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生きることも死ぬことも悪いことではない 幡野広志さん、安楽死について考える(5)

幡野広志さんインタビュー最終回は、死は決して悪いものではないという幡野さんの価値観について伺います。

安楽死の議論を仕掛ける写真家の幡野広志さん(36)は、反対する人たちが、生きることに、死ぬことよりも高い価値を置くことに疑問を投げかける。

「鎮静」は苦痛を緩和することを目的に薬で眠る緩和ケアだが、「安楽死」は苦痛を終わらせるために、薬で死を選ぶ行為だ。

死ぬことだって、悪いことではないーー。

それはどういう意味なのだろうか?

生きることも死ぬことも悪いことではない

ーー安楽死、選ばないで安心のために権利を持っているだけかもしれないですが、具体的に考えることはあるのですか?

僕がベストだなと思うのは、亡くなる2ヶ月ぐらい前、寝たきりになる前がいいですね。ある程度、体も動く状態。でもそれは難しいと思います。僕は一つの指針として、次に骨に転移したらと思っています。骨に転移してからどれぐらいかということを考える。

ーーその場合、家族は遠ざけたいですか?

人格が変わるぐらいの苦痛があったら遠ざけたい。ぼくが見せたくないし、子どもも親が苦しむ姿は見たくないと思うし、苦しむ姿を見るって辛いことです。

狩猟をやっていたからわかります。自分で殺しておいて言うのもなんですが、鹿を撃つと一発では死なないんですよ。必ずとどめを刺さないと死なないし、その時にすごく暴れる。苦しむ動物を見ているのって辛い。なるべく早く楽にしてあげなきゃと思う。これは自然な感情だと思うんです。

緩和ケアの人がよくおっしゃるけど、家族の目を気にして死を選ぶ人も結構いる。家族に迷惑をかけたくないという人もいる。でも僕はそれすらもその人の死生観だと思います。否定するべきではないと思う。

緩和ケア医の西智弘先生なんかは、家族に死ぬことを教えたいからギリギリまで生きるとおっしゃる。家族のために死を選ぶ人と、家族のために生きることを選ぶ人って、ぼくは根本的には同じだと思っています。

死を選ぶのか生きることを選ぶのか。どっちにしても家族のためだとしたら、どっちも否定することではないと思うんです。

だけど、家族のために生きることを選ぶ人を素晴らしいと捉えがちで、家族のために死ぬという人を、否定してしまう。

根底に生きることを良しとして、死ぬことを悪と捉える人が多いからきっとそうなってしまうんだろうなと思います。

僕は、死ぬことも生きることも別に悪いことではないと思っています。

生きる権利と生きる義務をごっちゃにしている

ーーそれは幡野さんの写真の姿勢にもすごく見られますね。死が濃厚に漂う対象に美しさを感じ、死は必ずしもグロテスクだったり、マイナスの価値だけを持ったりするわけではない。それを病気の前から写真で表現していらした。

たくさんの人が死を悪いことだと捉えすぎですよね。そんなこといっていたら、誰も死ねないですよ。死ぬことを「負け」とか、自殺を選ぶ人を「逃げ」とか言う人もいるけれど、死ぬことってそんなに悪いことではない。その言葉はいつか自分に跳ね返ってくるだけ。

ーーどうしてそういう考え方が培われたのでしょう。

がん患者になってからより強く思うようになりましたね。確かに僕は死ぬことを悪いことだとは思っていない。もちろん死にたかないですよ。死にたくはないんだけれど、生きることは良いことだと押し付けられ過ぎたから、その反発からかもしれない。

生活の一部じゃないですか。死ぬことなんて。今日もどこかで人が亡くなっている。1日に3000人以上死んでいて、そんなにめずらしいことではないですよ。

ーーことさら、避けなくてはならないものとして死を扱うなと。

助かる人は当然、治療で助けたほうがいいだろうし、避けられる死は当然避けた方がいいと思います。でも、治る見込みがない方とか、死を避けられない方もたくさんいるわけです。

そうなった時に、「生きることはいいことだ」という価値観って、すごく苦しいんですよ。

生きることって権利だと思うんです。障害者とかマイノリティとか、みんな生きる権利があって当然だと思うんですけれども、でも生きることを義務にされちゃうと病人は果たせないから苦しいだけです。

生きる権利と生きる義務をごっちゃにしている人が多いんじゃないかな。そういう価値観も変わっていかなければと思います。

でも価値観は20年、30年単位で変わると思うので、そのためにもいまの10歳ぐらいの子たちが社会を変えてくれるんじゃないかと期待して種をまいていますね。

互いの価値観を押し付けないで

ーー死は必ずしも悪いことではない、ということは一方で、死への誘惑や誘導にもつながりかねません。何度も戻って申し訳ないですが、寝たきりになったり、口からものが食べられなくなったり、胃ろうになったり、誰かの介護が必要だったりすると、生きる価値やQOLが保てなくなるとおっしゃる。そういう人は、現在もたくさんいますよね。

もちろん。たくさんいます。

ーーそこを個々人の死生観だよと割り切って良いのだろうかという迷いがある。抵抗感があります。

それを言ってしまうと「そういう人たちが精一杯生きているのだから、あなたもそうやって生きなさいよ」ということにつながってしまいますよね。それは、全然希望していないことの押し付けですよ。それが結局、患者の望まない延命治療につながっている。

そのような症例をたくさん見ているのは医療者です。医者は少しでも命を伸ばしたいからそういう手段を提示するし、勧めたりもしますよね。患者の家族も少しでも悲しみを先送りにしたいからお願いして、患者本人が望まないものをやってしまう。

価値観の否定は、一歩間違うと価値観の押し付けになってしまう。だから、人の価値観を否定してはいけないし、押し付けてもいけない。そのバランス感覚をやっぱり持つべきですよね。

安楽死があると同調圧力で死を望まれてしまう人がいるからと、安楽死を全否定するのは簡単です。否定した先にある助からない患者さんや社会を想像してほしい。

安楽死を否定することで、患者さんが本当に安楽死を望んだ時にできなくなるという問題点。一歩先のことを想像してほしい。

ーー生きる権利をないがしろにされている人も多い現状、安楽死の議論は早すぎるのではないかという批判もあります。

確かにぼくも生きづらい社会だなと思うんですよ。じゃあ、いつになったらそれが解消されるのか。解消なんかされないでしょう。それが解消されるまで待つのか、黙るのは無理だと思います。

誰かが一石を投ずることで、波紋が広がればいいと思います。誰か声をあげなければ始まらないですよ。そして、当事者が声をあげなければいけないなと思っています。

僕ががんになって一番感じたのは、よくこの状態を何十年もほったらかしにしてたなという驚きでした。医療の問題というよりも、がん患者が置かれているこの状況をよく何十年も放置していたなと思います。

でも放置していた理由はがん患者が声をあげなかったからだとも思う。

そして、なんで言わなかったのかと考えると、口を塞がれている患者さんが多いんだなということにも気づきます。だったら言える人間が言うしかない。がん患者以外の問題も当事者が声をあげないと変わらないと思います。

落合・古市対談の「安楽死」議論は幼稚

健康な医師や、先日も落合陽一さん、古市憲寿さんの安楽死の発言がすごく問題になっていましたが、健康な方が安楽死に言及するとああなりますよね。

ーーあの対談はどう思いましたか?

医療費の問題は、当然考えた方がよくて、僕も今回肺炎で2週間入院して100万円の医療費がかかったんですよ。当然、普段病院に行かない方の健康保険料でまかなわれている。僕は週に1回注射するだけで15万円ぐらい医療費がかかる。検査も含めると一番多い時で週1回の通院で50万円ぐらいかかります。

高額療養費が適用されて自己負担は限られますが、月にすると少なくとも70~80万円は医療費がかかっていると思います。患者の立場からみると、明らかに少子高齢化で医療費は成り立たないだろうなと思います。

だけど、この日本の健康保険の制度って死守すべきものです。それがないと、安心して働いて納税もできない。国民皆保険の安心感があるから働けるわけです。

それは死守しないといけないから、医療費の問題は考えるべきだと思う。だけどそこを安楽死とつなげてしまったのは、すごく短絡的だと思いました。それは結局、健康な人の発想ですね。

ーーなぜ短絡的だと思ったんですか?

安直過ぎますよ。でもああ考えるのはしょうがない。確かに医療費はすごく高いけど、医療費のために安楽死を選ぶはずがない。国民の皆様に迷惑をかけてます、なんて思わないですよ。

ちょっと想像力が足りないなと思いましけど、医療費の問題は考えなくてはいけないし、落合さんのおっしゃっている介護とか介助の問題をITやAIでなんとかするというのはすごく面白い。

安楽死さえ持ち出さなければよかったのにと思います。一見、安楽死推進の援護射撃のように見えますが、正直なところ足を引っ張られたかな。

ーー延命治療1ヶ月を自己負担にするというのも。

それは事前に測れないですし、人を死に追いやる言葉だと思います。

あの対談は優生思想と言われていますが、僕は安楽死を議論していく中で一番怖いのは医療者の優生思想です。医療者は優しい人ばかりではない。優生思想を持っている人もたくさんいます。

安楽死に恐怖を感じる人にどう答えるか?

ーーその優生思想が、最近の日本で幅をきかせているのが怖いです。生活の全てに介助が必要な重度の障害者たちは、日々、生活している中でも介助者との力関係を感じています。介助者が不機嫌だと乱暴に扱われたり、無視されたりもする。家族への遠慮から、人工呼吸器をつけることを選べない難病患者もいます。行政から公的な介助も十分認められないことも全国でよくあります。

なるほど。

ーーその中で、安楽死の議論が盛り上がれば、その人たちが恐怖を感じる。ただ生きるだけでも毎日既に戦いを強いられているのに、安楽死を選べる制度ができた時の圧力への恐怖感は、具体的な脅威です。

当事者は恐怖感を感じているのですか? 確かに落合・古市対談は僕が見ても怖いなと思いましたけれども。

確かに介助者との力関係はこの2週間入院しただけでも感じたんです。ぼくがされたわけではないですが、認知症の患者さんもたくさん入院していて、叫んだりしている。看護師さんも消耗したり、疲れたりしていると、一人に時間をかけていられなくなり、どうしても荒くなる。

でも、その問題と、患者が安楽死を望むことは別の問題だろうと思う。全ての医療の問題を紐づけられてしまうと、反論が枝分かれしてかみ合わなくなります。

ーー安楽死の制度を作ろうとすれば、それはがん患者だけでなく、全ての人に網がかかってきます。ですから、がん患者や医師だけでなく、様々な立場の人が敏感に反応しています。

本当に正直なことをいうと、幻想と戦っている人が多いと思うんですよ。起こるかもしれないリスクや不安に対して問題を提起している人はたくさんいて、確かにそれは一つ必要な視点だとも思う。

だけど、その起こっていないリスクを想像できる力があるならば、現在、がん患者が直面している問題にも目を向けてほしいんですよ。

一人一人が自分の意思を通せるように

緩和ケアには限界があります。ぼくは選択肢が多ければ多い方がいいと思っています。それには、個々人が強くならないとだめだとも思うんです。

それもまた30年後、40年後の話です。いまの子どもたちが大人になった時に、人の目を気にせず生きられる人、人の目を気にせずに死ねる人。そういう人たちに育ってもらうしかないですね。結局は教育論に辿り着きます。

ーー確かに、自分の死や自分の生を、周りの圧力も突っぱねて自分はこうしたいと主張できる強さやそれを保障する制度や環境があれば、安楽死という選択肢があっても、左右はされないでしょうね。

よく欧米と比較されちゃうじゃないですか。欧米で安楽死ができるのは個々人の意見が尊重されて、個人で考える力があるからだと主張される方も一定数います。

ーー欧米の安楽死の現場を取材したルポ『安楽死を遂げるまで』(小学館)を書いた宮下洋一さんはそうおっしゃっていますね。

そうですね。宮下さんはそういう主張です。でも僕は、違和感を覚えます。日本人はムラ社会と感じるのかもしれないけれど、日本人の価値観に沿った安楽死を作るしかないと思うんですよ。欧米モデルを目指すのではなくて。

それは結局、それぞれの価値観を認めるということじゃないですか。人の目を気にして生きる人、人の目を気にして死ぬ人も含めて、価値観を認めてあげるということだと思う。「それは本当の自分の意思ではないでしょう」と否定するのではなく、それもまずは認めてあげることだと思う。

ーーそれは結構危険ではないですか?

しかし、今は結局、そういう人たちが自殺に流れているだけですよ。安楽死に反対する人はいますが、じゃあ誰が本気で自殺を止めていますか? 1年間に何万人も亡くなっているのに。

僕はそこに矛盾も感じるし、医療者は生きろ生きろと言いながらも生活保護受給者のことを悪く言ったりもするし。矛盾だらけなんです。みんな綺麗事ばかり、いいことばかり言って、本当は他人事なんです。

ーーみんな自分の立ち位置から意見を言いますね。

僕自身も患者としていっているだけなので、自分の身勝手さなのかもしれません。だけど、誰の身勝手さを通すのが一番いいか考えたら、患者だろうと思います。安楽死だってスイスだろうが、希望した人全員ができるわけでもなく、基準、規定がたくさんあります。

結局、安楽死に対してそういう不安を抱く人がいるのであれば、ハードルをどんどん上げていくしかない。結局その結果は、鎮静をやりたがらないお医者さんがいる現状のようなものになってしまいます。

ーー鎮静がなかなかできない現状と同じだと。

今の鎮静と同じ状態になっちゃいますよ。手段としてはあるのに、行使されず、人や運による、という状態です。

大きな問題だし、すごく難しい問題だと思うんですけれども、話し合う機会も、みんなで考える機会もいましかない。患者が自分で望んで発信するケースが今後、いつ起きるかわからないですよ。

最後まで考えて生きたい

ーーこれからのご予定は?

また入院して、自家移植のための血液を採取します。ただ、やるかどうかは決めていないです。血液を採取して、自家移植をしても再発はする。ただ、再発した時に使える薬も出ているので、やるメリットはあるでしょうね。

ーーお仕事は?

3月に初めての写真集が出ますし、生きにくさを抱えた人をたくさん取材したので、その人たちの話を書いた本を出します。生きにくさの問題も最終的には、教育問題に行き着く。学校教育ではなく、親子教育、親子の関係性ですね。

安楽死の問題にしても、生きにくさにしても、やはり30代、40代の子育てをする層に考えてもらいたいです。

仕事は変な話、過労死するぐらいきているんです(笑)。これが健康な時だったらもっと嬉しいんだろうなあ。でもこんな病気になってから仕事がたくさん来てもね。お金稼ぐことも実はあまり嬉しくないです。

ーー今の1番の喜びは?

やはり写真を撮るのは楽しいですよ。色々なところに行って、会ったことのない人に会って、写真を撮るのは楽しいですね。

あとは自分の息子の成長です。すごく愛おしいです。がんになって自分が何を大切にしていたのかがよくわかる。金じゃなかったんですね。自分の価値観って。

ーー大切にしているものがはっきりしていて、今なお、社会に安楽死の議論を仕掛けている。写真や家族との時間だけではなくて、それはご自身のやりたいことなんですね。

僕は、昔からずっと考えることがすごく好きだったんです。だからでしょうね。

ーーそうですね。動きながら考える。

例えば、僕ががん患者じゃなくて、ALSとか精神疾患とか違う病気になったら、それなりに何かを感じて、何かを行っていたのだと思うんですね。

病気でなくても、例えばブラック企業に勤めていて、過酷な思いをしているのだとしたら、それを感じて発信しただろうし、どんな状況になっても、自分で考えて、それに答えを出してものを言っていたと思います。

たまたまがんになって、がん患者の問題が見えていつも考えているだけで、たまたまですよね。特にこの安楽死のことやがん患者のことは、1年かけてようやくいろんな点と点が結びついてきて問題点が見えて、じゃあどうすればいいのかというところまできた。

それを発信して反響も大きくて、批判もほとんど起きていない。むしろ肯定的な意見が大半を占めていたので、論文を出して認められた感覚ですね。

ーー最後まで考え続ける。

そうですね。考えることって、楽しいです。きっと、ギリギリまで考えているんじゃないですかね。

(終わり)

幡野広志 写真集の写真展。」が3月10日まで、TOBICHI東京とTOBICHI京都で開かれている。会場では、写真集購入特典「小さい優くんの写真集」も。

「死を目の前にして、苦しんで死にたくないと思った」 幡野広志さん、安楽死について考える(1)

鎮静は悪くない でもそれまでの苦痛に耐えられない 幡野広志さん、安楽死について考える(2)

誰のための、何のための安楽死? 反論や批判にどう答えるか 幡野広志さん、安楽死について考える(3)

「医者たちを焦らせたい」 安楽死なんてしなくてもいい社会に 幡野広志さん、安楽死について考える(4)

【幡野広志(はたの・ひろし)】写真家

1983年、東京生まれ。2004年、日本写真芸術専門学校中退。2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、「海上遺跡」で「Nikon Juna21」受賞。 2011年、独立し結婚する。2012年、エプソンフォトグランプリ入賞。2016年に長男が誕生。2017年多発性骨髄腫を発病し、現在に至る。著書に『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP研究所 )、初の写真集『写真集』(ほぼ日)。公式ブログ