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障害者雇用に取り組みたくて入省したら、障害がある息子が生まれた 母として役人として目指してきたこと

障害者雇用の仕組みを作るために入省したら、自分の長男も障害を持って生まれてきた——。そんな経験から、より良い雇用環境を作るために奔走している厚労省障害者雇用対策課長、小野寺徳子さんにこれまでの歩みを聞きました。

障害者雇用の仕組みを作るために旧労働省に入ったら、自分の長男も障害を持って生まれてきた——。

そんな経験から、より良い雇用環境を作るために奔走している公務員がいる。

厚生労働省の障害者雇用対策課長、小野寺徳子さんだ。

「障害があってもなくても、働くことに限らず誰もが世の中の支え手となる喜びを感じられる社会になってほしい。そのための仕組み作りをしたいのです」

BuzzFeed Japan Medicalは小野寺さんのこれまでの歩みを聞いた。

幼い頃から障害がある人は身近な存在

呉服屋の長女として育った幼い頃から、障害のある人は自然に暮らしの中にいた。

仕立て屋さんの重度の障害がある息子さんも、母が仲良くしていた女性のダウン症がある娘さんもよく店に遊びにきていて、母はとても可愛がっていた。

「子供心に何か違うな、とはわかるのですが、母が自然に接する姿を見ていたので、変だなという気持ちはありませんでした。むしろ、私も『どうしたら伝わるかな』と母の真似をするようになったのです」

早稲田大学に進学し、教育心理学を専攻した時、教授に勧められて障害児の親の会「たまごの会」でボランティアを始めたのもごく自然な流れだった。

「お子さんの障害を受け入れられていないお母さんたちを先輩のお母さんたちが支えている会でもありました。偶然、うちに遊びにきていたダウン症の娘さんがいるお母さんが中心になって作った会でご縁を感じました」

この会に集まるお母さんたちから何度も聞いて、忘れられない言葉がある。

「『なんでうちの子なんだろう?』と言われるのです。でも自分にはそれにまったく答えるすべがない。何ができるわけでもないのですが、そこにいる間はお子さんを預かって、お母さんたち同士で語り合って気持ちの整理をしていただく」

大学卒業後、1年間、このたまごの会で指導員もした。集う会を重ね、親子に対する愛着が深くなるうちに、一つの疑問が胸から離れなくなった。

「この子達は将来どうなるんだろう。ここにいる間は精一杯向き合えるけれど、このお子さんたちの将来のために何ができるんだろう」

この子たちが成長した後、親がいなくなった後も安心して暮らしていける仕組みを作りたい。障害者雇用の問題に取り組みたくて、旧労働省に入省した。

息子の障害が見つかる「なんでうちの子なんだろう?」

しばらく新しい職場で仕事に邁進していたが、母に治らない末期のがんが見つかった。せめて死ぬ前に孫を抱かせたいと、急いで結婚して妊娠した。

そうして29歳の時、長男の広也(こうや)さんが生まれた。予定日を超過していて陣痛誘発剤も使ったが、出生時の異常はなかった。

「とても元気な子でしたし、コミュニケーションも取れていたし、しばらく障害があることには気づきませんでした。母の介護に目が行って、息子の様子を丁寧に見られなかったこともあるのかもしれません」

母は広也さんが生まれて半年後に亡くなった。別居婚だった夫と家族で暮らす時間が欲しいと、すぐに長女を授かり夫が単身赴任していたブラジルに行って産んだ。その直後に夫が倒れ、ワンオペ育児が続いた。

夫や生まれたばかりの娘の世話で、この時も息子になかなか目がいかなかった。

広也さんが2歳の時に帰国。保育園に入って3歳か4歳ぐらいになった頃、言葉の発達が遅れているのに気づく。

「片言でも3語文や因果関係の言葉が他の子は話せるようになっているのに、うちの子は話せない。保育園の先生からも『一人で遊んでいることが多い』と言われるようになりました」

「確かに家でも車のおもちゃで一人で遊んでいることが多い。でも妹とは普通に遊んでいましたし、私がため息をついていると『大丈夫?』と顔をのぞき込んでくるような敏感さがありました。感覚的なやりとりが成り立っていたので、あまり手が掛からなかったのです」

病院に連れていくと、知的障害や発達障害という診断はつかなかったが「発達遅滞」と告げられた。

「それを聞いて私は、『なんでうちの子なんだろう?』とボランティア時代にお母さんたちから聞いた疑問を持って悶々としました。でも私自身がその言葉を言われて困った記憶があるので、自分は人には言えませんでした」

一人抱え込んだまま、問いの答えを探そうと、様々な医療機関や子供の発達の専門家のもとに行き、原因探しに明け暮れた。

先輩のツテでたどり着いた国立成育医療研究センター(当時は国立大蔵病院)で、「右側頭葉に萎縮の疑いがある」と言われた。その原因ははっきり言われなかったが、知的障害と発達障害があるようだった。

「診断されて愕然とする、ということはありませんでした。常に遅れているのですが、本人なりに発達のステップは上がっていく。視覚刺激が強い子なので、文字を覚えたら読んだり喋ったりもできるようになりました。言葉を介したコミュニケーションも取れ始めたのです」

普通学校に入学 「世間の普通の反応を経験させたい」

小学校に進む時は、特別支援学校にすべきか、普通学校にすべきか迷った。でも、「幼いうちに障害者が社会に出た時の普通の反応を経験した方がいい」と考えた。就学時健診もクリアして、普通学校に入れた。

「障害児が守られて生きていける世の中ではないと思っていたし、いつかは自分もいなくなる。この子をこの世の中に置いていかなければいけないわけです。小さいうちに傷つく経験もした方がいいと思いました」

しかし、案じていたよりも周りの友達は我が子に優しく接してくれた。

「いつもニコニコしていて可愛がられ、女の子たちがすごく面倒を見てくれたのですね。子供たちが色々手伝ってくれて、いい経験をしました」

学校生活も当初はうまくいっていた。

「耳からの刺激は弱いので、先生の指示は理解できない。でも集団行動はみんなが動くからそれに付いていくことはできるのです」

それでも学習内容が複雑になるに従って、授業に付いていけなくなった。

「つまらないから机の上にあぐらをかいて鼻歌を歌ってしまう。担任の先生も学級の運営で困ってしまって呼び出されました」

発達障害の学級に通わせてもらうよう頼んだが、「特別の支援が必要ない」と判定されて普通級に進学したためそれはできないと拒否された。

仕方なく、大学生のアルバイトを雇って付き添いをしてもらった。自分が稼いだ給料は子供の教育のための費用に全て消えた。

4年生になった時、肥満もあったため、千葉県勝浦市にある全寮制の心身虚弱児のための学校、目黒区興津健康学園(現在は閉園)に入れた。

中学からは特別支援学校に進み、高等部を卒業する時に進路を考えた。企業に就職させることを決めた。

特例子会社に就職 トップが変わって精神的に不安定に

なぜ企業への就職だったのだろうか?

「障害があってもなくても、世の中の支え手になっていく喜びが必要だと思いました。働いて税金を納めるということだけではなくて、周りの人の役に立ったり、重いものを持ってあげたりして、感謝されることは大事なことです。本人の生きがいや尊厳にもつながると思うのです」

「どういう形であってもなんらかの役に立ったり、なくてはならない人と思われたりする経験をたくさん持てたらと思いました。うちの子は幸い健康ですし、知的レベルもそこまで低くない。企業で働くことを目指そうと思いました」

障害があると、普通の人よりも早くできなくなることが増えるはずだ。若いうちに、一番ハードルが高い企業での就職が叶うなら、働かせたい。

「いずれは福祉的な就労でなければ難しくなる時も来るでしょう。チャレンジできる時に企業で働くことを経験させたいと思いました」

当時、埼玉労働局で働いていた小野寺さんは、環境が良さそうな埼玉の特例子会社(※)を見つけ、息子に職場実習させた。

※障害者の法定雇用率の義務を達成するために、大企業が障害者の雇用に特別な配慮をする子会社を作り、親企業の雇用率に算定するための制度。

「リタイアした高齢者を指導につけてくださって、個々の障害がある社員に対してキャリア形成まで考えてくれるとてもいい会社でした」

緑化作業やゴミの分別を担当していた広也さんもやりがいを持って働いていたが、3年経って社長が交代したら運営方針はガラリと変わった。指導役の高齢者も全て雇い止めされ、広也さんは不安定になった。

トイレの個室にこもる時間が長くなり、トイレットペーパーをちぎって床に散らかした。食事をみんなで取らなくなった。公共交通機関に乗れなくなり、外出も好きな外食も旅行もしなくなった。精神科クリニックに通い、薬も飲んだ。

「もっと早く気づけていたらこんなに辛い思いをさせずに済んだのにと反省です。『しくじり先生』ではないですが、私の子育ては、『あの時もっとやれたことがあるのに』の連続です」

新しい社長に面接しにいくと、「毎日2時間かけて通っているのに賃金に見合った仕事ができていない。本人にとっても良くないのでは」と突き放された。

「こういう時に私は母親の立場もあるのですが、行政の立場で考えてしまうところがあるのです。両者言い分があるな、とつい思ってしまう」

「親としてはそんな状況に息子を置いておくのはかわいそうですし、正直『特例子会社なのに』とも思いましたが、労働行政の立場だとここで苦慮させることで障害者雇用にネガティブになられても困ると考えてしまう」

本人と話し合い、この会社は辞めてまずゆっくり仕事をしようと、福祉的就労の場である「就労継続支援B型事業所(※)」に入所した。

※企業で働くことが難しい人に必要な訓練を提供する福祉事業所。生産活動による工賃が発生する。

やりがいが抱けなかった就労訓練の福祉事業所

ところが、高齢者や重度の障害者が多いこの事業所では広也さんはやりがいを見いだせなかった。

公園の清掃を担当した時は指導員に「ゴミ袋の口を結べるのは広也君だけなのですごく助かります」と言われた。良かれと思って褒めてくれたのだろうが、「そんなレベルでしか働かせてもらえないのか」と愕然とした。

「目標として『企業への就職を目指す』とも書いておいたのですが、それに対してどんな訓練をしてくれているのかも心許ない。お絵描きなどをやらせていて、このままここにいては企業で働けなくなると思いました」

その頃、広也さん自身が気になる言葉をつぶやき始めたのもショックだった。

「『僕は障害があるから』とか『僕はバカだから』とか言い始めたんです。これまでそんなこと一度も言ったことがないのに。それから『親亡き後はね、ママ』などと言い始めて、どこで覚えてきたんだ、と思いました」

この子をこのままここに置いておいていいのだろうか。相変わらず電車に乗れず、外出をしたがらない消極的な様子も続いた。

「自信がつかないと外には出ていけなくなるんだなと気づきました。仕事のレベルを落として、のんびり過ごせたからと言って元気になるわけではない。しっかり生活リズムを作ったり、目標を持って過ごしたりすることが大事なのではないかなと思いました」

そこで、次に考えたのが、「就労移行支援事業(※)」だった。

※企業で働くことができると見込める人に対して、必要な訓練を提供する福祉事業所。利用期間は原則2年。

「私は企業の雇用のことはわかっても、福祉のことは知らない。この子に合う場所はどこにあるのかと一から情報を探すような状況でした」

役所に行くと、福祉事業所一覧表はあるが、実際にどういう作業をしているのか、どこが合っているのか判断するための資料はほとんどなかった。品川区の事業所に通い始めたが、1年が過ぎたあたりから本人が「今日はお休みしたい」などとサボりたいような態度を示すようになった。

「変な怠け癖がついたのかしら?と疑ったのですが、要はつまらないようなのです。就職に向けての訓練や、本人がどういう適性を持っているかもあまり考えてくれていない印象を受けました」

「活躍できる人材に」北海道の移行支援事業でやりがい復活

その頃、たまたま北海道で画期的な訓練をしている移行支援事業の経営者の話を聞く機会があった。

「要はすごいスパルタ。ホテルリネンの洗濯をしている大規模工場の会社が作った福祉事業所なので、根っこが企業なのです。工場で働く時に使える人材になれるかという観点で訓練しているので、工場のスピード感を訓練に取り入れていました」

企業で働くための、現実的な訓練をする姿勢に惹かれた。ただ、その頃もまだ広也さんは公共交通機関に乗れないし、外出もしたがらない状況だった。

「そんな子が北海道に行けるだろうかと思い、まずは本人にこういう事業所があって訓練してくれるのだけどと話してみました。そうしたら『行ってみる』とあっさり言ったのです」

2021年の秋口に2週間体験実習をしにいくと、指導員が本人に対してこう説明したのにも驚いた。

「2年間訓練して就職することを目指していますが、ただ就職するのではなくて、活躍できる人材として就職してほしいのですよ」

既に障害者雇用対策課長になっていた小野寺さんはその言葉に強く感銘を受けた。

「これが障害者雇用じゃないか!とぜひここにお願いしたいと思いました。本人も体験実習が終わった2週間後に『やってみる』と言ったので、昨年4月から送り出しました」

現在、離れて暮らす広也さんにたまに電話をすると、声の張りも違い、明るくなったことに驚く。年末年始も帰省せず、「帰りたい」とも「辞めたい」とも言わない。厳しい作業なのに生活に張りができてやりがいを見出せているようだ。

「前の移行支援事業所では、サボっていたのではなくて、成長の伸び代があったのに親が限界を決めつけて環境の整備ができていなかっただけなのだと思います」

「今も常に模索していますが、障害ゆえの特性なのか、性格なのか、甘えなのか判断するのが難しい。障害者雇用には、客観的に個々のできることとやりたいことを評価して、その能力を伸ばすにはどこがいいのか選ぶための仕組みが必要なのです」

(続く)

【小野寺徳子(おのでら・のりこ)】厚生労働省 障害者雇用対策課課長

早稲田大学教育学部卒業後、障害者の親の会が運営する障害児の集団療育の現場で指導員として1年間勤務し、1990年、労働省(当時)に入省。

山梨労働局職業安定部長、埼玉労働局安定部長、ハローワークサービス推進室長、首席職業指導官を歴任し、2019年7月から現職。

2019年3月、明治大学ガバナンス研究科修了(公共政策修士)。