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非日常が日常になっていく葛藤を支えて 震災で家族や家を失った薬剤師の10年

東日本大震災で父や自宅を失った岩手県の薬剤師、金野良則さん。被災者でありながら、専門職として地域の患者を支える活動を続けてきました。被災という非日常が日常になっていったこの10年について聞きました。

東日本大震災が起きた時、いつも飲んでいる薬やお薬手帳が津波で流され、困った人たちがたくさんいた。

その時、薬剤師はどう動き、その後、どのように患者を支えてきたのだろう。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

あの時、この薬局の中で被災した金野良則さん

岩手県陸前高田市で薬局を経営していた父や自宅を津波で失いながら、大船渡市の薬剤師として患者を支える活動を続けてきた気仙中央薬局の管理薬剤師で岩手県薬剤師会理事の金野良則さん(50)にお話を聞いた。

自身の薬局は被害がなかったが...父母が流される

2011年3月11日、午後2時46分。薬局で揺れを感じた。昼休みが過ぎて客もちょうど途切れた頃だ。

日常が非日常に変わった瞬間だった。

「ここは地盤が堅く、ものはほとんど落ちなかったんです。停電してバックアップの電源がすぐ入ったので、コンピューターのデータを保存する作業を始めました。すごく冷静でした」

従業員もみんな無事だった。

金野さんの実家や自宅は陸前高田市の商店街にある。実家に併設した薬局を手伝っている妻にメールを送ると、しばらくして「子どもたちのいる小学校に様子を見にいく」という返信があった。

「陸前高田では『地震と言えば津波』という教育を受けていなかったので、商店街にある実家も家族も大丈夫だろうと思いこんでいました。商店街の人たちも同じように考えたようで、みんな家にいて津波にやられました」

その中に金野さんの両親がいた。父の亨さん(当時75歳)は津波で流されて死亡。母も自宅から3〜4キロのところに流されて倒れているのが見つかり、救急車で大船渡病院に運ばれていたことは4日後に知った。母に言付かった人が薬局まで知らせに来てくれた。

従業員で帰れる人は帰し、夜遅くに自分も陸前高田に向かった。自宅に向かう道は寸断され、迂回して避難所を探したが妻と子には会えなかった。

大船渡の薬局に戻って駐車場に車中泊し、翌日の早朝から大船渡病院と近くの2軒の薬局の様子を見に行った。薬局はどこも稼働できそうだ。

金野良則さん提供

2011年3月12日の大船渡病院。薬を求める人が来ていた

「普段、病院に通院していない人も薬を求めて病院に来ていました。病院は薬を処方するための外来を臨時で作って渡し始めていました。うちもその処方を受けることになりました」

地域で薬を回す 避難所や薬局が全滅した陸前高田の処方も

ところが翌日、スタッフは半分ぐらいしか出てこられなかった。在庫がない薬ばかり求められ卸業者も動いていない。近所の薬局3軒で相談し、自分の薬局は一時閉めて、他の薬局に薬の在庫を提供した。

「非常事態なので、地域で薬を効率的に回すことを優先しました」

想定外だったのは、避難所からも大量の処方箋が送られてきたことだ。

金野良則さん提供

震災直後は手書きの処方箋を使っていた

「手書きの処方箋が20枚ぐらいまとめて来て、この辺の薬局では取り扱っていない薬ばかりです。何を代わりに出すかは我々の裁量に任せてもらいました。薬剤師としての知識が試されましたよね」

徐々に地域の薬局の被害状況もわかってきた。

陸前高田市と大船渡市、住田町には27軒の薬局があり、陸前高田は父の薬局も含めて9軒全滅。住田の1軒は稼働。大船渡は17軒中9軒が被災していた。

金野良則さん提供

薬局も併設していた実家。3階建ての鉄筋コンクリートの建物が完全に崩れ、3階部分が残っていた。父は震災当時、3階にいて津波に流された

実家の薬局も、200mほど離れた自分の家も津波で完全に流されていた。

2日目の夜には避難所で妻子に会え、自分もそこへの寝泊りを始めた。

「地震の時にスーツを着ていたので、それからずっとスーツです。全部流されたからそれしかなかったのですが、一人スーツですごく浮いていました」

父母の行方はまだわからず、薬局が全滅した陸前高田の薬のことも心配になった。父は地元の薬剤師の組合「協同組合気仙ファーマシー」の理事長だった。自分が代わりにやるしかない。

金野良則さん提供

震災直後、薬を求めて多くの人が大船渡病院に来た

出勤前の朝5時頃に陸前高田の医療チームに寄って処方箋を受け取り、日中は大船渡の調剤をする。その仕事が終わった夜、陸前高田の処方を調剤して数日後に持っていく。それをしばらく毎日続けた。

「悔しかったのは、患者さんに直接薬を渡して説明できなかったことです。マンパワーも足りないので、医療チームにまとめて渡すだけで、必要なものが必要な人に渡りきちんと飲めているかはわからない状況でした」

初めて実感した被害の大きさ

その後、兄と連絡が取れ、被害がなかった兄の家に家族で身を寄せた。父の行方はわからなかったが、流された父の姿を見た母の証言から絶望的だろうと感じていた。薬を届ける仕事が山積みだったため、父の遺体探しや家の状況確認などは兄に全面的に任せた。

金野良則さん提供

震災から10日後、高台から初めて見渡した陸前高田。絶句した

20日に初めて陸前高田の高台から街を見た。そこに見慣れた風景はなく、がれきの山だけが広がっていた。

「初めて上から見渡した風景を見て愕然としました。妻に連れられて家の跡地にも行ったのですが、こんなになっているのも今まで知らなかったのかと思いました。通勤の道路からは街は見えなかったんです」

金野良則さん提供

自宅の跡地の前でたたずむ金野さんの妻。何一つ残っておらず、同級生同士で結婚した大学の友人が、卒業アルバムをくれた

父の遺体は3月末に見つかった。

「見つからなかったら親の遺体探しもしなかった自分は後悔したでしょう。でも親父は組合の理事長でもあったし、薬剤師の先輩でもあるので、地域に薬を回すために働いている自分を許してくれるかなとも思っていました」

金野良則さん提供

救護所での調剤活動(陸前高田市の高田一中日赤救護所で)

3、4日目には薬の卸業者も動き始めた。3日分の処方だったのが、1週間分、10日分と増やせるようになっていった。1週間で自分の薬局も再開した。

スーパーや商店はなかなか復旧せず、店頭にガーゼ類や経口補水液を出すと、必要がないのに買い占めようとする人がたくさんいた。一時期、全て隠して、本当に必要な人だけに売るようにしていた。

支援の薬の振り分け、仮設への置き薬プロジェクト

3月末になると、市役所には支援物質の薬が山積みになっていた。

金野良則さん提供

大船渡市役所に山積みになった支援の薬。効き目ごとに薬剤師が分別して整理した

金野良則さん提供
金野良則さん提供

陸前高田市災害対策本部に山積みになった支援物資の薬

「どうするか相談されて、4月からは市販薬を持って避難所を回り始めました」

支援に来た東京都の薬剤師会が「新潟の中越地震では市販薬を配ったみたいだよ」と教えてくれて真似したアイディアだ。大船渡市と陸前高田市に送られた薬を薬剤師チームが振り分け、避難所に持っていくと長蛇の列ができた。

金野良則さん提供

避難所で市販薬を配りながら、薬剤師が健康相談をした

「『ご自由にどうぞ』では意味がないので、薬剤師が一人一人と会話をして、普段薬局に買いに来る人にするのと同じことを無料で始めました。健康相談を一番の狙いにしたのです」

4月になるとがれきも乾いてホコリが舞い、呼吸器やアレルギー系の症状が増えた。片付けをしていて怪我をする人、被災の疲れを訴える人も多くなった。湿布、目薬、ビタミン剤は常に足りなくなった。

金野良則さん提供

夏場には熱中症予防で経口補水液が求められ、虫がわくため薬剤師が販売しなければならない殺虫プレートの問い合わせが増えた。

4月半ばから避難所から仮説住宅に移る人が増えると、今度は「家庭薬がない」という声が聞こえ始めた。

県に依頼し、余っている家庭薬を全国からかき集めてもらい、県の薬剤師会で「薬箱」のセットを作ってもらった。2市1町の仮設住宅4000戸全てに配るプロジェクトだ。配りにいったのは、日本薬剤会を通じて支援に来てくれた全国の薬剤師たちだった。

金野良則さん提供

置き薬のセットを配りながら、支援に入った薬剤師が住民の健康相談に当たった

金野良則さん提供

支援物資の市販薬をまとめた家庭薬のセット。支援に入った薬剤師に仮設住宅に届けてもらい、健康相談を聞いてきてもらった

「仮設住宅に行って市販薬を配りながら健康相談を聞いてくる。2日ぐらいしかいない薬剤師のチームが次々に来るので、事務局として、6月までほぼ毎日、時間割表を作って振り分ける作業をしていました」

「自分だけのものが欲しい」 被災者の不安とストレス

仮設住宅に家庭薬を持っていくプロジェクトで気づいたのは、「自分だけのものが欲しい」という切実な感情だ。

「今まで身近にあったものがなくなると人は不安です。共有物では満たされない。震災で色々失った立場からすると、『自分のものが何もない』という避難所の空間に、もらいものであっても一つずつ自分のバッグ、自分の服、自分の薬が増えていくのは安心感につながるのです」

「だから『あなたのもの』としてあげることが必要でした。ただ、3ヶ月ぐらいすると、避難所や仮設に行くたびに『ものをくれるんでしょう?』という目で見られるようになる。本当は『大変だったよね』と共に話せる環境を作りたかったのですが、被災者のそんな心の変化は感じました」

生活が安定し始めると感情のぶつかり合いやトラブルも見聞きするようになった。

「避難所にいる時はみんな『生きていて良かったね』『大変だったよね』と共感し合えていたのに、先に出ていくと『あなたはもう出ていったのだから来ないで。支援物資も持っていかないで』という雰囲気になる」

8月になって金野さん一家も仮設住宅に移住した。

「仮設住宅に移ればまた仮設内のコミュニティができるのですが、妻はそれが楽しかったと言っていました。でもそこから自力再建するのか、公営住宅に入るのかでまた格差が生まれる。状況が変わるごとに新たなストレスが生まれました」

支援の医師たちも引きあげたその頃、薬剤師が定期的に避難所や仮設住宅に行って健康相談を受けるようにした。市販薬を配る段階は終わり、被災後の生活の変化で症状が悪化した人を専門職として見つけ、医療につなぐ段階に入っていた。

薬剤師のコミュニケーション能力が試される支援だった。

「私は明治38年創業の薬局の4代目として生まれ育っているので、深夜に『おむつがなくなった』『夜中に具合が悪くなった』と日常的に相談を受けるのが薬剤師の仕事だと思っていました」

「時代の流れで今の薬局は調剤ありきとなっていますが、本来は、日常的に健康相談にのる専門職だし、それをやれば幅が広がる仕事です。医師は医師にしかできないことをやってほしい時でした。これは普段の業務でも思うことです。薬剤師が本来の仕事をすれば、医師の負担や医療費も減ると思って患者さんに関わっています」

震災後のフォロー活動 仮設住民への健康支援

2012年11月には、それまで支援に来てくれていた東京、青森、秋田の薬剤師に声をかけ、土日の4日間で4000戸の仮設住宅を訪問する「なじょしてますか?お手紙プロジェクト」を行った。

金野良則さん提供

「震災直後に仮設住宅に配った薬の期限が切れかけていたのです。それを廃棄するタイミングで、1年半経った地元住民の困りごとを聞く狙いがありました」

のべ200人の薬剤師が交通費を自己負担して参加してくれた。会えない場合は、切手を貼った連絡用封筒を置いてきて、「心配なことがあったらお手紙をください」と呼びかけた。面と向かってはなかなか言えない気持ちを引き出す試みだ。

金野良則さん提供

便箋や封筒は青森県薬剤師会が支援してくれた

「『仮設にいてお父さんを亡くした』という思いだったり、『薬が増えてきちんと飲めない』という声だったり40通ぐらい返って来ました。そこに今度は地元の薬剤師が行って対面で相談にのるようにしました。薬や健康の相談もありますが、誰でもいいから話をしたいという人もいました」

その後、大船渡市とタイアップして仮設住宅の集会所で健康相談も行う薬講和もやった。市役所が仮設住宅の全戸調査をした時に、「薬で不安がある人」という項目も入れてもらい、そこに戸別訪問もした。岩手県医師会高田診療所の院内薬局に薬剤師を派遣する事業も8ヶ月続けた。

金野良則さん提供

2012年から始まった被災地薬剤師と薬学生との交流バスツアーで陸前高田や大船渡を回った時は金野さんも話した

岩手県薬剤師会主催の事業として、地元の薬剤師が薬学部の学生と一緒に被災地を回りながら薬剤の役割を考えてもらう「被災地バスツアー」も2012年から毎年続けている。

金野良則さん提供

中高生に薬局体験をしてもらい、これからの子どもたちに目標を作ってもらうというイベントもやったことがある。

テレビ局と組んで薬局が調剤した薬を一緒に分析したところ、安定剤や睡眠薬系が増えていたという結果も出た。

時が経つほどに、様々な問題を抱える被災者の支援活動をしながら、自身も被災した金野さん個人は、4、5年目が一番つらかった。

「3月11日が近くなると報道が増え、気持ちが落ち込むのです。生活も少し落ち着いて、忘れてはいけないという気持ちと、前に進まないといけないという気持ちの間で葛藤があったのだと思います」

折れそうな心を支えたのは、自分にしかできない支援があるという思いだ。

「家族も亡くし、家も失った被災者の気持ちは共感できます。相談を受ける時、私に対して『あんたにはわからないよ』という気持ちは持たなくて済むでしょう。『私も同じ経験をしたよ』と言えるから。それは自分に与えられた役割なのかなとずっと思っています」

震災後10年経っても語られるあの日のこと

震災後10年経っても、対応するお客さんから震災の話を聞くことはよくある。

「3.11が近づくこの頃は特にそうですし、今度の3月で医療費の免除が切れることが話題になることが増えました。お客さんから『震災がなければね......』という愚痴を聞くのはしょっちゅうです」

一方、金野さん自身も感じたように、震災から4、5年経ったあたりから、「もうしゃべってはいけない」という雰囲気が広がったのも覚えている。

「『いまさら言ったってね』と自分の思いを押し殺し始めたのがその頃です。だから、薬局では『いつでもしゃべっていいんだよ』という雰囲気作りが大事だなと思います。薬剤師は結構お客さんの生活について聞く立場です。話しやすい薬剤師なら被災のつらさも自然と話してくれることがあります」

金野良則さん提供

津波に流され嵩上げされた町で、非日常は日常となっていく。薬剤師には何ができるかを金野さんは考える

「生活が落ち着いて、盛り土で嵩上げした町のように盛られたものの下は見ないようにしているのが今です。『いつまでも震災後ではない』ということで、組織としての『震災支援』名目の活動は難しくなっています」

震災後に、医療と介護を地域で切れ目なく連携させる「地域包括ケア」が広がり、訪問薬剤師としての業務も増えた。これは、人知れず傷を抱えた人を支える手段にもなると考えている。

公営住宅ができた頃、「おりに入れられたようだ」「仮設が良かった」と訴える人が増えた。薬を届けに行くと、そこから被災した愚痴を話し出す人もいる。

「薬局だと他の客も待っているし、薬剤師も忙しそうだからゆっくり話せないのですね。精神的に問題を抱えている人の歴史を遡ってみると、震災をきっかけに調子を崩したという人も多いのです」

「家に行くと30分でも話せるし、薬を溜め込んでいる高齢者の処方を整理し、ケアマネなど他の職種と連携しながら色々な情報が得られる。生活に合わせた薬に変えていくこともできます。在宅医療でわかることはとても多いし、薬局で一方的な説明をすることが薬剤師の仕事ではないのです」

非日常が日常になっていく葛藤や喪失 新型コロナで話す機会が失われて

最近は、新型コロナの流行で人と人の関わりが減り、気持ちが落ちている人が多い。感染対策のため、店内ではなく車中で薬の順番を待つ人も増えた。会話がしにくくなっているとも感じている。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

「病気の人は診断時に、突然、災害に遭ったような気持ちを抱えている。そしてその非日常が日常になる時の葛藤や喪失感を考えて医療者は支援したい」と話す金野さん

「10年の節目で色々な話をしたいのに、できていない可能性もあります。追悼式も縮小するでしょうし、家族で集まることもなかなかできないでしょう。話す機会がない人が大変だと思います。ここで話せなかった影響が、今後出てくるかもしれません」

「隠し方は上手になったけれど、今も傷が残っている人はたくさんいます。私自身、震災のことを振り返る番組を見れば泣くし、子どもが成長するにつれてこの子の小さい頃の写真はないと胸が痛む。そういう痛みはこれからも消えないんだろうなと思います」

「4、5年目は現実に追われて、忘れてしまいそうで怖かった。でも10年経つと、忘れずに持ったまま進めるのかもしれないと思います。起きてしまったことだし、自分の中に傷があるのは認めるしかない」

この思いは、薬剤師としての仕事にも活かせると考えている。最近、青森大学の薬学部の講義で学生に向けてこんなことを話してきた。

「『あなたはがんです』と言われるのと、今日津波で流されるのも、どちらも災害のようなものです。日常から非日常にいつ変わるのかは誰もわからない。日常がある日突然覆されるのが震災であり、病気でもあります。そんなことに薬剤師は専門職として気づく必要があります」

「そして、被災や病気を最初は非日常だと思っていても、それはやがて日常になっていく。その中で葛藤があり、何を無くしたのかよくわからない『あいまいな喪失』に苦しむことがある。医療者は、患者さんがそんな思いを持って来ているんだと知っておいた方がいい」

県外から来た薬剤師や若い人の中には震災を知らない人もいる。

「被災者に寄り添うのも、病気の人に寄り添うのも同じだというのが、震災後の私の実感です。経験したことは患者さんへの対応にすごく役立てられる。これを伝えていくのも被災した専門職の自分に課せられた役割なのだと思います」


Contact Naoko Iwanaga at naoko.iwanaga@buzzfeed.com.

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