• medicaljp badge

反対の声が強まるコロナ禍の東京五輪 選手たちのメンタルヘルスは?

緊急事態宣言が続く東京で開催が予定される五輪に反対の声も高まる中、準備を続ける選手たちはどんな思いを抱えているのでしょうか? 選手たちのメンタルヘルスについて聞きました。

大坂なおみ選手の全仏オープン棄権で注目されるスポーツ選手のメンタルヘルスの問題。

緊急事態宣言が延長される中、間近に迫った東京五輪に反対の声を上げる人は多く、選手たちの精神状態が不安定になっていることも想像される。

メンタルヘルスの啓発活動の一環としてフィギュアスケーターの長洲未来選手との対談を公開し、スポーツ選手の診療もしている米国在住の精神科医、内田舞さんに東京五輪を目指す選手のメンタルヘルスについても聞いた。

1年延期し、今も開催するか不明 選手の抱えるストレスは?

ーー東京五輪の開幕まで2ヶ月を切りましたが、緊急事態宣言が延長される中、国内では「なぜ今、開くのか」と反対の声が高まっています。アメリカのメディアでも開催に批判的な意見を書くところも出てきています。白血病の治療を終えた水泳の池江璃花子選手に五輪を辞退し、反対するよう求める声も上がり、池江選手が「私は何も変えられない」とコメントを出さざるを得ない状況に追い込まれました。選手たちのメンタルヘルスはどう考えますか?

本当にかわいそうな状況です。

五輪を開くかどうかについては、感染対策、ワクチンの供給状況など、スポーツ以外の要素が絡むことです。これも難しいテーマだと医者として思いますが、選手の視点で考えれば非常に気の毒なことです。

話題になった大坂選手は五輪が開かれなくても、いくつも大会があって輝ける場面がたくさんありますね。

しかし他のスポーツは五輪でしか注目されない競技がほとんどです。そこに出場できるかどうか、メダルを取るか取らないかでその後の人生が変わる人が数多くいます。

ほとんどの選手にとって五輪は、長洲未来選手の対談での言葉を借りれば「出ることは必須」というぐらい、全人生を賭けている瞬間です。

去年開催されるはずだった大会に照準を当ててトレーニングを続けてきたのに、新型コロナでいきなり目標がなくなった。相当、脳は混乱したと思います。

ここで目標を達成したらこれで終わりだと思ってきた人が、もう1年このコンディションを保たなければいけなくなったのは相当なストレスだったと思います。

選手はそういう状況を経験し、さらに1年コンディションを整えてやってきたのに、本当に開催されるのかされないのか、不安を感じながら練習しています。開催された時のために整えなければいけない。

全人生かけてきたのに、開催されなかったらどうしようと思っているでしょうし、去年だったら万全のコンディションだったのに今年はどうだろうとか、色々な不安が交差しているでしょう。

もちろんパンデミック(感染症の大流行)を軽視しているわけではないですし、新型コロナ感染防止のための発信もずっと続けてきました。

皆さんの公衆衛生的な健康も日本だけでなく、世界の皆さんに関わることです。重要なことだと思いますが、選手のことだけを考えると、全人生を賭けて掲げていた目標を奪ってしまうのは酷だと思います。

選手のためには開催してあげたいという思いが、私はとても強いです。

政治的な意思決定への批判と、選手への応援は別

ーー選手はファンや国民の応援も力にして、国際大会に臨むものなのだと思います。それが今、新聞各紙の世論調査でも反対の声の方が多くなっています。特に開催地である東京では、日常生活に制限をかけられていることもあって、五輪開催に対する不満の声は強くなっていますが、選手は応援されないというこの状況も苦しいことでしょうね。

その通りですね。

市民の不安はもちろんわかります。でもその気持ちを選手には向けないでほしい。

選手たちは全人生を賭けてこの瞬間のために頑張ってきた人たちです。五輪に出るか出ないかということが、選手個人の問題でなくなっている人も多いのです。

選手個人に五輪開催への不満を向けないでほしいと思います。

少し違う例となりますが、アメリカで戦争に行った兵士たちへの市民の態度がこの数十年間、問題になったり、変わっていったりしています。

ベトナム戦争の時には、ベトナム戦争に行かされた若者たちは、自分が戦地でやったこと、見てきたことでトラウマを抱え、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。

そうした状態でアメリカに戻った時に、「赤ちゃん殺し」と言われたり、「ベトナム人に酷いことをした」と罵声を浴びせられたのです。

それが彼らのPTSDを強めてしまったことは数多く研究もされています。自分の意思で行ったわけではない戦争で、周りの人たちから人殺しと罵倒されて、自殺にも追い込まれる人もたくさんいました。

このことがアメリカで問題提起されて、戦争への批判や反対意見はあるべきだが、兵士一人一人にその思いを向けてはいけないという考えが今では広がっています。そこは分けて考えようと言われています。

アスリートも自分の夢と自分の全人生の労力を賭けて目標に向かっているだけです。その人たちはこのまま夢に向かわせてあげて、能力を発揮できるようにサポートしてあげてほしい。

それと、新型コロナ禍での政治的な意思決定を批判することは、別の話だと私は思います。

説明されない「なぜ五輪だけ特別扱いか?」「どう安全を守るのか?」

ーー政府に医学的な助言をする分科会のトップも、「パンデミックの状況で開催するのは普通はない」「なぜ開催するのかが明確になって初めて、市民は『それならこの特別な状況を乗り越えよう。協力しよう』という気になる。関係者がしっかりしたビジョンと理由を述べることが極めて重要だ」と政府を批判しています。飲食店を閉めさせるなど、市民の生活に強い制限をかけている現状で、五輪だけなぜ特別扱いなのか説明されていないことがいら立ちや選手への批判につながっています。

このパンデミックで抑制を強いられている方がたくさん世界中にいます。実際に居酒屋など仕事ができない状況に置かれ、経済的にも今後どうなるか不安に思っている人はたくさんいます。

ただ、世界的に見ると、日本は予防対策が称賛されるべき結果を出している国です。

国民の衛生管理が徹底していることや、やるべきことをやろうという意思の力だったと思います。もちろん「世間の目が怖い」という同調圧力も働いていたとは思います。

日本の国民文化がこれだけの死者数に抑えられた理由だと思いますので、それ自体、称賛に値すると思います。

しかしこの抑制は続けられない状況になっています。脱出するための具体的な方策はワクチンしかないと思います。

五輪開催地にもかかわらず、ワクチン供給がもっと早くできなかったのかと思います。アメリカでは12月から接種が始まりましたし、もう飲食店もオープンしています。接種率の高まりと共に、まだまだ注意をしながらですが、少しずつ日常生活に戻っていいというメッセージが広められています。

それはオリンピックがある日本こそがしなければならなかったのに、どうしてこれだけ遅れてしまったのか、心が痛みます。

今から1ヶ月半でどれほど巻き返しができるか。イスラエルでは1ヶ月半で相当の数のワクチンをうつことができました。

日本は国力もありますし、このためにみんなで頑張ろうとなったら、みんなで一丸となって向かう国でもあります。他の国よりもワクチン供給でも感染対策もいい成績を残せる国なのだと思います。

日本だからこそ開催可能性が残されたという強みを政府が示せるか?

もしオリンピック開催地が他の国だとすれば、状況は壊滅的だったでしょう。

前回の開催地、ブラジルだったら強力な変異ウイルスも蔓延していますし、この段階で開催できるかどうかなんて議論もできなかったかもしれません。

ある意味、日本だからこそ、「この時点でも開催できるかもしれない」という可能性が残っていると私は思います。その可能性のために、日本の中での感染をコントロールするという意味で、ワクチン接種を加速するしかない。

超特急で進め、それに伴って居酒屋などもオープンし、世界からきた人の水際対策と、クラスターが起きた場合の抑え込みの対策が必要です。この対策は日本だったらできるかもしれない。これだけ几帳面で責任感が強い国だからです。

ーーそのビジョンは全く見えません。政府が言うべきことだと思いますが、リスクコミュニケーションが下手ですし、一般市民も納得ができないし、安全に不安が残ります。

そうですね。対策がある、ということが伝わらなければ、人はリスクだけが目についてしまいます。

こういうことがあった場合にはこういう対策を打ちます

こういうことがないようにこういう対策を打ちます

国民の皆さんに負担が行かないように今からワクチンを超特急でうちます

という具体策を立て、そのビジョンを示すべきでしょう。

日本だからこそ、こんなギリギリの状況でできるかできないかの議論ができるのだということはもっと国民に知られた方がいい。

日本人はコロナ禍での自分たちの良さがあまりわかっていないのではないかと感じます。一丸となれば成し遂げられてしまう国民性だからこそ、その強みをわかってもらえたら、みんなで開催に向かえるのかもしれません。

また、開催しない結果になったとしても、そのような専門家やリーダーシップの努力が見られた方がずっと国民として気持ちよく結果を受け止められるのではないでしょうか。

政府がそのためのビジョンを示してほしいし、国民が前向きに協力する気持ちになれるかどうかは、そのコミュニケーションにかかっているのだと思います。

ーー今、不安な気持ちで状況を見守っているアスリートに精神科医としてアドバイスをお願いします。

このパンデミック下、自分はコントロールできないことが自分の人生に直接影響を与える状況が続いてしまっていますね。開催されるのだろうか、されないだろうかと不安に思う気持ちは自然ですし、なんでよりによってこの年にパンデミックが起こってしまったのか、などと怒りを覚えることも自然です。

そんな自然な感情は無視せずに口に出しても、涙という形で出してもいいと思います。そして、難しいことですが、自分がコントロールできないことに関してはその事実を受け入れて、逆に自分の意思によって変えられることを自分で変えることによって、自信を保てたら、と思います。

自分の意思によって変えられる、自分のコントロール下にあることというのは、練習やトレーニングに関してもそうですし、睡眠や食事、また「今日は休むことにする」といった判断も自分のためにできる大きな判断です。

皆さんの頑張り、非常にアンラッキーな状況の中で希望を失わずに目標に向かわれる姿、しっかり見えている人には見えています。私も個人的に皆さんを応援しています!

(続く)

【内田舞(うちだ・まい)】ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、小児精神科医

1982年、東京生まれ。北海道大学医学部在学中に米国の医師免許を取得。同大学卒業後に渡米し、ハーバード大学とイェール大学で研修。2013年より、現職。