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Updated on 2020年6月2日. Posted on 2020年5月26日

「高校野球の開催は可能だった」感染症の専門家が語るゼロリスク思考の弊害

新型コロナウイルスの流行では、日本特有の「忖度文化」や「ゼロリスク思考」が見え隠れしています。第1波が収束しかけている今、「コロナと共に生きる」時代に向けて、岩田健太郎さんに日本の社会の問題をあぶり出していただきます。

新型コロナウイルスの流行第一波が収まりつつある。

落ち着いて見ると、これまでの対策や私たちの行動には、日本特有の文化とも言うべき「忖度」や「ゼロリスク思考」など不思議な現象が見え隠れしている。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

日本の忖度文化やゼロリスク思考を批判する岩田健太郎さん

感染症専門医として書籍や取材対応、SNSなどで積極的な発信を続ける神戸大学感染症内科教授の岩田健太郎さんに、様々な疑問をぶつけてみた。

※インタビューは5月21日午後にスカイプで行い、その時の情報に基づいている。

「相談・受診の目安」はお為ごかしだ

――厚生労働省は「相談・受診の目安」を作っていましたが、「37.5度以上の発熱が4日以上」などの基準が「受診抑制につながる」と批判を受けて、数値なしの内容に変更しました。先生は著書の中で、厚労省が絶対的な基準のように見せ、保健所がそれを四角四面に受け止めて患者に対応したことを批判しています。

要は責任を取りたくないのですよ。

厚生労働省

変更された「新型コロナウイルス感染症についての相談・受診の目安」。数値の目安がなくなった

――文面そのままを受け止めて運用していました。厚労省が「誤解が多いから」と変更したことについてはどう考えますか?

誤解が多いなんていい加減なことを言ってはだめです。厚労省は当然、誤解すると思って書いているはずです。確信犯です。よう言うわ、と呆れます。

――受診や検査が殺到しないようにという意図だったということですね。

検査を抑えるためにわざとこういう文言にしたに決まっています。

似たような話で、「よう言うわ」と思ったのは、高野連(日本高等学校野球連盟)が、球児たちの安全と健康を考えて、夏の甲子園の大会を中止したと発表したことです・

毎年炎天下で試合させていたくせに「よう言うわ」とぼくは思いました。球児の健康なんて考えていないでしょう。ちなみに、ぼくは「全試合甲子園でやらない」という条件下なら、高校野球の開催は可能だったと思っています。

同じように、「受診の目安」ですが、厚労省が本当に絶対的な基準ではないと考えていたのなら、何回も受診や検査を断られたというエピソードが報じられている時に、「あれは絶対的な基準ではなくてあくまでも目安ですから、臨機応変にやってください」と大臣が繰り返し、アナウンスすればよかっただけです。

それを全然言わないで、後から「あれは誤解でした」なんて、何を言っているんだと思います。

ましてや厚労省は、監査などにかこつけて、いくらでも恣意的に弱いものいじめができるわけです。医療機関でも保健所でも、なんだかんだと言い訳をつけて、言うことを聞かない人たちを裏から罰する権力を持っている。

例えば、病院監査とかで細かいところで揚げ足取りをすれば、気に入らない医療機関を罰したり脅したりするのは容易です。

いくらでもいじめることができる絶対的な権力を持っていて、「厚労省の基準はそのまま聞かなくてもいいのですよ」と言われても、保健所や病院の多くは、いうことを聞くに決まっている。

そういう構造問題があることを熟知した上で「誤解していた」といけしゃあしゃあという。あんなお為ごかしはないですよ。

医師も保健所もプロとして自分で判断すべき

――保健所についても、それを文字通り運用したのは致し方ないという感じですか?

致し方ないとは思わないです。本当だったら保健所もプロフェッショナリズムに則って、自分たちの判断で、「厚労省はこう書いているけれども、この人は検査すべきだ」と主張すべきです。

医者もそうです。保健所は必要ないと断ってきても、ここはPCRをやるべきだとプロフェッショナルなせめぎ合いがあるべきです。

医療機関も弱腰だし、保健所も弱腰だし、厚労省は上から目線で押し付けながら、「自分たちで判断してというつもりだった」とポーズで言う。

昔からそうです。ほぼ全ての感染症に言えて、例えば、SFTSというマダニの感染症がありますが、「検査をしてください」と僕が言っても、「国の基準を満たしていないのでできません」と保健所が断ってくる。

そこは国の基準よりも、患者を診ている医師の判断の方がよっぽど重要なので、「ちゃんと検査すべきだ」と説得するのです。こういうのを繰り返しています。

「37.5度が4日続く」なんて数字には何の科学的な意味もありません。ちゃんと文献を読んでいる人にとっては、意味がないことがすぐわかります。

我々は「プロフェッショナルオートノミー(専門性に基づく自律)」を持った専門家なわけだから、検査の判断は現場レベルですべきなんです。

国が示しているのはあくまでも目安で、3.5日だったら検査する意味がないということではない。現場の判断を、行政も尊重すべきです。

日本の感染症行政は、お上が全部決めて、上から目線で箸の上げ下ろしまで全部指示する。病院はそれに全部従う。歯向かわない。あからさまに嫌がらせをしてくるに決まっているからです。

だからみんなビビって言うことを聞く。硬直的な対応になって、保健所が疲れ切って倒れてしまう。

基準を作るのは構わない。何か目安がないと困るからです。でもあくまでも緩やかな目安で、「現場レベルでいかようにも判断してください」と伝えるべきです。

でも、厚労省のサイドでは、本音の部分ではそれを伝えたくないと言うのが見え隠れしています。本当に臨機応変にやってほしいのか、臨機応変というのはあくまでもリップサービスに過ぎなくて、本当に臨機応変にやったら怒られてしまうのか。

本音と建て前の乖離が激しすぎて、結局厚労省が何を言いたいのかがわからない。分からないから、過剰に斟酌し、忖度する。保健所長と話をすると、厚労省の通知は必ず行間を読まないといけないと言います。

――目安が変ったら、受診する人が一部増えたと報道されていました。でも、私が保健所に取材したら意外と増えていませんでした。

それは保健所を介さなくても検査ができるようになったからです。病院独自でPCR検査ができるようになったり、民間の検査会社も使えるようになったりしているからです。

――では、発熱外来の受診者や相談件数は増えましたか?

全体的には減ってますよ。感染者が減っていますから。感染者が増えればまた増えます。全然関係ない相談も来ます。例えば、僕の外来には「数ヶ月前からずっと体調が悪いのだけれども、コロナじゃないか」と相談してくる患者もいます。

過剰反応は「恐怖」の反映

――「新しい生活様式」についても専門家会議が基準を示しました。屋内のイベントは100人までなど、この数字も特に科学的根拠があるわけではありません。これも多分、日本人は絶対基準として一生懸命守ると思いますが、どう思いますか?

どこの国でも会合は何人までなどの基準は作っているので、ざっくりした目安としてはありなのではないでしょうか。

ご指摘の通り、日本の場合は「目安」が「規則」に変わって、「規則」を破ると袋叩きにするという文化があります。101人集まればすごく怒られるという話になりかねない。

とにかく、みんな怖いのでしょうね。過剰反応は恐怖の反映だと思います。

一般の方もそうですし、医療従事者もそうですが、無症状の人にPCR検査をやりたいという声も、冷静に考えると合理的ではありません。「理にかなっていない、と話をしようとしても、「これは理性やエビデンスではなくて気持ちの問題なんだ」ということを医学を勉強してきたはずの医者が平気で言ってきます。

人間は恐怖にかられると完全に思考停止に陥って、冷静な判断ができないし、周りに配慮できなくなる。あからさまに敵意や攻撃的なノリを根拠に行動してしまう。

パニック映画のようなものです。みんなが過剰反応気味になってしまう。

「PCR論争」は典型的です。恐怖に駆られて、何か、「すがることができるもの」が欲しくなる。

そして、「PCRにすがっちゃだめですよ」と言われれば、自らの恐怖心を源泉にようやく「安心」したくなっていた気分を害されてしまう。自説以外の仮説は全部許せなくなり、憎悪の対象になってしまう。

時事通信

千葉県八千代市の駄菓子屋「まぼろし堂」で4月下旬に見つかった貼り紙[同店提供]。過剰な攻撃も問題になっている

――自粛していないように見える人を過剰に攻撃する、「自粛警察」や「コロナ自警団」のようなものも、それが理由でしょうか?

そういうのを突き動かす最大の理由は恐怖だと思います。感染症は目に見えないですから、もともと恐怖を惹起しやすいのです。

手練れの感染症の専門家たちは「目に見えない病原体」に慣れていますから、冷静に対応しているのですが、対応したことのない人は怖いでしょうね。

「コロナと生きる」ために、ゼロリスク思考はナンセンス

――一旦収束したとしてもウイルスが消えたわけではありません。「ウィズコロナ」とか、「コロナと生きる」という言い方が出てきて、コロナと共存しながら日常生活や社会生活や経済も回していかなければいけないという方向に動いてきています。それは、恐怖で行動を縛ったり、ルールを守らない人を攻撃する方向と矛盾する気もします。

コロナは対応が難しくて、感染者の数が少ない時は怖くないのです。

だから、「コロナなんて気にしなくていい」「普通に生活していい」「経済もどんどん回せ」という主張は、半分は正しいけれど、半分は間違っています。

確かに1例、2例、10例の頃はどうってことないです。そのレベルに抑えている限り、どうってことない。ほぼほぼ日常生活も元通りにできます。

だから、先程申し上げたように、高校野球は中止にすべきではなかったと思っています。

時事通信

全国高校野球選手権大会の中止について、インターネットを通じて記者会見する朝日新聞の渡辺雅隆社長(左)と日本高校野球連盟の八田英二会長=5月20日、大阪市西区[代表撮影]

球児の一人や二人がコロナになったとしても、どうせすぐ治ります。彼らは若くて健康なアスリートたちなのですから、重症化するリスクも極めて低いし、そもそも感染するリスクも低い。

もちろん、感染対策は十分取るべきで、決勝だけ無観客の甲子園でやり、あとは地方の会場でやって移動のリスクを減らすべきだとは思います。ブロックごとに無観客で試合をして、決勝だけ甲子園でやればよかったと思うのです。

それでは甲子園の醍醐味が味わえないという声もあるでしょう。満員の観客の中でブラスバンドを鳴らして、かちわりを頭に当ててやるのが甲子園だと思っている人はたくさんいるでしょう。

でも、ゼロで全くやらないよりはそこそこでやったほうがいいのではないかと個人的には思うのです。

大学での実習の指導も、テレ会議だと、色々な欠点があると指摘されます。でも教育ゼロより、こういう形でもやったほうがまだマシだと思うわけです。

100点満点を目指さなくても、80点ぐらい取れればゼロよりいいじゃないかと思う。それでもだめなら、せめて60点を目指す。ところが、100点を取れなきゃ全部だめみたいになっています。それで高校野球も中止になった。

球児がコロナに感染するリスクはゼロではないですが、仮に彼らが感染してもその実リスクは小さいです。

しかし、むしろウイルスよりも人間のほうが怖い。球児が感染した、となると高野連は過剰なバッシングに合う可能性が高いし、野球部や学校も理不尽なまでに責められることでしょう。「高校野球」は他の高校スポーツと異なり、多くの人が前のめりになって、過剰なまでに感情移入することがありますから。

本来は、インフルエンザにかかるリスクは無視して、新型コロナでは1例も許さないというのはやり過ぎなのではないかと個人的には思います。それが許せないのは、「夏の高校野球」でなければ高校野球とは認めない、という日本人の固定観念があるからでしょう。

「コロナを全く認めない」という「ゼロリスク思考」はナンセンスだし、むしろ失うもののほうが圧倒的に大きいのです。

とはいえ、元の生活に戻すのもナンセンス

でも逆に、「ウィズコロナ」で、ウイルスと一緒に生きていけばいいやと完全に感染リスクを見過ごしていくと、今度は感染者が100人になり、1万人になり、10万人に増えてしまうかもしれない。

そうすると、そのうち5%ぐらいの人が重症になって、ICUに入って出られなくなって、数%の人は亡くなってしまう可能性もある。母数が1000だったら死者は10人レベルに、1万だったら100人レベルに、10万になったら1000人レベルになります。

放ったらかしていると、何万という人がお亡くなりになる悲惨な状態になってしまいます。

コロナウイルスは「数のウイルス」で、少ない数で留めておいているうちは問題ないし、ゼロリスクにこだわる必要はない。

かと言って、じゃあほっとけばいいのだとして、「プレコロナ(コロナ以前)」の時代に戻れるかと言えばそうではない。

満員の観客の中で甲子園の試合をやるのは多分無理です。元の日常生活に完全に戻すのはナンセンスだし、日常生活を全否定するのもナンセンス。

どのあたりで中間の落とし所を見つけるかというのが大事で、落とし所は必ず見つけなくてはなりません。

でもどうしても、議論は両極端に走ってしまって、絶対的な安全域を目指したり、全部無視していいんだという方に走ったりしています。

業界が自分たちで落とし所を作る動き

――その中で、接待を伴う飲食店などクラスター(集団感染)が数多く発生してきた業界は、緊急事態宣言が解除された後も自粛要請がなされています。しかし、この人たちも生活があるので、自主的にガイドラインを作って営業を再開する動きが出ています。どう思いますか?

落とし所探しということではいいと思いますよ。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

集団感染のリスクが高いところとして名指しで自粛を要請されている「接待を伴う飲食店」が集まる「日本水商売協会」は、営業を再開するために独自のガイドラインを作って発表した

例えば、僕はJリーグはどういう風に再開するかにすごく興味があって、いくつかのメディアで提案もしました。これも、やはり落とし所を探すべきだと思います。

ただ、いずれにしても、去年までのやり方に戻すのは無理なんです。

ライブハウスも、ライブをやるというなら、新しい方法を考えないといけない。イギリスのグローブ座では、シェークスピアの演劇を復活するために、新しい対策を打ち出す動きがあるそうです。今のままだと、ずっと休業せねばならず、早晩破綻してしまうからです。

ドイツではサッカーリーグ(ブンデスリーガ)が再開しますが、無観客です。それはやむを得ない。観客も2mぐらい席を離せばいいじゃないかという人もいますが、それはスタジアムの中の問題で、スタジアムに来るまでにすごい行列ができてしまいます。

――サッカーの試合だと、観客は叫びますしね。

そうそう。選手もその声援が励みになっている。だからなかなか難しい。韓国のKリーグは、バーチャルというか、観客の声援をスピーカーで流しながら無観客で試合をしているそうです。

いろんな人がいろんな欲望を持って、こういう風にしたいと思うでしょうけれども、なかなか希望通りにはいかないんです。どこまで戻せるかは知恵の出しどころです。

プライバシーの確保は厳重に

その落とし所を考える時に、今、韓国などで問題になっていますが、プライバシーの積極的な保護は改めて徹底すべきだと思います。

1例1例の感染者を全部探して、クラスター潰しをやる時期は終わっています。今、クラスター潰しに力を割きすぎるのは保健所も大変だし、益は少ない。

第1波の最大の反省点の一つとして、保健所の負担が大きすぎたところがあります。第2波が来る前にここはなんとしても是正が必要です。

韓国のクラブで集団感染が起きた時に、プライバシーの侵害やそこにいた人たちへのバッシングが起きているのが問題になっています。

そこは情報の出し方も考えなくてはいけません。

例えば、何人以上感染者が出たら場所を公表するとか、日本でも情報の出し方のガイドラインのようなものがあったほうがいいと思います。感染者が出たとしても、その店の名前から何から全て公表するのでは失うものが大きすぎます。

ーー韓国の場合、性的マイノリティの集まる場所だったことから、情報をどこまで公表し、追跡すべきなのかが議論になっています。

韓国も儒教文化で、かつキリスト教社会も大きく、性的マイノリティに対する差別が激しいと聞きます。プライバシーを守ったり、匿名で検査できるようになったりなどの配慮が必要です。

この問題はHIVでずいぶんと議論していたのですけれども、そういう配慮が今後日本でも必要になってきます。

一般論でいつも言っていますが、感染した人を叩くという変な文化はやめたほうがいいです。

――感染した人の謝罪もですね。

謝罪もやめたほうがいいし、叩くのもやめたほうがいいし、どこへ行ったということを根拠に叩くのもやめてほしいです。

基本的に人間は何をやろうと自由で、馬鹿なことをやるのも権利なんです。それがたとえ愚かなことであろうと、少なくとも関係のない第三者が叩くのはおかしい。

直接その人に感染させられた人なら、憤慨する気持ちはわかりますが、ただテレビを見ているだけの人は関係ない。

利害関係のない人が、自分の鬱憤を晴らしたいという欲望の処理を求めて、いちいち関係ない人たちを叩くというわけのわからない文化はやめたほうがいいと思っています。

個人の自由とうつさない責任とのバランス

――『感染症は実在しない』で、病気を理由に行動を強制されるのはおかしいと問いかけられています。ただ、感染症の場合は人にうつしてしまうので、行動を全て自由することはできません。自分の行動を制限することがみんなのためにもなるし、自分の生きやすさにつながるという難しいバランスが求められます。どう模索したらいいのでしょう。

梅毒やHIVは典型ですが、性感染症を持っているとわかっている人が誰か他人とセックスするというのは、道義的に悪いことだと思います。自分が梅毒に感染していると知りながら、パートナーと防御なしのセックスをするのはある種の意図のこもった他害的な行為ですから。

では、自分が梅毒という感染症を持っているかわからない人が、誰かとセックスするのが悪かどうか。岩永さんどう思います?

――かかっているかどうかわからない段階で「可能性があるから」と避けるなら、誰もセックスできなくなりますね。

多くの人はセックスの前にいちいち自分の梅毒反応なんて確認していないですよ。

――だから無理な話ですね。

そう、無理な話なんです。

コロナでも同じことで、自分が感染しているかを事前に知る方法はないのです。だから、その人がある行動で他人にコロナを感染させたとしても、罪に問えないと思います。

――よく「誰もが自分は感染しているのだと考えて行動せよ」という人もいます。それは無理なんじゃないかとも思います。

それは、集団の中に感染者がどれぐらいの割合でいるかという「事前確率」がめちゃくちゃ高くなった時はそう考えて行動すべきかもしれません。

でも今は違います。今は東京も、感染していない人の方が圧倒的に多いです。だから「自分も感染していると思って行動」というのはお為ごかしです。偽善的な主張に過ぎない。

事前確率が低い時は「自分が感染しているかも」とか「隣が感染しているかも」と考えない方がいい。

マスクしているしていないで相手を責めたりするのもおかしいし、自分が感染しているという前提でマスクをするというのも綺麗事に過ぎない。そうでない可能性の方が圧倒的に高いからです。

事前確率はとても大事です。事前確率を前提に入れて議論するのとしないのとでは大きな違いですが、ほとんどの人は事前確率を議論の前提に入れていない。検査でも、マスクでも、道徳の問題でも全部そうです。

流行状況によって行動を変える 原理は簡単

――そのあたりをメディアも理解していないし、一般の人も理解していません。リスクについて正確に伝える「リスクコミュニケーション」がうまくいっていないのではないかなと思います。流行していないときにどう行動するか、流行して感染爆発するかもしれないという段階でどう行動すべきを分けて考えられていませんね。

原理は簡単なんです。

雨が降っていない時に、傘をささないじゃないですか。雨が降ってきそうな時に傘を持っていこうかなというのも当たり前じゃないですか。雨が降っている時に傘をさすのも当たり前じゃないですか。

だから、感染症が流行していない時に傘をさして歩くのは、非合理的な行動ですよね。

2月に日本にほとんどウイルスがいなかった時に、「満員電車に乗るな」とか「マスクをしろ」とか散々言われていましたけれど、雨が降っていない時に傘をさすようなものでほとんど無意味なんです。

今度は感染者が増えて、ザーザー降りの時に、「あの時傘いらないって言ったじゃないか!」と怒るのも全くナンセンスな話で、当然そういう時は傘をさすに決まっています。

ウイルスが蔓延している時は、自分の周りの感染者はもすごく多いと判断する。そうすると、満員電車に乗るのは持ってのほかだし、外に出るなという話になります。だから事前確率次第で求められる行動様式は変わってくる。

逆に今のように、グッと感染者が減っている時に電車に一切乗らないのはやり過ぎです。

マスクはその振れ幅がすごく狭くて、感染者がかなり増えたらマスクなんてしても全く意味がない。感染者が減ったら、やはりマスクをしても意味がないわけです。

アベノマスクにどうこう言いたいわけではないのですが、医療現場などは除いて、マスクをした方がいい時期はほんのちょびっとなんです。そこまで感染者が多くない、けれども、そこまで感染者は少なくない、微妙な時期。

だけど、PCRと同じでマスク教の人はものすごく多いので、言うと怒られる。まあ、マスクについては、ぼくは「やりたければすれば」というだけです。信念と議論しても不毛なだけ。少なくともマスクの供給が十分な状況では。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

記者の自宅に5月20日に届いた「アベノマスク」。流行が収まりかけ、マスクも店に出回ってきた頃の配布となった

――アベノマスクは、必要な時期を過ぎた頃に届くというタイミングの悪さですものね。私も昨日届いたばかりなのですが。

僕は、まだ届いていないですよ(苦笑)。娘に「パパ、アベノマスクはいつうちに届くの?」って聞かれてます(笑)。

インフォデミック、どう対応すべきか?

――新型コロナで「インフォデミック」が話題になりました。不確かな情報が溢れて混乱を招いています。党派性でものを言い、「〜派」だなどとレッテルが張られます。きちんとした情報がきちんと回らない問題はどうやって解決したらいいと思いますか?

難しいですよね。これは世界的な現象です。党派性でものを言うのも、世界中どこでも起きていることで、こうすればいいという解決策はなかなか導き出せていません。

アメリカでもお前はトランプ派だ、アンチトランプ派なのかとラベリングでものを見られて、一方からはすごく褒められて一方からはすごくけなされてしまうことが延々と続いています。非常にバカバカしい話です。

せめて、プロのジャーナリストは「人」ではなくて「こと」で議論してほしいと思います。ジャーナリストが安倍首相のやっていることは全部いいとか全部悪いとか、プロパガンダ的なものの言い方しかしないというのはどちらの立場であっても感心しません。

――ジャーナリストは正確な情報を、ことで判断して発信するようにする。専門家はどうすべきだと思いますか?

僕は専門家、科学者とジャーナリストの目指すところは全く同じだと思っています。要は、「真実は何か」を追求すべきなんです。

例えば、コロナウイルスはどうやって診断すべきなのか、検査は誰にすべきか、治療はどうやるべきなのか、真実はどこかにあるはずです。

ただ、誰にもわからない。どんなに科学が進歩しても真実そのものを掴み取るのはほぼ不可能に近い困難事です。例えば、1人の感染者が、免疫を持たない集団の中で平均して何人に直接感染させるかという人数である「基本再生算数(R0)」という言葉がありますが、各地各所のR0を正確に知ることはできません。

よって、先行研究の基本再生産数を「暫定的に」援用するしかない。それでも、なんにも考えないよりはずっとましなんです。

僕らは真実を一生懸命目指さないといけないし、大抵の場合、科学の領域では歴史を通じて真実に近づいてはいます。50年前の医学の世界よりも今の医学の世界のほうがはるかにはるかに真実には近い。それは間違いない。そして、その歴史の過程の中で、かつて自分が正しいと思っていたことだって否定しなくてはいけないことがしばしばあります。

また、ある人が言ったことが正しくても、同じ人が別のことを言った時に間違っていることも往々にしてあります。僕自身ももちろん例外ではありません。が、それは、その人の存在そのものを肯定するものでも否定するものではなく、「そういうもの」なのです。

「ゼロベース」と言いますけれども、いかにゼロベースで自分を何かの立場から離して考えられるかが問われます。

僕がよくやるのは、自分の立場と別の立場に身をおいても同じことが言えるかを自分でシミュレーションすることです。

例えば、「お前は男だからそんなことを言うんだろう」と言われたら、女でも同じことが言えるかと考える。あるいは日本人じゃなくても同じことが言えるか、自分が中国人だとしても同じことが言えるかを考える。

こういう置き換えをすると、自分の党派性に気づきます。党派性をなくすのはなかなか難しいのですけれども。

――自覚的になるということですね。

党派性、あるいは自分の差別性などに自覚的になることです。様々な属性に対して、ネガティブな感情は色々あると思うのですが、それに自覚的になるためには自分とは違う立場に身をおいても同じ結論が出せるかを考えたらいいと思うのですね。

ジャーナリストも時々、会社をトレードしたらいいと思うんですよ。朝日新聞の記者が、記事を読売の編集長に見てもらうとか。

ーー笑

いろんなところでやってみてせめぎ合いをする。そうすると、朝日の記者だからそう言っているのか、ジャーナリストだからそう言っているのか。三角測量ができますよね。

――そういう意味で、科学者はいろんな科学者から査読を受けますね。

政治家も与党と野党をひっくり返したりシャッフルしたりしたらいいんです。彼らは立場でしかものを言わないので、できない相談だと言われると思うのですけれどもね。

要は自分がこうしたいとか、こうすべきだという主張は、ある政党に属しているからなのか、それとも自分がそれが正しいと思っているのか。

僕は真実を目指す派なので、所属が変わったから意見が変わるというのはあり得ないと個人的には思っているんです。

そういう意味では、現在の専門家会議などは、厚労省や内閣の思惑を忖度しているのか、科学者として彼らの思い、欲望などとは完全に独立して科学的議論をしているのか、いまいち分かりにくいですね。

緊急事態宣言解除も、「どこの県については、○日に解除という方向で調整が進んでいます。明日専門家会議を開いて最終的に決定」という報道を聞くたびに不思議になります。

当然、その専門家会議で、「調整が進んだ」方向がひっくり返ることはない。では、どこまでが科学的な見解で、どこからが政治的な判断なのか。このへんの不透明性、利益相反の非開示性は日本が昔から持っている大問題ですね。

――受け手はどういう風に情報を吟味したらいいと思いますか?

受け手も同じことをしたらいいと思います。自分が置かれている立場による考えなのか、そうではないのかが自覚的になれると思います。

それをやることでまた、揺らぐこともできると思います。結論ありきで考えていると、どれほどたくさんの情報を集めてきても、自分の結論に都合のいい情報が足し算されていくだけで、それ以外の情報はどんどん捨てられてしまいます。

全くナンセンスですよね。この流れは助長されこそすれ、減る傾向にはないので、しょうがないのでしょうかね…。

【岩田健太郎(いわた・けんたろう)】神戸大学感染症内科教授

1971年、島根県生まれ。1997年、島根医科大学(現・島根大学医学部)卒業。1沖縄県立中部病院研修医、コロンビア大学セントルークス・ルーズベルト病院内科研修医を経て、アルバートアインシュタイン大学ベスイスラエル・メディカルセンター感染症フェローとなる。2003年に中国へ渡り北京インターナショナルSOSクリニックで勤務。2004年に帰国、亀田総合病院で感染症科部長、同総合診療・感染症科部長歴任。2008年より現職。

『感染症パニックを防げ!〜リスク・コミュニケーション入門』『予防接種は「効く」のか』『ぼくが見つけたいじめを克服する方法 日本の空気、体質を変える』(以上、光文社新書)、『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)、『感染症は実在しない』(集英社インターナショナル)など著書多数。

Contact Naoko Iwanaga at naoko.iwanaga@buzzfeed.com.

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