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命を選別する言葉にどう抗うか 詩人の岩崎航さん「私たちには今、人を生かす言葉が必要」

「障害者は不幸を作ることしかできない」として19人を刺殺した相模原事件から4年。優生思想の言葉が繰り返される中、今、私たちにはどのような言葉が必要か、筋ジストロフィーの詩人、岩崎航さんに聞いた。

相模原市の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」で、元施設職員の植松聖死刑囚が2016年7月26日未明、入所者19人を刺殺し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた「相模原事件」から4年。

今年3月に死刑判決も確定したが、何かが解決した気はしない。

「命、選別しないと駄目だと思いますよ。はっきり言いますけど、なんでかと言いますとその選択が政治なんですよ」

最近では、重度障害者2人を国会に送り出したれいわ新選組の大西つねき氏が「命の選別」を肯定する発言をして除籍処分され、謝罪と発言撤回を取り消す会見も開いた。

ALSの女性の依頼に応じて、医師が薬を投与して死なせたとされる嘱託殺人事件も起きた。

相模原事件の2ヶ月後には元アナウンサーの長谷川豊氏が「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ!」とブログに書いた。

2018年7月には自民党の杉田水脈議員が「(LGBTは)生産性がない」と雑誌に書いた。

同年12月、若手論客の落合陽一さん、古市憲寿さんは雑誌の対談で「(高齢者に)『最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」と語った。

繰り返し表に現れる優生思想の言葉に私たちはどう立ち向かえばいいのか。

筋ジストロフィーがあり、生活の全てに介助を必要とする詩人の岩崎航さんに暴力に抗い、命を肯定する言葉についてお話を伺った。

「次の事件が起きる怖さが今の社会にはある」

ーー相模原事件から4年が経ち、判決も出ました。何か解決したという感覚はありますか? 世の中はあれから良くなっているでしょうか?

裁判上、そういう締めくくりになったわけで、事件としては区切りがついたという形になるのでしょう。ただ、それによって解決という話にはならないと思います。

それによって社会が良くなったということも感じられません。ただ、予想はされていた判決ですが、「だめなものはだめだ」と一番重い量刑が出たことについては妥当だったと思います。

ーーただ、岩崎さんは死刑判決に反対されていました。

その気持ちは変わっていないです。他人が作った条件によって生きていていいのか死んでいいのかを判断するという意味では植松死刑囚と同じとも言えるかもしれません。だから、死刑には賛成ができない。終身刑があったら良かったです。

また、植松死刑囚と同様の考え、もしくはそれに近い考えはなくなっていません。むしろ、次にまた同じようなことが起きるのではないかという不安のほうが強い。

あんな事件は再び起こしてはなりませんが、今の社会で再び起きないとは言い切れません。一度、表に出てきてしまうと、再び似たようなことが起きやすくなってしまったのではないかと危惧します。

ALSの患者を医師が死なせた なぜ女性は生きられなかったか

――ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者の求めに応じて薬を投与し死なせたとして、2人の医師が嘱託殺人容疑で逮捕されました。非常にショックの大きい事件です。

事件を知ったとき、ただただ恐ろしく思いました。危惧が現実になってしまったことにショックを受けました。

事件の内容は、現在、報道で出ている範囲でしか分かりませんが、まず思ったのは、様々な背景があったのだとしても、亡くなった患者女性のことをけっして責めてはいけないということ。

そしてこの事件は、殺人であって、いかなる理由があろうと、犯行を容認する余地はないということです。

――医師の一人は医療行為に紛れて認知症の高齢者や寝たきりの高齢者をいかに殺すかという電子書籍も出していました。いわば、確信犯と言えるかもしれません。医療者にもこのような思想を持った人がいることについてどう思いましたか?

そうした著書を出していたことも含め、容疑者医師がSNSに出している言葉を読みましたが、障害のある高齢者を侮蔑した読むに堪えない暴言の数々に、恐ろしくなりました。予期して身構えて読んでも精神的にダメージを受けます。言葉は凶器にもなることをあらためて思い知らされました。

差別思想を持つかどうかは、最終的には個人の問題なので、職業的属性と結びつけないで見るべきですが、侮蔑的な目で患者を見て、頼まれれば実際に命を絶つまで行ってしまう医療者が世の中にいることが恐いです。

病や障害を持って生きる人にとって、医療者の伴走はなくてはならないものです。とりわけ医師は、患者の生活や人生を左右するほどの影響力を持っています。それだけに人権感覚を失ってはならないと思います。

――インターネットの意見の中には、医師の無罪を主張したり、医師の意見に賛同したりする言葉も目立ちます。

事件を伝えるニュースを受けたネット上には、医師の行為に賛同したり、意見に同調したりする言葉が溢れていました。その量の多さに、暗澹たる思いです。

しかし、あまりここでの現象を引きずって気弱になってはいけないと思います。

事件に衝撃を受けた私たちができることは、容疑者医師の差別的な言葉を追って、短絡して安楽死是非論争に飛び込むのではなく、亡くなった女性が辛い思いを書いていたブログの文章を丁寧に読んで、なぜ、女性が、切実に安楽死を望むほど、生きることを辛く感じていたのかを考えることではないかと思います。

全身動かない体で生きる状況になると分かったとき、死にたいと思わない人は少ないでしょう。生きていても辛いだけだと悲しみに暮れるのが人の自然な感情です。

私もまだ動ける病状だった17歳のとき、死にたいと思っていました。崖っぷちに立って揺れ動いているとき、生きる方向に風が吹くかどうかは、一人ではどうにもできません。

当時、もし辛いできごとが他に同時にいくつも重なっていたら、私もこうして生きていなかったかもしれません。また生きていても、死を切望していたかもしれません。

ブログには、24時間人の手を借りないと生きられないことで悲しく惨めな思いをした気持ち、常に介護者のことで悩んでいたことも、書かれていました。

ネットでやり取りをしたことのあった同じ病気の人が後にTLS(Totally locked-in state 完全閉じ込め状態。意識や思考能力は正常のまま、他者と意思疎通ができない状態)になったと人づてに聞いたことも、書かれていました。

どれほど恐くて不安でいっぱいだっただろうかとその心情を思うと胸が痛みます。

揺れ動きながら、生きていこうとする気持ちが灯りかかっていたことも感じられます。

生きたいか、死にたいかは個人それぞれの自由なのだから、「本人が望むなら安楽死を認めたらいい」と突き放すのではなく、死にたくなるほど辛い状況を取り除くにはどうしたらよいのか。生きることが絶望にならず、死ぬことだけが希望にならないようにするためにできることはないのかと考える「伴走」の態度が必要なのではないでしょうか。

直接に関わりのない人であっても、世の中の階調をそのように変えていくことはできるはずです。この日本において、今、それが行えているとはいえません。

れいわ・大西氏の「命の選別」発言

ーー最近では、れいわ新選組の大西つねき氏が高齢者について「命の選別」を肯定する発言をしました。重度障害者2人を国政に送り込み、「人は生きているだけで価値がある」と主張してきたれいわ内部からこういう言葉が出たことについてショックを受けておられましたね。

重度障害者を国政に送り出す、それもかなり重度な障害者を送り出すことはどこもなし得なかったことです。山本太郎代表の考え、舩後靖彦、木村英子両氏の熱意ある訴えが多くの人の気持ちを動かし、支持を集めて当選しました。

その後の二人の国会活動を見ても、当事者ならではの役割を果たそうとしていることが伝わってきます。

質問についても、当事者の声を政治の場にダイレクトに届けて制度を動かしている。とても希望が持てることであり、弱い立場の人も尊重されて、社会の中でやっていけることを示しました。

その党に所属する人が、公開動画であのような発言をしたことは残念の一言です。

除籍処分をしたわけですけれども、その間の対応も遅かったという批判がありました。しかも本人は、容認できない危険な差別発言を公の場でして、一度は非を認めて謝罪して動画を取り下げたにもかかわらず、すぐに動画を再公開して、最終的には、謝罪も発言撤回も取り消しました。

落選した人であっても選挙に出てその後も政治活動に携わってきたのですから、その発言や行動は、政治家として問われます。二転三転した言葉からは、到底、信が置けないのではないかと感じました。

党としても、その人が本当にどんな思想を持っているのか全て知り尽くせることではないと思うので、後からわかった時に毅然とした対応をすることが大事だと思います。

今の日本では、あえてああいう極端な持論を言葉に出すことがいいことのように勘違いされています。一部の人から喝采を浴びています。

勇気を持って伝えることで、今まで見向きもされてこなかった事柄に光が当たり、世の中が良い方向に変わっていくきっかけにできる場合もあると思います。

自分が現実を最も直視しており、今まで誰も言えなかったことも、ぶっちゃけ本音で敢えて言っているーー。ということは、一見よいことのように思えますが、ただ、それは中身がどうかによるのであって、極論を正当化する根拠にはなりません。

どんな動機があろうが、明らかに優生思想のような考えを容認することは、けっして許されない。何を言っても良いわけではないのです。いちいち対抗することが必要です。

議論が雑で、言葉が軽い 「植松死刑囚と似ている」

ーー大西氏は木村英子さんら重度障害を持つれいわの議員からの批判を受けて、「自分は高齢者のことを言ったのであって、障害者や難病の人のことを言ったわけではない」と反論していました。

それは無理な言い逃れではないでしょうか。発言の対象者が、高齢者だろうが障害者だろうが関係ありません。人の介助を受けることも医療を受けることも変わらない。

ある意味、高齢者も障害者ということが言えると思います。心身の障害を持って、人の手助けが必要になってくるという点では障害者と変わりありません。命の選別がアウトだと批判されていることに対して、障害者や難病の人はよくて、高齢者は仕方ないというのは、反論にもなっていません。

ーー彼は高齢者は間もなく亡くなるのだから「自然の摂理」に従って、延命治療などをしない選択を提案しています。人工呼吸器を使っている岩崎さんは「自然の摂理」で命の線引きをされたら恐ろしいのではないですか?

確かに年をとって、寿命を迎えて亡くなることは自然なことです。

ただ、人の寿命は外部から早々に規定してしまうことではありません。個別の状況を見て考えることだと思います。

人や医療の手助けがなければ、すぐに亡くなってしまう人は、人工呼吸器を使い経管栄養をする人だけにとどまりません。

薬を飲み続けなければ亡くなってしまう人はたくさんいますが、そうして生き続けるのは不自然なのでしょうか。自然の摂理に反すると言う人はあまりいないのではないでしょうか。

ーー大西氏は介護人材の不足などを理由に選別を正当化しています。

必要な手助けがあれば生きられる人がいるという現実に対して、財源論に結びつけて、余裕がないからやっていけないという。そんな言葉はこれまでも繰り返し言われてきました。

政治家がそれに安易に飛びつくのはどうなのでしょうか。やっていけないというのは、本当にそうなのか、と問いたいです。この問題へ一連の発言をしている立岩真也教授の反論も傾聴した上で考えて欲しいと思います。

社会が介護者の不足を解決できないでいることは長年の課題です。現在の政治は、それを解消するための政策を本気で実行しているとは思えません。政策の優先順位の転換を先送りし続けてきた結果です。

コロナ禍によって、介護職をはじめとするエッセンシャルワーカーの存在と仕事が社会の基盤を支える心柱となって、私たち国民の命と生活を守っていることが、広く知られるようになりました。

今まで無理解ゆえに評価されてこなかったこうした仕事に対して、手厚く報いることもなしに、また、ヤングケアラーやきょうだい児、介護離職に追い込まれざるを得なかった人たちへの支援策が不十分なことの改善もはからずに、支え手不足の問題を命の選別で解決してしまおうというのでは、政治の敗北宣言以外のなにものでもありません。

ーー根拠についても、様々なデータを綿密に検討したわけではないようでした。

謝罪を撤回するということもあったぐらいですから、そういう意味では言葉に信が置けません。支持者に向けてなのか、自分のことを見ている人に何か言おうと思ったのかわかりません。

でも、「世の中を変えようとして」と本気で考えているのであれば、財源論を持ち出して「障害者は不幸を作ることしかできない」と主張した相模原事件の植松死刑囚と似ています。

言葉を送り出すまでの考察がざっくりと大雑把過ぎると思うのです。緻密に考え抜いていれば、とても出てこない言葉です。政策というにはあまりにも雑過ぎます。思うのは自由ですが、表に出して肯定する言葉ではないはずです。

一線を超えることが支持される風潮 

ーー事件から4年の間にも、長谷川豊氏の「人工透析自己責任論」や自民党の杉田水脈議員の「生産性がない」発言があり、「高齢者は安楽死や延命治療の中止を考えるべき」と問いかける落合・古市対談がありました。

やはり世の中にそういう考えやものの見方をしてしまう背景があります。表に出て発言していたのは、名前が知られた人なので多くの人に知られて問題になりました。

しかし、同じとは言わないまでも「現実的にそういうことはあるよな」と共感してしまう一定数の人がいます。潜在的にいる。それが著名人の発言をきっかけに表に出てくる。

表に出てくれば、その言葉は一定の支持を受けます。

もちろん、ネット上で見えることはあくまで一部に過ぎないので、そこで多いからといって大多数の人が支持しているとは思えません。

ただ、一線も二線も超えて表に出てきた。そういうことが一度あると、同じ考えを持つ人が躊躇していたはずのその線を踏み越えやすくしてしまう。今までなら思っていても口にするのは憚られるという常識が抑え込んでいました。

ここ5年、10年ほどで今までにないことが起きています。優生思想に限らず、乱暴に思い切ったことを言うのを、痛快な”本音”として持ち上げてしまうことが増えています。その人がヒーローのように扱われていて、その傾向が怖いです。

ーーその傾向に、SNSの普及は関係あるでしょうか?

関係ないとは言えないでしょう。そういった、踏み越えた発言を目にしてしまう機会が増えています。今まで見えなかったことがSNSによって見えてしまうようになったのだと思います。

SNSでは当然、いろんな言葉が飛び交いますが、どの言葉を拾うかという選択があります。職業的な物書きだけではなく、どんな人も自由に発言できること自体はSNSのいいところです。

ただ、その時にその人が普段どういう言葉を受け取っているか、どういう言葉を拾っているかが大事になります。その選択がおかしくなっている気がします。

ただ、酷い言葉が出てきた時に、それに対抗する言葉も少なからず上がってきていることは救いです。

何らか優生思想につながりがあるできごとがある度に、雲霞のように肯定や共感を示す言葉が溢れてくるのに接すると恐ろしくなります。暗澹たる気持ちになって心が弱ります。

情報をシャットダウンしてスルーしたくなりますが、やはり、いちいち「それは違う」と、しっかり批判して拒んでいく声を上げることが必要なのだろうと思います。

人ごとではないと受けとめ自省的に「優生思想は、誰の心にもひそむ」と警告するのも大事です。しかし、それでストレートに抗う言葉を弱めてはならないと思います。

簡単になくなるようなものではないから、常に抗う力がないと押し流されてしまいます。何度でも、即座に抵抗を表していかなくてはなりません。

ーーSNSなどを見ていると、他人に対して攻撃的で排除する言葉を使っている人は、自身も苦しい生活をして排除されてきたことが伺えることが多々あります。

自身が手助けが必要な人も多いのだと思います。

本当はその人が自分も苦しいと声を出すことで、今まで十分に目を向けられていなかった人も手助けが必要なんだと気づくことができる。でも、その言葉は誰かを貶めたり排除することで達するものではありません。

社会の中で十分に手助けが及んでいないところで不満を抱えている人がいたら、政治家は、その人自身の苦しさを丁寧に見て、その人の本心の言葉を聴く。そして社会として対応することを進めていくのが仕事のはずです。攻撃と排除の急先鋒となって、人々の憎悪を煽ることではありません。

植松死刑囚もそうでしたが、優生思想の言葉の攻撃は、本当は助けが必要なのに助けてもらえなかった人の叫びなのかもしれません。

岩崎さんの言葉「責任と考えを尽くす」

ーー岩崎さんは普段どういう風に言葉を紡いでいますか?

自分の詩やエッセイを書くときは、自分の思いに従って表現するわけですけれども、それを読んだ人の声を聴くことで、今まで自分の見えていなかったことに気づかされることがあります。

もう一歩考えが及ばなかった、見えていなかったということに気づく経験もしています。

でも、表に言葉を送り出すからには、責任というか、今の自分にできる精一杯の思いを尽くします。

ノートに記して内心に留めているのと、本やネットで公に送り出すこととは、まったく違います。表に出していくときは、相当の心を込める。気をつける。今自分の出来得る精一杯を尽くし、注意深くしているつもりです。

経管栄養や呼吸器を使ったり、身動きできない寝たきりの体になって生きることをムダなこと、不幸なだけだと即断する風潮を拒む、「貧しい発想」というタイトルの詩を書いたことがあります。

管をつけてまで/寝たきりになってまで/そこまでして生きていても/しかたがないだろ?/という貧しい発想を押しつけるのは/やめてくれないか/管をつけると/寝たきりになると/生きているのがすまないような/世の中こそが/重い病に罹っている(岩崎航詩集『点滴ポール』所収)

自分の意に反して、無理に経管栄養をつけられたという人や、家族や担当した患者が、経管栄養や点滴につながれて苦しんでいる姿に心を痛めた経験のある人には、この詩に違和感や反発を抱くかもしれません。

栄養を吸収できないほどの衰弱があるとき、経管栄養を行うことがかえって苦しみを増し有効にならない場合もある。そういうことについて知らなかったわけではないですが、読者の感想に触れて、改めて丁寧に扱わなければならないことに気づかされました。

ただ、読む人によっては違う捉え方をされるかもしれないけれども、言っておくべきだと判断したら、覚悟を持って書いています。

そこまでに、言葉を出す者として、責任と熟慮を尽くすことが必要なのではないかと思います。影響を考えないで言葉を出すのは無責任なことです。

影響を受けた発信者たちの表現

ーー岩崎さんは、肺結核に苦しんだ正岡子規、酒に溺れた放浪の俳人、山頭火、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の俳人、折笠美秋など、生きるのに肉体的にも困難を抱えてきた人たちの表現に影響を受けてきましたね。

彼らは、前向きさや、生きるのを肯定する言葉を意識して書いているわけではありません。病や生きづらさの苦しみを通過して出てきた言葉ではあるのですが、ギリギリのところまで向き合って自分の本当のところを表現しました。

でも、結果的に、病を持って苦しい毎日ではあるけれども、作品としては、生きることを肯定する形が表に現れています。

ギリギリのところまで追い詰められてしまって、とても苦しい。苦しいことを苦しいと言う。それは自分の心の奥底、本当のところから出てきた言葉です。

本心をただ目の前に置くような表現であっても、それは人の心を動かします。シベリア抑留の体験を描いた香月泰男の絵もそうです。

一見、救いがない苦しみそのものを目の前に表現しているだけかもしれません。でも、そこから言葉にならない、表現しきれないものが表現として出る。それが、見るものの心を動かしてくれることがある。

雑駁なものから、そういうものは生まれません。

自分の本当のところの苦しみと格闘して、真剣に向き合った表現は、人の心を救うことがあります。

どんな人でも、常にではなくてもある瞬間に辛いということはあると思います。人知れず苦悩に襲われて、耐えがたい、辛いと思う。そんな時に、本当の言葉は、それぞれに抱えているものと響きます。もどかしい思いを抱えて生きている人の心にも届く。苦しみは千差万別であっても、響き合えるものがあるのです。

一方で、優生思想や差別などに代表される雑駁な考えで出てきた言葉は他者の心の奥に響きません。人を傷つけるだけです。とりわけ、人々の生活をよくするために働く、そういう立場にいる政治家が雑駁であってはなりません。

どんな立場の人も、ただ本当の言葉を拾う、耳を傾けることが必要です。そして、自分の言動に責任を持つことは大事だと思います。

誰もが「命」を脅かされる時代 「生存」と「生活」

ーー新型コロナが流行しています。岩崎さんも生活に影響が出ていますね。

コロナに自分や高齢の両親が感染した場合、即命取りになりかねませんので、外出も中止しています。以前から月に2回だけしか外出できていませんが、3月以降は一度も外に出ていません。

何ヶ月も家にこもり外の日の光りにも自然の風にも当たらない生活は厳しいです。いつまで続くのか先が見えないので、よけいにつらいです。

この感染症は人との距離を取る必要性が言われていますが、私は24時間介助が必要で、多くの人に近づいて介助してもらわなければ生きられません。距離をとっては、介助ができない。生きることができないのです。

今までと状況が変わってしまって、色々な注意をしなければいけないことが新たに加わるようになって、より生きにくくなっています。

訪問するヘルパーさん、医師、看護師、理学療法士さんたちも最大限の注意を続けて、変わらぬ支援をいただいていますが、支援者にも重い負担がかかっています。

支援者を支援する国レベルでの政策もさらに実効のある形できちんとしていただくことが必要です。

ーー岩崎さんほどでないにしても、国民全員、世界中の人が全員、感染の危機に晒されています。みんな大変だから、助け合うかと思ったら、差別や偏見、自粛警察など、攻撃し、排除する言葉が広がっています。

表として社会にそのような言葉が出ているのは確かです。でも一方で、ネットや報道で拾えないようなところでの助け合い、支え合いはあると思います。全ての人が同じような苦難に直面しているわけですから。私も、ピンチを救ってもらっています。

みんな初めての苦難に遭遇して、模索している段階です。これから先、どこまでコロナの問題が続いていくのか、どうやって生きていったらいいのか、不安があります。

でも、そんな不安で困難な状況でも「生活」は必要です。人間はただ生きていれば、「生存」していればいいと言えばそうではありません。「生活」を作ることが必要です。

「生存」と「生活」という話で言えば、私はパソコンやインターネットなどの技術でコミュニケーションや創作をしたり、買いものしたりと、体の障害を補ってきました。介助も受けながら、人や技術の手助けで「生活」を少しずつ作ってきました。

「生活」というのは、生きる中でふくらみがあることです。全てガチガチに「生存」に関係あるのかどうかだけに必要かどうかを決められると身動きが取れません。衣食住は基本ですが、それだけでは足りないのです。

「生活」に必要な言葉

ーー「生活」を作るには何が必要ですか?

人と関わってなんでもない会話をし、身も心も落ち着く空間でお茶を飲む。お酒を飲む。アートや音楽を楽しむこともあると思います。

それは「生存」には関係ないと思われて、「不要不急」と言われてしまうのかもしれませんが、いろんなことがあって生活は成りたちます。

今は、「生活」というより「生存」に焦点が当たって、「生活」がかき消されています。世の中全体が固まって、金縛りにあっている状況に見えます。

コロナの問題は長期化が避けられないなか、それでは生きるのが苦しくなってくると思います。感染防止対策に抜かりのない注意をした上で、どのように生活をつくっていくか考えていくことは前提です。

必要か必要でないからと分類するのではなく、どのようにしたら「生存」と「生活」の両輪を前に回転させて、生きていけるのかを、皆で考えていくしかありません。人との繋がりが必要だし、芸術の力も必要かもしれません。

生活に必要なものは人ぞれぞれです。そういうものが、生存を第一目標にして奪われた状況が全ての人に降りかかっています。

距離を取りながらでも、人が人に思いを伝えるのには言葉が必要です。

優生思想のように、他の人の生きる気持ちを奪っていくような恐ろしい言葉が出た時には、対抗する言葉で打ち消していく。押し流されないようにする。

コロナの時代に、自粛警察のように人を監視し、人を攻撃するのは良くないと思うなら、それに対抗する言葉を積み重ねていく。

政治家は、人が暮らしやすく、生きやすくすることを目指す政策を実のある言葉で伝えてほしい。政治家は、市民に励まされて盛り立ててもらう存在ではなく、言葉と実践で、市民を力づけて希望を届ける存在です。雑駁な思想はそんな言葉にはなり得ません。

恐怖心は人を固まらせてしまいます。心が固まって動けなくなります。不安や恐怖がいろんなところにあり、その中で生きていく時、その心をほぐすのもまた誰かの言葉です。生活は、安心して過ごすことができて成り立つものです。

私は東日本大震災を経験して詩が書けなくなった時、見舞いに来てくれた友人が「詩人が今書かないでいつ書くのだ」と励ましてくれて、心が動き出したことがありました。

固まっている心をほどく何かが、人によってそれは芸術かもしれないし、ちょっとした声がけや誰かの挨拶、態度かもしれません。

人は生存に必要なことだけすれば生きていけるかと言えばそうではないのではないでしょうか。決して「生活」は不要ではなく、おざなりにしてよいものではありません。

生活や生きる気力を奪う言葉に対抗できるのか、ではなくて、対抗しなければいけない。コロナがこの先どうなるかわからないけれども、なんとかできるのだという希望や気持ちは持ち続けたい。

コロナという流行性の病が怖いというより、みんなの生きる力が弱まっていくことが怖いのだと思います。暴風雨が吹く中でも、生活を守るよすがや足がかりが奪われてはいけません。私たちには今、人を生かす言葉が必要です。

【岩崎 航(いわさき・わたる)】詩人

筋ジストロフィーのため経管栄養と呼吸器を使い、24時間の介助を得ながら自宅で暮らす。25歳から詩作。2004年から五行歌を書く。ナナロク社から詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』、エッセイ集『日付の大きいカレンダー』、兄で画家の岩崎健一と画詩集『いのちの花、希望のうた』刊行。エッセイ『岩崎航の航海日誌』(2016年〜17年 yomiDr.)のWEB連載後、病と生きる障害当事者として社会への発信も行っている。本年10月に詩集『震えたのは』(ナナロク社)刊行予定。