HPVの感染を防ぐHPVワクチンについて、森田さんは、「自分の子供が女の子だったら受けさせただろう」と言います。

「やはり、子宮頸がんになるととても大変ですから、薬で防げるものは防ぎたい。今、息子が生まれてワクチン接種のお知らせが次々に来ていますが、その説明の中にはワクチンをうった後に亡くなったり、重大な後遺症があったりするというリスクも書かれています」

「それでも親としてはリスクとメリットを天秤にかけて決めるしかない。100%安全ということはないですし、様々な確率があって生きている中で、いつどんなことが起きるかわからないという物事の一つなのだと思います」

そして、ワクチンと同時にとても重要だと実感しているのが、早期発見です。

「私は直前の検診ではたまたま見つからなかったわけですが、不正出血があった時におかしいと思ってすぐ病院にいきました。少しでも早く病気を見つけるのは大事なことですし、私は早く病院に行ったから息子も無事授かることができたのだと思います。おかしいと思った時にすぐに気づけるように、女性には普段から自分の体の変化には敏感になってもらいたいし、検診や検査を迷うべきではないと思います」

だから、自分の体験談を多くの人に伝えることを決めたのだと言います。

「私がいたのは大学病院だったので、毎日のように子宮頸がんの患者さんが入院して来ました。こんなに痛くて、辛くて、苦しい思いをする人が一人でも少なくなればいいと心の底から思います」

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