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「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」 医療人類学者が疑問を投げかける新型コロナ対策

新型コロナウイルス対策で、大きく影響を受けている私たちの社会生活。次々に重大な方針が決められる中、医療人類学者の磯野真穂さんは、立ち止まって考えることを訴える。

新型コロナウイルスの流行拡大を受けて、行動の自粛を強く要請され、大きく影響を受けている私たちの社会生活。

「感染拡大を防ぐ」という至上命題の前で、これまで守ってきた暮らしや文化が失われていくのに、声もあげられない人たちがいる。

命は大事。だけど、人が生きるとは、ただ生命が維持されるということだけなのだろうか。

そんな疑問を投げかける医療人類学者の磯野真穂さんに、お話を聞いた。

※インタビューは4月2日午後に行われ、その時の情報に基づいている。

管理社会に向かう可能性への危惧

ーー新型コロナ対策は医学に基づいて決められていますが、人は医学だけでなく、経済やその他暮らしを決める様々な要素に関わって生きています。でも、それぞれの価値観で自由な生活をしてしまったら、人に感染を広げる恐れもある。公衆衛生とリベラルな価値観は相性が悪い面があると思うのですが、どのように見ていますか?

白か黒かを出せない問題ですね。

私は個人的にこれまでの日本の対策は全く問題がないわけではないにしろ、かなり評価できるのではと思っています。

データを根拠にして、3密(密閉空間、密集場所、密接場面)を避けることを繰り返し要請し、クラスターを抑え込むという対策を関係者の方が懸命にやってくださったおかげで、できるだけ人権を制限せずにここまで来ることができたからです。

しかし感染者の増加を受けて、もっと強力な制限を加えるべきだという声が日本社会でも高まっています。

海外では、二人以上で会ってはいけないといった制限や、オーストラリアで見られるような、合理的な理由がない場合は外出禁止で、それを破ったら罰金が課せられるといった政策も取られています。

韓国では近所に感染者が出たら、その人がいつ、どのバス停からバスに乗り、どこで降りたかといった情報がスマートフォンに事細かに通知されるそうです。

もちろん、現在の新型インフルエンザ等対策特別措置法では上記のような措置は難しいと考えられます。ですが私たちはその先に、そのような制限や監視まで自ら望むのでしょうか?

すでに専門家の方達が問題点を指摘していますが、審議の期間がほとんどないまま改正案が成立した特措法による緊急事態宣言は最大2年間引き延ばすことができ、その発動や解除に国会の審議はいらず、報告のみで良いとされています。

この要件については歯止めとして十分でしょうか?

いったん権力に個人の自由を制限する権利を与えれば、それはどんどん加速する恐れがあります。個人の生活を細かに追跡するシステムがいったん確立されれば、それは他の目的にも転用できるでしょう。

感染は拡大しないほうがいいに決まっています。しかしそれを止めるために、私たちは決して明け渡してはならない何かまで明け渡すことになるかもしれません。

高まる市民の声で私たちの生活を制限・監視する力を権力に与え、もしそれが暴走した時、私たちにそれを止める力はあるでしょうか?

「不要不急」を医学の視点だけで決める違和感

ーーしかし、4月1日に公開された政府の専門家会議の提言では、携帯端末の位置情報を中心にした個人情報を積極的に使うことも選択肢となり得ると示されました。委員の一人の武藤香織氏は、究極の個人情報である遺伝子情報の取り扱いについて研究されてきた方で、会見で自ら懸念を示され、私も日本で監視的な手法が導入されかねないところまできているのだと警戒感を覚えました。

今、私たちの社会には強力な道徳が立ち上がっています。

それは「感染リスクを下げる行動は善」「感染リスクを上げる行動は悪」という道徳です。そしてその背後には医療崩壊をさせてはならない、亡くなる人をできる限り出してはらないという道徳があります。

これはあまりに正しすぎて反対することができません。私も医療崩壊はしないほうがいいし、亡くなる人は少ないほうがいいに決まっていると思っています。

でも、その絶対に反対できない道徳の前に、私たちの日々の生活の目的が「コロナにならない・うつさないこと」に集約され、その判断基準のもとに、私たちの日々の行動が、わかりやすい善悪で二分されていっています。

そして、「コロナにならない・うつさない」という善のためであれば、人権の制限も個人の監視も許すべきだ、そんな空気が世界を覆っています。

私のこんな意見を前に、今は緊急事態でそんなことを言っている場合ではない、と言いたい人も大勢いるでしょう。

でも私は、「そんなことを言っている場合ではない」という声がどんどん強まっているからこそ、反対できない道徳が何を奪い去っていくのかを考えねばならないと思うのです。

「命と経済」の話ではなく「命と命」の問題

ーー頑張っているけれども、そろそろそれでも追いつかなくなってきたというのが4月1日の専門家会議の提言だったと思います。個人の自由と、感染を広げないという全体の利益とのせめぎ合いですね。

はい、感染の拡大を止めるという医学の視点から制限を強めたい人はいると思います。その視点からは正しいと思います。

ただ私が感染拡大の議論を聞いていて疑問に思うのは「命と経済」の対比です。でも私は、これは「命と経済」の話ではなく、「命と命」の問題だと思うのです。

どういうことかというと、感染拡大を止めるという目的に添い、普段の生活を諦めている人たちの命も同じように危険に晒されているということです。

コロナにかかって亡くなりやすい人たちと、その人たちを守るためにこれまでの生活を諦めている人たちの命の両方が危うい状況になっている。その双方が「弱者」です。

「不要不急」という言葉があります。私たちは「不要不急」の外出を避けろと言われていますが、「不要不急」と言われたその先に、仕事をしている人たちがいて、その仕事をしている人たちにとって、その場所は「不要不急」どころか、「必要火急」です。

そして、その生活が回らなくなれば当然かれらの命は真綿で首を絞められるように危険に晒されていくでしょう。

ーーSNSで京都大学の先生が、とても強い言葉で飲みに行くなというツイートをしたことが話題になっていましたね(4月5日午前9時現在、20.7万いいね、11.8万RT)

酒を飲んだら、会話するだろ。大声になるだろ。 それが危険なことわからんやつは、とっとと感染しちまえ。 一ヶ月会社休んで回復したら、みんなの代わりに仕事しろ。 ただ、爺ちゃんばあちゃんの前には治るまで絶対でるな。 風呂はなるべく早く入れ!帰宅後すぐがベストだ。

@takavet1

はい。医学的な視点をお持ちの方の中には、そのくらい強い言葉を投げかけたくなる人もいると思います。

でも「とっとと感染しちまえ」と言われた人たちが訪れる飲み屋には、その仕事がなかったら路頭に迷う人がいる。お金の問題だけでなく、不要不急と指差される場で日々生活することを人生の糧と生きることの意味にしてきた人たちがいるわけです。

そんな生のあり方が、感染するリスクがあるかないかだけでぶった切られてしまう。何が不要で不急かが、ある疾患にかかるか否かの医学の視点だけで決められ、それが唯一の巨大な道徳となることに私は違和感を覚えています。

自分の生活と補償は交換可能か?

ーーその時に、休業補償があるのであれば、いいのではないかと当事者からも出ています。「#自粛と補償はセットだろ」などのハッシュタグも広がっています。

はい。もちろん補償は大切だと思いますし、早急に出してほしいと思います。

ただ経済の問題とは別に考えたいのが、金銭的保証と、生活の制限はトレードオフになるのかという問題です。

「月額30万円いただいたので、自分の日々の生活が監視・制限されることを許可します」

そんな形で私たちは自分の生活をお金と引き換えに明け渡すのでしょうか。

コロナにかからないこと・うつさないこと、それだけが私たちの生きる目的で、それだけが私たちの前に突きつけられたリスクなのでしょうか。

この感染症は未だ出口が見えません。

その出口が見えないまま、緊急事態宣言が発令されれば、私たちの生活の目的はこれまで以上に「コロナにかからないこと、うつさないこと」に集約され、生活のあれこれが不要不急の観点から整理される日々が続くことになるでしょう。

そうやって私たちがありふれた生活を諦め、これまでの生活の中では決して許されなかったことを許容し、遂にはその生活に慣れる時、私たちはそこで何を手放し、失うことになるのかも想像すべきではないかと思います。

未来が不確定な時、不安に駆られた私たちはより大きな声の統制を望みます。それは安心を与えてくれるかもしれませんが、その安心は思考停止と表裏一体です。

緊急事態宣言が明日にでも発令されるだろう今だからこそ、そしてそれを求める姿勢があるからこそ、「感染拡大を止める」という絶対的な正しさが覆い隠す事柄に目を向けるべきだと思うのです。

出口が見えないまま生活を諦め続けるのは「生きる」ことなのか?

ーーその先も気になります。もし休業補償がドイツなどヨーロッパ並みに支払われるとして、夜の街が完全閉鎖することがずっと続いたとしたら、日本の風景や文化がガラッと変わります。

出口が見えているのであれば、危機を乗り越えるためにそのような対策は適切だと思います。ただ今回、出口についてはほとんど語られません。

3月の初めはこの1、2週間が山場と言われていましたが、それが今度は5月のはじめにまで伸び、生活にかかる制限はもっと増えました。

人が行く場所の営業を止めれば、感染の広がりは緩やかになるでしょう。けれども、戻したらまた広まるはずです。そうしたらまた生活を止めるのでしょうか。

今回のコロナ流行を見て連想してしまうのが、医療現場のフィールドワークを続ける中で看護師や介護士の方達から伺った、高齢者の身体拘束や経管栄養の話です。

転んで骨折をさせてはならない、いつも誰かがそばにいるわけにいかない、もし何かが起こったら責任を問われる。そういう理由から身体の自由を奪います。

誤嚥が起こると肺炎になる。スタッフの仕事量を考えると時間をかけた食事介助ができない。誤嚥が起こったら責任問題。そういう理由から、口からの食事が経管栄養に切り替えられます。

すると何が起こるのか。おぼつかないながらも歩けていた人が歩けなくなり、自分で食べることはできなくなり、本当に寝たきりになってしまう。出口の見えないまま、目先の安全・安心・効率を優先した結果の廃用症候群です。

そうやって寝たきりになった人は科学の力で確かに生きています。でもそれが「生きる」ことなのでしょうか?

生きるとはリスクを引き受けながら生活していくこと

多くの人が経済を止めても補償を出せば乗り切れると考えているようです。出口が見えていれば確かにそれで乗り切ることができるでしょう。

でも出口が見えないまま元気な人の生活を止め続け、結果、社会全体が「廃用症候群」のようになるリスクはないのでしょうか?

今、コロナというリスクが数値やグラフ、映像で日々可視化され、最悪の事態を想定し、最大のリスクヘッジをするよう私たちは求められています。

ですが逆に考えると、私たちは病原体に常にさらされており、例えば厚生労働省の一般向けのページによれば、インフルエンザの感染者数は国内で推定1000万人、死者は1万人、世界では25万人から50万人と言われています。

でもその事実を知っても、私たちは生活を止めようとは思わない。なぜなら私たちはそのリスクをある程度回避しつつ、他方でそれがもたらす危険を受け入れて生きることを許容しているからです。

生きるということは、不測の事態とともに生活するということです。もちろんそれを甘んじて引き受ければいいというわけではない。それを避けるための努力をすべきです。

でも最大限のリスクヘッジをした結果、社会が死んだら意味がありません。

排除される対象は、恣意的ではないか?

ーーとはいえ、座して感染症による死が増えるのを見ているわけにはいきません。やはり、防げる死は減らそうとする努力は必要では?

はい。確かにそうなのですが、私が注視しているのが、何が問題の原因として名指されるかということです。今回、コロナによるリスクを下げるため「良くないもの」として、たばこが指摘されていますね。

ーー私もたばこのリスクについては書きました。

今はたばこが悪の権化のように言われていて、実際私も非喫煙者でタバコの煙は苦手なのですが、だったらお酒の害だってあるでしょうと思うわけです。

もしかしたら、たばこの害と同じぐらい、長時間労働だって体に悪いかもしれません。でも、それはこの社会では許容される。

「危ないもの」「やめたほうがいいもの」は、時代や社会背景に応じて選択的に指をさされる傾向があります。

今回、ずっと健康に対するリスクが言われていたたばこがコロナのリスクとしても挙げられているわけです。

他のメディアでは、志村けんさんが亡くなった時、彼がヘビースモーカーであったことがことさら強調され、それが彼を死に追いやった理由であるかのように報道されたことが象徴的です。

ーー今回、夜の街への出入りもだめだと言われましたね。そういうものは私たちが羽目を外す場所ですよね。

ある問題が立ち現れ、その原因が不確かであるにもかかわらず、何かが原因であると名指される時、その名指される主体は、名指す側にとって都合の悪いもの、排除したい存在である場合があります。

だからこそ、私たちは、何が名指され「ない」のかを見ておかなければいけません。

アンバランスなリスクの提示の仕方

ーー先ほどの「社会が死ぬ」という指摘はとても大事だと感じています。どういう社会を選択するのかと考える時に、一時的に停止ではなく、ずっと停止し続けなければいけないとすると、社会がガラッと様変わりするぐらいの影響がある。そこまで自粛している我々が見据えて協力しているかというと、そこまで考えてはいないですね。

少なくとも私の目から見ると、リスクの提示の仕方がアンバランスであるように見えます。

繰り返しますが、感染症が増えることを放置すればいいと言っているわけではありません。そうではなくリスクが選択的に可視化され、他のリスクが見えなくなることの危険性を指摘しているわけです。

例えば、今は毎時間のように感染者数と死者数、その後の予測が数字とグラフで示され、ショッキングな医療崩壊の映像がメディアで報道され、私たちはこうなってはいけないと自粛を続けています。

でももしそれと同時に、このような社会状況を続けた結果の失業者数、それによって貧困に陥り生活に行き詰まって心身に不調を来たす人、自殺をする人の予想が示され、それも同様におどろおどろしい音楽とテロップ、センセーショナルな映像で日々可視化されたら私たちはどう思うのでしょうか。

私はこちらのリスクもコロナを恐れると同様の強度で考えられるべきだと思います。

そして双方のリスクを真剣に見るのなら、私たちが考えるべきはこの感染症のリスクをどう徹底的に避けるかではなく、どの程度引き受け、どう付き合うかということにシフトすると思います。

なぜ感染して謝るのか? 「病気は自己責任」という思想

また、もう一つ気になっていることに「謝罪」の問題があります。

ーー「謝罪」の問題とはどういうことですか?

最近、感染をした人が謝るようになってきました。Jリーグの選手も「感染してしまって大変申し訳ありません」と言っていたし、京都産業大学でクラスターが出てしまって謝罪、ということがありましたね。

病気になるのはあなたが不運だったからではなく、あなたの自己管理に問題があったからだ、という考えが顕著になったのは20世紀の後半からで、その考えが今回の感染症にも見られています。

謝罪をされる方々は心から申し訳ないと思っていらっしゃるのだと思います。

でもそうやって謝罪が続くと、この感染症は誰もがかかる可能性を持った病気から、自己管理の失敗に姿を変えてゆくでしょう。私たちはなんでもかんでもコントロールできるわけではないという事実にこんな時だからこそ目を向けるべきです。

ーー永寿総合病院など院内感染が明らかになった医療機関も責められていますね。

例えば、高齢者が脱水で運ばれて処置をし、その後からコロナとわかったとか、そういう状況は今やどこでもあり得ることです。その結果、感染が広がったり、お亡くなりになってしまう人もいるかもしれません。

でも、その原因を管理の失敗に求めて安易に糾弾すると、行きすぎたリスクヘッジと過剰な自己責任論を呼びかねません。

リスクが可視化され、それがコントロール可能であるとみなされるとき、そこには必ず責任主体が現れます。

そして何か問題が起こると、その主体にそこまでの管理が可能だったのかの議論はそれほどされることなく、その主体の責任が問われ、糾弾の対象となるのです。今社会ではそれが起こっています。

リスクと共に生きるとは、私たちがリスクに対しどのようなモラルを持つかの問題でもあります。

【磯野真穂(いその・まほ)】医療人類学者

1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。研究テーマは、リスク、不確定性、唯一性、摂取。

著書に『なぜふつうに食べられないのかーー拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界ーーいのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(宮野真生子氏と共著、晶文社)他がある。

磯野さんの公式ウェブサイトはこちら