3月5日、グリコより国内初の液体の人工ミルク「アイクレオ」が発売されました。3月下旬には明治からやはり液体ミルク「明治ほほえみ らくらくミルク」も販売が始まりました。

液体ミルクは、従来、国内メーカーより発売され、使われてきた粉ミルクと比べると割高ですが、調乳の手間が省けるため、繰り返し要望されてきました。
しかし、今後、出生数が減って行く中で需要が見込めないこともあり、国内メーカーは液体ミルクの生産に消極的でした。そんな中、災害時に備えた備蓄という大義名分も手伝って、承認・販売されることとなったのです。
ただ、発売以降、様々な批判がネット上などにあふれ、さっそく議論になっています。その批判は赤ちゃんや赤ちゃんを育てる両親のためになるのか、考えてみたいと思います。
やはり出てきた「楽をするな」「母乳が最良」の声
個人的な話となりますが、私は二人の子供を混合栄養で育てたため、子供が必要とした時にお湯を沸かして調乳し冷ますという手間のない液体ミルクがあればなあと思っていたので、国内メーカーが販売に踏み切ってくれたニュースにとても好感を持ちました。
子育て層からは液体ミルクを歓迎する声が上がる一方、パッケージに書かれている「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養」(消費者庁の定めた許可基準によって液体ミルクや粉ミルクなどの人工乳に表示が義務付けられているもの)という文言に傷つけられるという声にも多くの共感が集まりました。

インターネット上では子育て層の喜びの声とは対照的に、授乳の当事者でない層から「そこまで楽する必要があるのか」「粉ミルクを溶かす手間をかけることで親としての自覚が生まれる」など、育児にかかる手間を省くことに消極的な意見が多数見られました。
これには、「本来は日常の育児を少しでも楽にするための液体ミルクだけれど、災害対応という言い訳がなければとても世間に理解されなかったのではないか」と感じざるを得ませんでした。
また、母乳育児を強く推進する層(主に医療従事者)からは液体ミルクの登場により「安易に」人工栄養や混合栄養を選ぶ親が出てこないか危惧する意見が見られました。
しかし、WHOやユニセフによる母乳育児を推進するBFH(Baby Friendly Hospital 赤ちゃんに優しい病院)の認定を持つ産院ですら、完全母乳率は約9割とされ(公表はしていなかったと思います)、人工乳の存在で命や健康が守られている赤ちゃんがいることは明らかです。
小さな赤ちゃんの育児をする人たちは、母乳と人工乳をどのように用いるのがいいのでしょうか。
大半は「できれば母乳で育てたいが、こだわり過ぎる必要もない」では?
母乳育児や赤ちゃんの栄養法については、当事者以外が想像するよりもとてもデリケートなテーマです。誰もが傷つかず違和感も抱かないようなストライクゾーンの考えはおそらく存在しないと思います。
強いて最大公約数的な気持ちを推測してみると「できれば母乳で育てたい。けど、身も心もボロボロになってまで母乳にこだわりたくはない」という感覚ではないかと思います。
全く同じではありませんが、お産に対する気持ちに似た部分があるかもしれません。
経腟のお産と帝王切開は両方とも立派なお産でどちらかの方がより素晴らしいということはありませんが、多くの妊婦は「できるなら自然に産みたい。でも自分や赤ちゃんの健康にとって帝王切開の方がいいなら経腟分娩にこだわらない」と思っているでしょう。
出産時や産後の身体への影響も同等ではありません。赤ちゃんの栄養法は当事者の選択権の行使がお産よりも可能ですが、なんとなく感覚をつかんでいただける例えかと思います。
母乳が出るメカニズムは?
ここで、出産後に母乳が出るメカニズムについて知っていただきたいと思います。
出産後にゆっくり寝て、それで母乳がピューピュー出たらどれほど楽でしょう。
しかし実際は、個人差もありますが、妊娠末期に大量に分泌されるようになっていたプロラクチン(母乳を作らせるホルモン)は、胎盤が剥がれてすぐに激減し、出産直後に頻繁に乳頭を刺激しなくては十分に分泌されないのです。
出産直後で休みたい時に、産院のスタッフに何度も授乳するよう言われるのは、意地悪なのではなく、そういう「不都合な真実」のためなのです(もちろんそこで「お母さんになったんでしょ」と叱りつけたり、母乳こそが愛情であると価値観を押し付けたりすれば話は別です)。
まず、出産を控えた人とその家族にはそういう仕組みになっていることをあらかじめ知ってもらい、母乳育児を希望する場合、直接母乳をあげる以外のお世話は母親がしなくて済むよう、入院中、退院後を通じて気を配ってほしいです。
特に高齢出産や帝王切開は母乳が不足するリスク要因なので、産後になるべく負担なく何度も授乳ができるよう一層のサポートが必要です。
日本の「母乳育児推進の常識」は海外では非常識に
先日、4月4日から5日にかけてロンドンで開かれた「第14回母乳育児と授乳に関する国際シンポジウム(14th International Breastfeeding and Lactation Symposium)」に参加しました。搾乳機の会社が主催したものです。
そこで日本や外国での母乳育児についてアップデートしたり意見交換をしてきました。

海外では、出産で疲れ切ったお母さんに赤ちゃんに何度も直接母乳を吸わせるよう励ますことを母乳育児推進と呼ぶ時代は終わっていました。
そして、医療従事者やテクノロジーが出産後早期に介入することで母乳の量が格段に増えたり母乳育児率が上がったりすることが常識となっていることを学びました。
搾乳機の会社主催のシンポジウムであることは考慮しなければなりませんが、母乳は、片方の乳頭を刺激するより両側の乳頭を刺激する方が約2割母乳を飲む量が増えるため、赤ちゃんが片方から吸っている間に反対側を電動搾乳機で吸ったり、両側に搾乳機を頻繁につけたりすることで、母親の労力を最小限にしながら「不都合な真実」に対応することがスタンダードとなってきているそうです。
母乳は愛情の証でもなければ、唯一の正解でもありません。
けれど、未知のものを含め、人工ミルクにはない健康上のメリットがあることは数々の科学的根拠からそれ自体を疑うものではないと思います。
それは早産児や衛生・栄養状態に不安のある国や地域では時に重要な役割を果たします。
一方、日本のような先進国で、お母さんのお腹の中で十分な期間過ごした「正期産」で元気に生まれた赤ちゃんにとっては、それほど赤ちゃんの運命を左右する差ではないかもしれません。
各家庭の育児をトータルで見て一番笑顔と余裕のある栄養法を選ぶべきだと思います。
医療従事者がなすべきこと 人工乳を利用するハードルを高くすべきではない
親子のために医療従事者がすべきことは、声高に母乳育児のメリットや「素晴らしさ」を啓発したり、人工ミルクを利用する心理的ハードルを上げたりすることではありません。
必要なのは、出産直後の母親が苦労せず授乳姿勢を取れるように医療従事者が手を動かしたり、電動搾乳機を着けて回ったりするようなサポートだと思います。

人手があり余っている現場はないでしょうが、他分野での働き方改革同様、無駄な会議や書類仕事、専門職でなくともできる仕事を整理して、合理化できるよう検討していただきたいです(アメリカから来た発表者の病棟では200台以上の両側搾乳機が使われているそうでした)。
親の立場から見ると、母乳に関する情報を集めようと思っても、情報発信者の価値観が反映されていない情報を探すことが非常に難しいです。
医学的な事実と発信者の価値観を見分けながら読む必要がありますが、数多ある論文から発信者の価値観に合致するものだけを集めて書かれている場合、一般の人がなかなかそんなバイアスがかかっていると知ることは難しいと思います。
授乳の当事者やこれから当事者になろうとする人は、ぜひ母乳が出るメカニズムや、「お母さんが乳製品や脂肪分の多い食事をとっているからだ」など、魑魅魍魎の情報がいっぱいの乳腺炎の原因などについても客観的な情報を得てほしいと思います。
そうした正確な知識を持っていれば、怪しい情報には少しでも振り回されにくいと思います。
赤ちゃんが元気に育ち、養育する人たちが笑顔になれるように、母乳に限らず育児のおせっかいがなくなるといいなと思います。栄養法が主体でなく、赤ちゃんと家族が育児の主役だと医療者も忘れないようにしたいです。
授乳についてもっと詳しい情報が知りたい方は、私と小児科医の森戸やすみ先生が一緒に書いた『産婦人科医ママと小児科医ママのらくちん授乳BOOK』もご参考になさってみてください。
【宋美玄(そん・みひょん)】 産婦人科医、医学博士
1976年、神戸市生まれ。2001年、大阪大学医学部卒業。川崎医科大学講師、ロンドン大学病院留学を経て、2010年から国内で産婦人科医として勤務。主な著書に「女医が教える本当に気持ちのいいセックス」(ブックマン社)など。2017年9月に「丸の内の森レディースクリニック」を開業した。