岩手県の三陸沿岸でこの8年間、ボランティアで音楽療法をするために通っている智田邦徳さん(51)。

震災直後、いち早く音楽家が避難所に慰問に入った姿をテレビで見て、自分に何ができるのか考えていた智田さんは、こう胸に誓った。
「毎回『ありがとう』と言わせるような関わりをしてはいけない。相手から奪い取る音楽療法だけはしない」
どういうことなのだろうか?
病気や障害は特別なことではない 子ども時代
その前にまず、智田さんがなぜ音楽療法の世界に関わり始めたのか、振り返りたい。
1967年、智田さんは岩手県盛岡市の精神科病院院長の長男として生まれた。一つ下の妹、千晶さん(50)は重度の知的障害を持って生まれてきた。

母は妹の世話にかかりきりで、幼い智田さんやその下に生まれた弟の世話に手が回らない。智田家の家事や子供の面倒を見るのは、父の病院を退院後、行き先が見つからない元患者だった。
父が声をかけて、代々お手伝いさんとして雇っていたのだ。
父母はまた、幼い頃から息子を病院や妹の通う養護学校にしょっちゅう連れて行った。
「病院の盆踊りやクリスマス会でのイベントでピアノを弾いたり、一緒に踊ったり、『あら邦ちゃんいらっしゃい』と患者さんはみんな顔見知り。私は精神科の患者さんに育てられたようなものなんです」

そうした環境は、智田さんの中に、ある感覚を育てていった。
「お手伝いさんも家族のようなものでしたし、妹のこともすごく好きだったし、健常と病気や障害の境を意識したことがありません。そして、患者と医療者、被災者と支援者の境目も意識したことがないのです」
そんな父の役に立ちたいと、最初は医師になることを目指したが、医師の仕事に興味がないこともわかっていた。
「表現するのが好きだし、歌うのも好き。浪人中に音楽大学を受けられるぐらいのレベルまで勉強して、日本大学芸術学部音楽学科の声楽コースに進みました」
そこで音楽療法をしている指導者に出会い、その即興性に惹かれた。
卒業後は、父の病院に就職し、作業療法科の職員となって音楽療法を始めた。音楽療法の講習会などに通い、音楽療法の理論を身につけていった。
「精神科の患者さんはもちろん、病院外でも役所の介護予防事業や障害児の施設などから声をかけられるようになり、活動が広がっていきました。岩手県の沿岸部でも現地の保健師さんが気に入ってくれて、宮古市や山田町、陸前高田市などに2008年頃から音楽療法に出かけるようになっていたんです」
あの日、東京でテレビで被災地を見て誓ったこと
2011年3月11日、東日本大震災が起きたあの日、智田さんは東京にいた。
「吉祥寺のスタバで揺れて、動画でニュースを見たら津波の被害があって、原発事故の映像も流れ始めたんです。『ヤバい』と思いましたが、そのまま1週間帰れませんでした。一緒に活動をしていた沿岸の人たちに連絡を取ると、『全滅しました』と言うから、え?どういうこと?と居ても立っても居られない思いでした」
一緒にいた友人の漫画家、西原理恵子さんの自宅に泊めてもらい、家族や知り合いに片っ端から電話をして安否を確かめた。
テレビにかじりついて東北の被災状況を見ていると、数日後、学校の体育館に設けられた避難所に、音楽家が慰問している姿が映し出された。「音楽で皆さんを勇気づけたい」と言って、バイオリンを演奏していた。
「布団に横になっていた被災者のおばあさんの耳元で弾いて、お礼を言われているのを見て、私はショックを受けました。音は耳を塞がないと入ってくるものです。疲れ切っている人に無理やり聞かせて、ありがとうと言わせる。暴力的だし、こういう支援は一番いけないと胸に刻まれました」
同時に、音楽療法士として、自分は何ができるかを考え続けた。
「まず最初に思ったのは、毎回、相手にありがとうと言われないためにはどう入ったらいいのかということです。ありがとうと言わせることは、相手の心に負担を負わせ、相手から何かを奪い取っている気がしました」
そして、「もしも私が三陸に行くとしたら」として、こんな三つの方針を決めた。
- 現地ではものをもらわない
- 長居をしない
- 誰か一人でも止めてと言ったら止める
「音楽療法を勉強すると、二次被害を与えないための支援者の注意事項が書かれたアメリカのマニュアルがあるんです。それを踏まえて、自己完結型で押し付けにならないようにすることを徹底しようと思いました」
初めての沿岸 「また来てくださいね」
17日に秋田経由で盛岡に帰り、3月31日に初めてそれまで付き合いのあった宮古市や山田町の保健師から、「こういう時は音楽療法じゃないか」と依頼があった。

盛岡で仕事のない4月16日、17日に行くことを決め、初日の夜、山田町の中学校の体育館に向かった。
「通い慣れた町なのに、停電で街灯もついていなくて真っ暗でした。生きている町から、黄泉の国に足を踏み入れたような感じで、不安な気持ちでいっぱいでした」
体育館に近づくと、外で炊き出しをしている人の姿が見え、介護予防事業の音楽療法に参加してくれていた顔なじみの女性が二人待ち構えていてくれた。
「その二人が、避難所にいる人たちに音楽療法いいから受けてみようって声をかけてくれたんです。私は『耳障りだったら止めますので』と、すごく心配しながら始めました」
大勢の人が過ごす避難所では体を動かすことが減るだろうと思い、座ったままでできる体操をやった。童謡や唱歌を歌い、「故郷」や海を連想させる歌は外した。
「トラウマを刺激するかもしれないと確信が持てなかったからです」
1時間やり終えると、体育館中から拍手が沸き起こった。
「また来てくださいね」と言われ、気持ちがホッと緩むのを感じた。駆け寄ってきた山田町の職員は涙を流しながら、「あんなに辛い思いをしたおばあちゃんたちが笑って歌っているのを見て感極まってしまいました」と喜んでくれた。

観客のいない1時間の演奏
しかし、話はこれで終わらない。
翌朝、宮古市の宮古小学校の体育館に入ろうとすると、現場のリーダーから「何しに来たんだ! 」と厳しい声で引き止められた。保健所から依頼を受けたことを伝えると中に入れてくれたが、誰も声をかけてくれずみんな遠巻きに見ている。
キーボードに電源を繋ごうとしていると、小学校3、4年生ぐらいの女の子が近寄ってきて、ACアダプターを手にとって床に投げつけた。
「私、音楽大嫌い! 聞きたくないし、帰って!」
呆然とした。その女の子はそのまま外に出て行った。一瞬、迷ったが、そのままやってみることにした。
しかし、1家族ごとに囲われたダンボール箱の仕切りの向こう側から誰も出てきてくれない。
「鳴らしてもいいですか?」
そう声をかけても返事はない。誰も座らない観客席の前で、一人で1時間、歌や演奏をやり通した。
「1時間、シーンと水を打ったような静けです。すごく打ちのめされて、しょんぼりして帰ろうと思いました」
すると、片付けようとした時に、体育館のあちこちからパラパラと拍手が聞こえてきた。そして、一人の60歳ぐらいの女性が近づいてきて「足腰が痛いのだけれども、聞いていたら痛いのを忘れましたよ」と言ってくれた。
「もう無理だろうと落ち込んだのが、それを聞いて、『あ、続けられる』と思ったんです。あとでわかったのですが、東北の人にとって、音楽療法自体が異物だった。誰も知らないところで初めてやるのは、今でも緊張します」
被災地の人と一緒に創る
それ以降、毎週末は、宮古市や山田町に通うようになった。

体の半分に麻痺が残る60代の男性は、映画マニアで映画の主題歌やクラシックなど、難しい曲を次々にリクエストした。都はるみを熱烈に愛するアルコール依存症の男性は、マニアックな歌を毎回リクエストする。
昔、埼玉県の居酒屋でながしをしていたという男性は、建てたばかりの家が流されて避難していた。
「若いのによく昔の曲知っているじゃないか」
そんな風に褒めながら近づいてきてくれ、「ながしの時に弾いていた曲を教えてください」と頼むと、嬉しそうに教えてくれた。
毎回、参加してくれたその男性が、仮設住宅に移る時は、私物のギターをお礼にプレゼントした。
「音楽やっている人はあったかいもんだなあ」と泣いて喜んでくれた。

「こういう人たちに私は、ものすごく鍛えられました。一度聞いた音楽を即興で演奏するのは得意なので、わからない歌の場合は、YouTubeで検索して聞いてすぐ弾いてみる。相手が主役、一緒に即興で創る私のスタイルはこういう経験から身についたと思います」
その後、避難所からバラバラに仮設住宅に入った人たちが孤立しないか心配となり、社協に掛け合って2011年秋から、宮古市の仮設住宅を順番に回らせてもらうことになった。
日本音楽療法学会の災害対策委員長になった智田さんは、仮設住宅でボランティアをしている音楽療法士に、学会から日当と交通費を支払う制度を作った。しかし自分は受け取ったことはない。
「最初に自分で作ったルールがあるので、それを貫くことにこだわりました。続けたいと思ったのは、初めて『ありがとう』ではなくて、『また来てね』『今度はいつ来るの?』と言われた時です。私は役割を与えられると喜ぶ性分です。何よりも嬉しい言葉でした」
(続く)
【1】「安心して揺らいでいられる場所を」 三陸に通い続ける音楽療法士の願うこと
【3】「復興」は元に戻ることではない 血の通った温かい時間を積み重ねて
BuzzFeed Japanでは、あの日から8年を迎える東日本大震災に関する記事を掲載しています。あの日と今を生きる人々を、さまざまな角度から伝えます。関連記事には「3.11」のマークが付いています。
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