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おやつで入所者死亡で逆転無罪が確定 介護中の事故に詳しい法学者はどう見たか?

特別養護老人ホームでおやつのドーナツを食べた直後に入所者が意識を失い、その後死亡した事案で、刑事責任を問われた准看護師が控訴審で逆転無罪となり、検察側は上告を断念しました。介護中の事故の法的責任について詳しい法律学者はこの裁判の影響をどう見ているのでしょうか?

長野県安曇野市の特別養護老人ホームで、入所者の女性がおやつのドーナツを食べた直後に倒れて死亡した事案で、おやつを配った准看護師が業務上過失致死罪に問われ、控訴審で罰金20万円の一審・有罪判決が破棄され、逆転無罪判決が出た事件。

東京高検は8月11日、上告断念を発表した。准看護師の無罪が確定する。

「介護現場が萎縮する」と全国の介護関係者から注目を集めた裁判だが、介護中の事故について詳しい法律学者は、この流れをどう見ているのだろうか?

法政大学社会学部教授の長沼建一郎さんに伺った。

長沼建一郎さん提供

過去にない刑事事件

ーーそもそも過去に介護中の死亡事案について、職員個人の過失が問われる刑事事件はあったのでしょうか?

少なくとも、過去の判例のデータベースである「公刊判例」では見当たりません。

ただ、ネットなどでよく検索すると、入浴介助で溺死させた事案などで、罰金が科された例はあるようです。

ですが少なくとも、誤って食事を気管などに飲み込んでしまったり喉に詰まらせてしまったりした「誤嚥事案」では、刑事事案は過去に例はなかったので、これだけ大きく取り上げられたということだと思います。

ーー今回が稀なケースだとしたら、刑事訴追が介護現場に与えた影響についてどうお考えになりますか?

民事訴訟であれば、割り切って考えれば、事業者が賠償金を支払って終わり、それも保険でカバーできる、ということが言えます。

あくまで、「割り切って言えば」ということですよ。一般の人にとっては、民事にしても、裁判の被告になるということは大変な負担になりますから。

しかし、介護従事者個々人が刑事責任を問われるということになると、懲役刑の可能性もあるわけですし、罰金にしても、一生「前科」がついて回ります。

もちろん医者にしても、教員にしても、そういう場面はあるわけですが、とくに介護については、この事案に類似する事故を考えれば、四六時中、そういう危険性がありうることになります。「普段の介護で職員が刑事事件に問われることもある仕事なのだ」ということになれば、影響は甚大でしょう。

これに比較的近いのは保育士で、乳児も「四六時中、目を離せない」というところがあリます。そういうこともあって保育単価にしても、乳児は格段に高く設定されているところがありますし、議論はありますが、SIDS(乳幼児突然死症候群)という概念も知られています。

ーー介護現場が刑事罰に問われる可能性を恐れて萎縮する、防衛的な介護しかできなくなるということが懸念されています。一審で有罪判決が出た衝撃は大きく、介護を受ける人の自由を制限する方向に進んでしまうということが心配です。

ご指摘の通りです。それこそ胃ろうや身体拘束に傾斜してしまうおそれがあります。

一方で、「見守り不足」でも責任を問われることはあるので、防衛的にやってもダメなときはダメで、まさに「給料が低いのにリスクだけは高い危険職種」ということになってしまうおそれがあります。

ーー海外ではこうした介護中の誤嚥の疑いがある事故が刑事事件として立件されることはあるのでしょうか?

海外で立件されているかどうかはわかりません。そもそも介護事故全般について、なかなか体系的な情報を得るのは困難です。

逆転無罪判決が今後の介護事故に与える影響は?

ーー今回の判決では、過失認定の前提にある危険性を事前に察知できたかという「予見可能性」について、一般的・抽象的な危険性を検討するのではなく、患者の状態や職員の介護体制、食品の形状など、具体的に検討すべしという法解釈を示しています。今後の介護中の事故の過失判断に与える影響をどうお考えになりますか?

「即断できない」としか言いようがありません。なぜかというと、刑事事件だから『具体的な予見可能性』が必要だというのが、今回の判決のポイントだからです。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

逆転無罪判決が出て喜ぶ支援者たち

ですから今後も、もし刑事事件になれば、具体的にどの程度危険を予測できたのかを毎回検討されることが予想されます。というか、刑事事件なら、もともとそのように検討されるはずなのですが、なぜか1審判決ではそうではなかったので、2審がその1審の判断を正面から否定したということです。

他方、この判決が、民事事件にも波及するかどうかは分かりません。民事裁判では、「被害者救済」の要請も大きいからです。

民事については本当に難しくて、刑事事件と同様に過失を厳密に解さないと介護施設には気の毒なのですが、民事賠償であれば、保険でカバーすれば、丸く収まるという面もあって、微妙です。

死亡事故であれば、遺族としては過失が認められないと賠償保険も支払われないので、実際に亡くなっているのに、本当に何もないということになります。実はそこから先は、保険のあり方も絡んで一層複雑な話になってしまいます。

安全性と生活の自由のバランスをどう模索するか?


ーーこうした介護中の死亡事案があると、介護の安全性と、入所者の人間としての生活の自由のバランスを取るのはとても難しいと感じます。介護施設がそのバランスをどのようにとることが介護を受ける側の利益に繋がると考えられるでしょうか?

「答えがない」ことをお分かりの上でのご質問かと思います。

利用者の自己決定権と、安全を第一に考えるパターナリズム(父権主義)の関係などと言い出すと、観念的な議論になりそうです。

ただ、安全と自由は二者択一ではないので、その「ウェイトの置き方」について、事前に利用者本人と、家族と、各専門職種とが話し合っておくことが大切だと思います。

急性期医療と違って、介護については、そういう時間は作ろうとすれば作れることが多いです。実際にそうしているところも多いでしょう。

ただそこで、「安全最優先でやりますからQOL低下は甘受してください」か、「QOL重視でやりますので、事故が起きても仕方ないことを了承ください」のいずれかの二者択一で、利用者側に選択を迫るのは酷です。

これは思いつきレベルですが、たとえばアンケート的に、「安全性重視」から「QOL重視」まで、1~5段階ぐらいの選択肢を並べておいて選んでもらう、あわせて特段の要望や事柄があれば聞いておくというくらいが、現実的というか、実際に即しているという気がします。

とくに日本人の場合、アンケートでは中庸に近い選択肢を選ぶことが多いといわれるので、そうでない場合は、強い意向として受け止めることができるでしょう。

もちろんそんな「アンケート」では、事故になって責任が争われたときに、法的に意味がないのではないかと思われるかもしれません。

しかし実際の裁判では、遺族は「誤嚥させるなと頼んだではないか」と激怒し、施設側は「何の依頼も兆候もなかった」と抗弁し、しばしば水掛け論やすれ違いになります。

そんなときに、「そこそこの双方の合意」があれば、紛争を避けることや、紛争時にも「言った・言わない」の争いを避けられるのではないかと思います。

最近、医学的に無意味な延命治療はせずに看取ることが実態としては広まっていて、そこは今さら裁判にもならないのは、厳密に法的なものではなくとも、当事者間で「そこそこの合意」があるからではないでしょうか。

そのような手立てが、利用者側はもちろん、サービス提供側の利益にもつながると考えます。

本人の意思と家族の思い、何を尊重すべきか?

ーー「何がなんでも安全を重視」から「安全は最低限でも生活の喜びを」までにグラデーションができれば、それに応じた介護をするというのも一つの対策でしょうね。それでもいざ死亡したとなると、これまで話し合いに参加していなかった親族がクレームをつける「遠くの親戚問題」が起きそうです。

ご指摘の通りで、できれば家族も一堂に会してそういう話し合いをしておくことが望ましいのだと思います。そこに来られない場合は、別途意見があれば寄せてくれという形で意見を聞いておけるとよいと思います。

Runstudio / Getty Images

食事は生活の喜びの一つ。安全と楽しみとどうバランスをとるか

今でも多くの介護施設では、利用者側の「キーパーソン」を把握しようとしていると思います。それでも事故後に予想外の関係者が登場することがあるのは、相続全般と同様に、避けられないことでしょう。

実際問題として、現在でも医療機関では手術や入院開始時には、副作用や身体拘束や延命治療について、一筆書いているのが現状だと思います。

ただ、そういう「訴訟回避のため」の「yesかnoか」ではなくて、少しでも当事者双方が納得できるように、ケアにおけるウェイトの置き方・考え方のような角度から話し合う機会を設けて、それを何らかの形の文書で共有しておければ望ましいと思います。

医療と違って、介護・ケアの領域は、各人のニーズの方向性や力点、重さがそれぞれ異なります。「これだけは」という要望を持っている人もいれば、「なんでもいい」という人だっています。

それらを法的な枠組みに押し込めるのではなくて、むしろ「そのまま」表明してもらい、文書に残しておくことが、実はあとで法的に問題になったときにも、信頼に足る資料として役に立つのではないかと思っています。

無理に免責条項に一筆もらっても、あとで揉めた時には、「あれは言われたから、分からずにサインしただけだ」という話になるのではないでしょうか。

ーー一方で、ある一時点での意思表示は、本人の気持ちが変わった時に柔軟に対応されないのではないかという不安もあります。介護ではありませんが、公立福生病院の人工透析中止事件では、本人が途中で透析を再開してほしいと訴えたのに、過去に書いた意思表示に従って医師が再開せず、死亡しました。そして今、遺族は裁判を起こしています。

この件自体については、改めて詳細をみないと何とも言えませんが、まさにそういう意思表示を法的に厳格なものとして扱うと、かえってすれ違いや悲劇が起きるということです。「そこそこの合意」を、と申し上げているのは、そういう趣旨です。

亡くなる直前に、「やはりもっと手を尽くしてほしい」と思い直すことがあったらどうか、というような倫理学的な設例には答えられませんが、実際的には、事前には基本的な考え方の共有にとどめておいて、具体的な場面では、個々にまた意向を確認するという方向が望ましいのだと思います。

介護の領域では実際にそうしていることが多いと思いますし、医療機関で使われている承諾書の類にしても、いつでも撤回できる旨が書かれていることがあります。

介護・医療のゼロリスク志向、どうしていくべきか?

ーー介護だけでなく、新型コロナでも、ワクチンでも、命や健康に関わる分野では「ゼロリスク」を求める傾向が顕著になっていると感じます。それに医療や介護提供者がビクビクしている状況をどう変えていけばいいと思われますか?

私も小心者なので、ゼロリスクを求める気持ちはよく分かります。

しかし、自然災害にしても、原発にしても、あるいはそれこそ新型コロナにしても、ゼロリスクというのが得難いことは、逆に周知されつつあるのではないでしょうか。

ただ、それでも事故が起きてしまうと、予見できたではないかということで、誰かを叱責する傾向があり、それがまさに今回の裁判だったとも言えます。

ですから、医療や介護提供者がビクビクしているかどうかは分かりませんが、とりうる手立てとして、前述のようなことを申し上げたところです。

他方、介護事故に限っては、「事故死」というとらえ方自体に、問題が潜んでいるように思います。新型コロナにしてもそうなのですが、「不慮の事故」的な死に方は、並外れに不幸な最期、受け入れ難いものとして位置づけられる傾向があります。

しかし、少なくとも介護事故は、交通事故のような典型的な「不慮の事故」とは異なり、加齢に伴って、病気がちになるのと同様に、いつ起きても不思議ではないという性格があります。社会として、そのあたりの認識をもっておいたほうが、いたずらな「不幸」感を煽ることが減るように思います。

【長沼建一郎(ながぬま・けんいちろう)】法政大学社会学部教授

1984年3月、東京大学法学部卒業。日本生命、厚生省(社会保障制度専門調査員)、ニッセイ基礎研究所(主任研究員)、日本福祉大学(教授)等を経て、2009年4月、法政大学社会学部教授。

専門は社会保障法・社会保障論。

主な著書に『介護事故の法政策と保険政策』(2011年、法律文化社)、『個人年金保険の研究』(2015年、同)、『図解テキスト 社会保険の基礎』(2015年、弘文堂)

Contact Naoko Iwanaga at naoko.iwanaga@buzzfeed.com.

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