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自分の命は自分で決めたい 最後まで穏やかに生きられるように

幡野広志さんインタビュー連載、3回目の最終回は、患者を取り巻く苦痛と残される家族の心の痛みに対する思いを伺いました。

治りにくいがんであることを昨年末に公表し、命や死について積極的な発信を続けている写真家の幡野広志さん(35)。1月に胸にあった腫瘍を放射線治療で抑え込んだが、最近また右のお尻あたりに違和感を覚え始めている。

「胸の画像は進行していないということなのですが、右のお尻の違和感や痛みが、昨年11月ごろに胸の腫瘍が圧迫していた頃とよく似ているんです。ちょっと悪くなっている。下半身の動きが鈍くなっていて、また1ヶ月ぐらいしたら車椅子に戻らないといけないのかもしれない」

体調が悪くなると、痛みや全身の倦怠感に襲われ、体力が回復しにくくなる。

「若いとがんの進行が早くなるとよく言いますが、悪い時は1日1歳ぐらい年をとる感覚です。1ヶ月だったら30歳。急激に年寄りになる感覚ですね。見た目は全然平気なのですが、一番ひどい時には80歳ぐらいのおじいちゃんに道で追い抜かれていましたから」

投げつけられたヘルプマーク

歩きづらくなって、今は杖を使っている。その持ち手にぶら下げているのは、外見ではわからないけれども援助を必要とすることを示す「ヘルプマーク」だ。このマークを身につけることで最近では電車の移動でも席を譲られることが増えた。

ヘルプマークは、公共交通機関や住んでいる自治体の窓口で無料で支給される。だが、幡野さんは当初、住んでいる都内の自治体からなかなか渡してもらえなかった。

「僕の住んでいる自治体は障害者手帳がないともらえず、手帳は症状が固定しないと交付されません。申請して支給されるまで長いと1年半ほどかかると言われました(筆者注:厚生労働省は申請から交付まで「概ね60日以内」と通知している)」

「今、下半身が動かなくて助けが欲しいのに、障害者手帳は支給されないし、ヘルプマークも支給できないと言われたのです。役所の人と窓口で喧嘩して、最後は投げつけられるようにして手に入れました」

さらに、必要な手助けの内容や通院している病院、服用している薬の名前などを具体的に書き込む「ヘルプカード」というものもある。緊急時に、居合わせた人が迅速な対応を取れるようにするためだ。

マークかカードか片方しか支給できないと役所の担当者が突っぱねるのを、口論してこちらも奪い取るようにして支給された(筆者注:ヘルプマークやヘルプカードを担当する東京都社会参加推進担当課は、「それぞれ役割が違うので必要なら両方支給しています」と話している)。

幡野さんは障害を持って初めて直面したお役所仕事への苛立ちを露わにする。

「ヘルプマークだけでは突然倒れた時に、救急隊員も必要な情報が得られません。それに障害を持っている人でも違和感なく持てるようにおしゃれなデザインなので、僕のような若くて見た目も元気そうな人だとこれだけつけていてもおしゃれアイテムだと見られてしまう。セットにしないとわかってもらえないのです。こういうことも広く認知させていきたいです」

溢れる情報の中で惑わされる患者

連載1回目でも書いたが、治りにくいがんになって、日々苦しんでいるのが治療法についての押し付けだ。

幡野さんが本に書くために先日取材した女性は、友人を30歳で亡くしていた。目の奥に腫瘍ができたその友人は、保険が効かない陽子線治療に奇跡を求め、視力や脳、手足の神経にもダメージを受けて亡くなったという。

「どこの医者に行っても手立てがないと言われ、残念なことに緩和ケアも受診できなかったそうです。そこで奇跡を求めて、とんでもない大金を払って、生活の質を劇的に下げて死んでしまった。死ぬ直前にようやく緩和ケアを受けられたそうですが、その間は代替医療にもたくさん手を出してしまったそうです」

「その友人も後悔しているし、家族もきっと後悔している。本人も辛いしいいことが何にもないんです。そういう治療法を勧める人も、奇跡が起きるように励ましてしまう人も、最後の貴重な人生の時間をぶち壊している」

こうした根拠のない治療法や健康食品などを勧め、安易な励ましの言葉で偽りの希望を抱かせる人に、ツイッターなどで幡野さんは真っ向から反論している。

原動力は怒りだ。

「怒りとあまりにも理不尽だという思いです。僕はそういうものを試しているわけじゃないから苦しんでもいないし、金銭的なロスもないのですが、あまりにも断れなくて苦しんでいる人がたくさんいるから放っておけない。患者からも家族の方からも、医療従事者からも『言ってくれてありがとう』とたくさんの感謝の言葉を受け取っています」

自身も迷う治療 何を基準に選ぶか

幡野さんは主治医に「早く入院して治療を」と急かされている。4月から再入院して、まず抗がん剤治療を受けることを決めた。

自費出版で出す本の取材も兼ねて、この3ヶ月間、医療従事者にもたくさん会って話を聞いてきた。そこで自身の治療のことも尋ねている。

「治療法に関しては僕は当然わからないわけです。標準治療だって『いいよ』と言う人もいれば、『絶対にダメだよ』と言う人もいる。特に抗がん剤については意見が分かれていて、なかなか判断できません。なので今、お医者さんや看護師、薬剤師などにお会いすると、『僕と同じ立場になったら、どういう治療をしますか?』と必ず聞くんです」

幡野さんが抱える多発性骨髄腫は、体の状態にもよるが、幡野さんのように若くて体力のある人であれば、まず抗がん剤治療を行ってがん細胞を減らす。その後、もし条件が合えば、自身の造血幹細胞(血液を作る元となる細胞)を採取し、大量の抗がん剤で徹底的にがん細胞を叩いた後に移植する「自家移植」で少しでも長く生きられるようにするのが現時点で最善とされる「標準治療」だ。

だが、当然副作用はあるし、効果があまり現れない可能性もある。

「看護師さんは全員治療をしないと言うし、先日会った人は自殺するとまで言う。医師では腫瘍内科医で緩和ケア医の西智弘さん一人だけが、『子供が小さいから少しでも長く一緒に過ごすために治療する』と言っていました。『標準治療をやらない』という医師は代替療法を試すと言い、主治医は『私は患者じゃないので答えられない』と言う。だから僕は正直なところ、標準治療には疑問をちょっと持っているのです」

それでも治療を受けるのを決めたのはなぜか。

「妻も母も標準治療を望んでいるからです。ここで僕が何もやらないで好き勝手やって死んだら、二人とも絶対に後悔する。特に妻は自罰的な人だから、『私がもっとしっかりして説得していれば良かったのに』と自分を責めてしまうでしょう。それを見た息子はショックを受けるはずです。だからやる」

問いかけたい「安楽死」の是非

病気になってからこれまで、家族を同じ多発性骨髄腫で亡くした3人の遺族と話してきた。亡くなった時のことを尋ねると、絶句した。

「壮絶です。みなさん共通して言うのは、最後はベッドに横になっているだけで骨折するということ。吐くのも、胃液だけでなく、その奥から胆汁を吐く。苦しみ悶えて亡くなっている。それを聞いて僕もショックだったし、ご家族もものすごく大きなトラウマと後悔を抱えています。苦しめてしまった、助けてあげられなかったという思いです」

そんなに苦しむのなら今すぐに死にたいと思い、「安楽死」を願った。そうツイッターで問いかけた時、前述の医師、西智弘さんらからのコメントで知ったのが「鎮静」だった。苦しさに耐えきれなくなった時、医師から睡眠薬を投与され、最期まで眠ったまま過ごせるようにする方法だ。

安楽死に似ているが、安楽死が死を早める目的で行われるのに対し、鎮静は、苦痛を緩和して最期まで楽に生きられるように行われる。

「鎮静死というものがあることを知って、本当にホッとしました。西先生に安楽死や鎮静死のことを聞きに会いに行き、緩和ケアをいかにうまく受けられるかが本当に大切だなと思いました。僕が今、冷静さを保てているのも緩和ケアのおかげです」

「でも現実問題、他の患者にも聞くと、緩和ケアはほとんど機能していない。鎮静死についても、安楽死に比べて一般に知られていません。医療従事者も鎮静死をよしとしない人が多いため受けられるかどうかわからないですし、緩和ケアや鎮静死が広まっていないために苦しんで死に、家族にトラウマや後悔が残る。一体誰のための医療なんだと思うのです」

幡野さん自身は鎮静死を望んでいるが、その先に安楽死があっていいとも思っている。

「安楽死が日本でできるならば僕は確実に安楽死を選びます。今の治療は治すことを前提に考えていますが、治せない患者が何を求めているかを現実に見ると、自殺する人もいる。何十年も生きた人生の終わりが自殺で、家族のその後の人生にとんでもない重荷を背負わせることになる。その現実を見たら、安楽死は必要ではないかと思うのです」

「もちろん障害を持つ方や精神疾患を持っている人への優生思想につながる危険性はありますから、慎重すぎるほど慎重に議論にしなければいけない。しかし、いつでも死ねますよという状況に置かれると、それはそれで死にたいほど苦しい人の救いになると思う。生きることにつながるかもしれない」

自費出版で書く本では、この安楽死の議論にがん患者の立場から石を投じたいと思っている。

幸せは子供 一緒にいた時間を残すために

死に向かう自分を意識せざるを得ない毎日。「本当の幸せは、それを誰かと分かち合えたときだ」という大好きな映画「イントゥ・ザ・ワイルド」で出てきた言葉を日々かみしめている。

「僕にとっての本当の幸せは子供。息子の成長を妻と分かち合えることがどれだけ幸せか。僕がどれだけ写真で賞を取ろうが、どれだけ人からすごいねと褒められようが、嬉しいことは嬉しいけれど、幸せかと言えば幸せではない。誰とも分かち合えないからです」

「息子が今日何を食べたよ、泣いちゃってさ、ブランコ一人で乗れたよと二人で喜べることは本当に幸せ。そこに辿り着けたのは、本当に幸せなことだと思っています」

インタビューの日の午前中、妻が少し外出している間、息子と二人きりで家で留守番をしていた。妻がいなくなったことに気づいた息子は、大泣きし始めた。

「置いていかれてしまったとか、孤独で寂しいという思いでしょうけれども、それを見て、僕が死んだ後もこういう気持ちになっちゃうんだよなとちょっと思ったんです」

インタビュー中、唯一目を伏せて黙り込み、ハンドタオルで涙を拭った。

「本当だったら死にたくないわけで、家族と一緒にいたいけれど、それは叶わないわけだから。じゃあ代わりに何ができるか。冷静さを保って、そのために新しくできた仕事をこなすだけですね」

最近、取材した人たちの中には、親を幼い頃に亡くした人もいる。名古屋の20代の女性は、中学の時に母親をがんで亡くした。父親が家庭内暴力を振るう人で、唯一守ってくれた母の死後、精神を病んだその女性は、「なんで死んじゃったのか、母を恨んだこともある」と話したという。

「それを聞いて、どれほどもっともらしい言葉を残したって、息子からすれば今ここにいて話をしたいとか、悩みを聞いてもらいたいとか、息子の求めるものは絶対に叶えられないのだろうと思いました。自分のことが嫌いで親は死んだのではないかと言う人もたくさんいます。亡くなった親御さんがそれを聞いたらショックだと思うので、そういう誤解もなくしたいんです」

息子の写真を毎日撮っている。

「写真を撮るということは僕がその場にいなければ撮っていないわけなんです。写るのは息子ですけれども、息子がカメラを見ているということは、その時、僕を見ているんですよね。そのことにもいつか気づいてくれると思う。こんなにたくさん一緒にいたんだよということを気づいてくれれば。写真家って好きなものしか撮らないんですよ。そのことにも気づいてくれたらと思います」

【連載1回目】がんになったカメラマンが息子に残したいもの 大事な人が少しでも生きやすい世の中になるように

【連載2回目】写真を撮り、狩猟をすること 生きて、死ぬとはどういうことか知りたい

【幡野広志(はたの・ひろし)】写真家

1983年、東京生まれ。2004年、日本写真芸術専門学校中退。2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、「海上遺跡」で「Nikon Juna21」受賞。 2011年、独立し結婚する。2012年、エプソンフォトグランプリ入賞。2016年に長男が誕生。2017年多発性骨髄腫を発病し、現在に至る。公式ブログ

一部表現を修正しました。