• knowmorecancer badge
  • medicaljp badge

写真を撮り、狩猟をすること 生きて、死ぬとはどういうことか知りたい

幡野広志さんインタビュー連載2回目は、写真と狩猟から得たものを伺いました。

がんになったことを公表し、文章や写真を発表し続けている幡野広志さん(35)。取材の準備のために、過去のブログや作品に目を通して気づいたことがある。

病気になる前から、幡野さんは生き物の生死や命の営みに強い関心を抱いてきた。

広告カメラマンとして仕事を続けていた幡野さんが、2010年に写真家として最初に発表した作品は「海上遺跡」。海の上に残る数々の廃墟を、彼岸のように凪いだ海と死を思わせる青いトーンで写す。

自殺の名所となっている青木ヶ原樹海に何度も通って遺品などを撮影し、1日から始まった個展「いただきます、ごちそうさま。」の作品では狩猟で動物を仕留める様子、獲物の体や血液を美しく写真に収める。

幡野さんは写真や狩猟から何を掴んできたのだろうか。

【連載1回目】がんになったカメラマンが息子に残したいもの 大事な人が少しでも生きやすい世の中になるように

父の死で始めた写真

写真を始めたのは、父の死がきっかけだった。

「18歳の時に父をがんで亡くし、高校を卒業して就職しました。父は写真を趣味でやっていて、若い頃には冬の雪山に登って写真を趣味で撮っている人でした。子供の頃から家にたくさんあったカメラ機材で遊んでおり、父の死後、遺品を整理していて身近だった写真を始めたのです」

長い間、父との関係は悪かった。12、13歳の反抗期から会話はなく、入院中も全く見舞いには行かなかった。

「今、ネットで色々悩み相談を受けて偉そうに答えていますが、僕自身が父親との関係では後悔の塊です。そういうこともあり、その思いを和らげるためにも、理由付けのように写真を始めたんでしょうね。きっと」

21歳で写真の専門学校に入ったが、大勢で同じ課題に取り組むのが我慢できず、半年ほどで辞めた。その頃から写真は一人で撮るものだと感じていた。すぐに写真スタジオで働き始め、プロの広告カメラマンに弟子入りして現場で学び、その後独立した。

惹かれていた死を感じさせる世界

幡野さんは、商業写真を撮る人をフォトグラファーと呼び、自分の作品を撮る人を写真家と呼ぶ。

フォトグラファーとしてタレントや商品を撮る仕事をこなしながら、写真家としてファインダーを覗く時に惹かれるのはいつも死を感じさせる世界だった。

「青木ヶ原樹海には何度も行きました。遊歩道があって、そこから200〜300メートル中に入ると白骨や自殺した人の遺品がたくさんある。そういう遺品を普通は触りたくないと思うようですが、僕は持って帰ってしまう。あとは動物の骨ですね。なぜかものすごく惹かれます」

理由はわからない。

樹海には2008年ごろから狩猟を始める2012年ごろまで通った。なぜわざわざ人は自殺するのか、単純にそれを知りたかった。死の匂いが濃厚に漂う現場に、必ずと言っていいほどポルノ雑誌とコンドームが落ちているのも興味深かった。

「一人で死ぬ前にマスターベーションをしているのでしょうし、カップルで来てセックスする場面もあったのでしょう。死ぬことと性的なことはつながっているのだと、自分で直に見たり、触れたりすることで実感しました」

「命を生む過程のセックスと死は裏表です。生きていれば死ぬことも絶対に起きるのが人間で、それに興味がないわけがない。それが今は、死ぬことにもセックスにも目を瞑る社会になっています。それにずっと違和感を抱いてきました」

一度、樹海の中でスーツ姿のサラリーマン風の中年男性にも出くわしたことがある。驚いたが、相手も幡野さんに殺されると思って怯えていた。

「今から死ぬのに、殺されることに怯えるって興味深いなと思いました。僕の素性を話して、『止めるつもりも助けるつもりも殺すつもりもないので、ちょっとお話できませんか?』と声をかけ、なぜ死ぬのか尋ねたら、お金の問題と病気の問題ということでした。僕は当時健康でしたから、病院に行けばいいじゃないかと思ったし、病気になったから自殺するという意味がわからなかった」

その男性は樹海で死ぬ理由を、「家で死んだら家族に迷惑がかかるし、電車の飛び込みは賠償金を考えると家族に迷惑がかかる」と答えていた。

「睡眠薬を大量に飲んで眠って凍死したいと話していました。あのおじさんはたぶん亡くなっていると思うのですが、今なら気持ちがよくわかる気がします」

2010年に発表した写真家としてのデビュー作「海上遺跡」は5年ほどかけて撮った作品だ。海上に捨て置かれた廃墟に無性に惹かれ、全国を撮り歩いた。

「写真家としては全く評価されていない時期で、周りの評価されている人間を妬み、自分に自信がない時でした。それでも自分はこれが好きだ、これがいいと思うと思って出した。大きな反響があって、取材もたくさん受けました。死に関心がある人は多いのだ、自分は間違っていなかったのだと感じました」

写真集として出版する話も複数の出版社から持ちかけられた。だが、直後の2011年3月11日に東日本大震災が起き、「津波被害を連想させる」と立ち消えになった。

「震災では人は必ず死ぬのだということを改めて感じましたが、そこまで見せないようにするのかと疑問を感じました。人は絶対に死ぬわけですから、死に関心があって当たり前です。それを縁起でもないとか不謹慎だという言葉で塞いでしまうのはおかしいと思っていました」

度胸をつけるために始めた射撃

射撃を始めたのは、集中力を高めるためだった。仕事でタレントを写す時は、その後ろでクライアントやマネージャーなど20〜30人の大人がこちらを見ている。カメラマンが緊張すれば、撮影相手に確実に伝わってしまう。

「人から見られても緊張せず、動じないようにするにはどうしたらいいかと思って始めたのが射撃でした。本当は弓道やアーチェリーをやりたかったのですが、ハードルが高くてむしろ鉄砲の方が敷居は低かった」

2010年に鉄砲の所持許可を取り、訓練を積んで集中力は高まった。緊張しなくなると仕事もこなせるようになり、自信もつく。そこで今度は実際に動物を撃つ狩猟に関心が向かった。

「自分で獲って食べるということを知らなかったなと思ったのです。知らないことを知りたいというのが自分の行動原理です。あとは、主人公がアラスカで狩猟をしながら生活する『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画を見て、こういう世界を自分も体験したいと思ったのです」

この映画の中で強く印象に残ったシーンがあった。主人公がライフルでヘラジカを撃ち解体するが、虫が湧いて食べられなくなってしまう。

「主人公はそれが人生において最も悲しいことの一つだと語るのですが、それを見た時に、自分も普段から食べ残しをしていたし、食料廃棄もしていた、何も考えずに食っていたなと気付かされた。とにかく、自分で体験し、考えてみたいと思いました」

山に分け入って狩猟をし、自然の営みを注意深く観察しているうちに気づいたことがある。

「頭ではわかっていたことですが、カモシカやカエルなど天然記念物が自然と死ぬ。それを他の動物たちが食べているわけです。天然記念物だから保護するとかそういう枠組みは人間が決めたものであって、動物からすれば死んだ段階で他の動物の餌です」

「死ぬということはゴールとか終わりとか悲しいことのように思いますが、他の動物が生きる上では絶対に死ぬということが必要です。狩猟をしているうちに、死ぬということをさほど悲しいと思わなくなってきました。死ぬのは当たり前のことであって、自分の順番がきただけです。誰でもいずれ死ぬ。狩猟をやって良かったのは、頭で理解するのではなく、それを体感できたことでした」

狩猟によって得た思考を写真で見せる

今年2月には最後の狩猟を終え、鉄砲を処分した。

「病気になる前からもう狩猟はやめようと思っていたんです。自分の知りたいことは知ることができたし、答えに辿り着けましたから。スーパーで肉は買えますし、別に鉄砲が好きなわけでも、進んで動物を殺したいわけでもない。狩猟で得たかったものは思考です。何かを体験して答えを出すということは得られたから満足でした。すっとやめることができました」

4月1日からはこの5年間で、狩猟の現場を撮った作品30点を展示する個展「いただきます、ごちそうさま。」を開催している。

狩猟で動物の命を奪い、それを糧にして生きる。それを作品で発表することと、がんになってから得た思考を皆に知らせることは重なっている。

「死ぬことの延長線上には、裏表のように生きることも入っています。病気になることも、死ぬことも特別なことではない。生まれたのだから、死ぬ。それは当たり前のことです。あまりにもみんなそのことに目をつぶり過ぎているので、それを社会に知らせたいのです」

【連載1回目】がんになったカメラマンが息子に残したいもの 大事な人が少しでも生きやすい世の中になるように

【連載3回目】自分の命は自分で決めたい 最後まで穏やかに生きられるように

【幡野広志(はたの・ひろし)】写真家

1983年、東京生まれ。2004年、日本写真芸術専門学校中退。2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、「海上遺跡」で「Nikon Juna21」受賞。 2011年、独立し結婚する。2012年、自身の結婚式の写真でエプソンフォトグランプリ入賞。2016年に長男が誕生。2017年多発性骨髄腫を発病し、現在に至る。公式ブログ