• knowmorecancer badge
  • medicaljp badge

人生の最後には答えがない 「人生会議」の行方を見つめてきて

患者団体の代表として、発病から最後の時まで相談を受けてきた立場から、「人生会議」の意味を問い直す前編です。

みなさんは人生の最後の時間について考えたことはありますか?

人生の最終段階においてどのような医療・ケアを望んでいるか、患者さんを中心に家族や医療従事者などが繰り返し話し合い意思決定を支援することをアドバンス・ケア・プランニング(ACP)といいます。

2018年11月、厚生労働省の会議においてACPということばをもっと医療従事者や国民のみなさんに身近に感じてもらうために愛称が公募され「人生会議」に決まったという報道があったことで知ったという方もいるかもしれません。

私が運営している患者会「卵巣がん体験者の会スマイリー」では活動のひとつとして、卵巣がん患者さんやご家族からの相談支援を行っています。

基本的には私がひとりで電話やメール、ときには対面という形で相談支援を行い、2018年を例にあげると1年間で440件あまりのご相談をいただいています。

卵巣がんと診断されたころから継続的に相談をくださる患者さんやご家族も多く、やがて人生の最後の時間に差し掛かることになってしまったというご相談をいただくことも少なくありません。

患者さんやご家族からの相談を振り返ると、意思決定支援することを、「人生会議」という愛称をつけたとしても、実際、その時間が訪れたときに、大切な家族を見送った時に順調にいくのかなと感じてしまいました。

今回は、これまで私が支援した患者さん、ご家族のご相談のなかからいくつかのエピソードを紹介させていただきます。

※なお個人が特定されないように、仮名を使用し、一部一般化して記載しています。

妻が亡くなって3年 引越しの決断

「片木さん、家を引っ越そうと思うので会員情報の変更をお願いします」

山田さん(50代)からお電話をいただいたのは、卵巣がん治療をがんばっていた奥様の優子さんが天国に旅立たれて3年が経った春の日でした。

患者会では患者さんが天国に旅立たれたあとも、ご家族が会員として継続してくださる場合も少なくありません。山田さんもそのお一人でした。

優子さんは7年ほど前、小学生のお子さんの子育て中に腹部への違和感を感じ、婦人科を受診したところ卵巣がんと診断されました。

手術をした病院では抗がん剤治療は4日間の入院が必要と説明されたそうです。

「子供のこともあるので可能な限り通院で治療を受けたいので外来治療ができる医療機関を教えてほしい」として患者会に相談のお電話をいただいたのが出会いでした。

最後の時間、妻は本当のところどう考えていたのだろうか。

卵巣がんが再発をしたときもすぐに電話をくださり、「卵巣がんが根治しなくてもいいの。でも、子供たちのためにも1日でも長く生きていたいから相談にのってね」といわれ、定期的にお会いしてご相談を受けていた患者さんでした。

病気の進行もあり、やがて私が優子さんのご自宅に伺うかたちでご相談を受ける機会も増え、夫の山田さんやお子さんとも自然と交流するようになりました。

優子さんは子育ての時間も大切にされていましたが、「家事が気分転換」とおっしゃるほどお家のことも大切にされており、いつ伺ってもお家はピカピカで、お庭にはたくさんのお花が咲いていてよく手入れされているのが印象的でした。

そのお家を手放される……。ご遺族である山田さんにもプライバシーはあると思いつつもなにかあったのかなと感じます。せっかくお電話でお話しできたことだし、「優子さんの仏前に手を合わせにいっていいですか?」ということで3年ぶりにご自宅にお伺いしました。

山田さんもとてもこまめな人なのかお家は綺麗に片付けられていましたが、どこか寂しく、庭に咲いていたたくさんの花は見られず、山田さんの様子もすごく落ち込まれているように見えました。

3年前より少し成長されたお子さんが外出するのを見送ったあと、山田さんはポツリポツリとお気持ちをお話しくださいました。

「私は、あの頃、病気の優子のこと、子供のことを考えるだけでいっぱいいっぱいでした。自分と子供のこれからを考えると仕事を辞めて無職になるわけにはいかない。だから優子の病気が進行してきて辛い時間が増えたときに迷わず『入院してほしい』と言いました。優子はそれに従いました」

「でも本当はどうだったのでしょう。優子を見送ったあと、彼女が手入れしてきた家や庭を見るたびに『本当は家で過ごしたかったのではないか』と思い、子供の成長を感じるたびに『本当はもっと子供と一緒にいたかったのではないか』と自分を責め続ける毎日でした」

そう涙を流しながら話されたのです。

優子さんがいない今、その気持ちを確かめるすべはありません。しかし、私は、優子さんはご主人が大変なことは理解をしていたと思うし、そのときにどうしたいかを尋ねても、家族のために最善な方法として入院を選んでいたのではないか、と思いました。

でも、山田さんは優子さんを見送ったあと「どうしたいかを尋ねなかったこと」を悔やみ、自分の都合を押し付けてしまったことを責めて辛い時間を過ごしていたのです。

発言力の強い人が支えになる「キーマン」になるとは限らない

実は、こういうお話を聞くことは患者会をしていて少なくありません。

どうしても家族のなかには「発言力」の強い方がいる場合があります。今回の山田さんは、優子さんが卵巣がん治療を行ううえでも金銭面や子育てなどの生活面でも支えになる「キーマン」でした。

でも、家族のなかで「発言力」の強い方が、必ずしも患者さんにとって支えとなる「キーマン」ではありません。時には遠くの親戚がズカズカ乗り込んできて病気と向き合う患者や日常的に支えている家族に対して強く口を出し「こうすべき」を押し付けることも少なくありません。

また患者さんは「家族の負担になっている」「家族に迷惑をかけたくない」という思いが強く、なかなか自分から「こうしたい」という意思を伝えることができない場合もあります。

私は「山田さんはそのときに『こうすることが家族にとって最善なのだ』と思われたのだと思うし、優子さんもそうされたということは、優子さんにとってもそれが一番いいと思われたのでは」と伝えました。

それでも山田さんの表情は晴れることはありませんでした。

意思決定が患者や家族を苦しめる場合もある

次は別の患者さんのお話です。

60代後半の雅子さんはとても明るい性格で、がん治療においても積極的に医師と話し合い納得しながら治療をすすめてこられました。しかし、治療の効果がみられず医師と話し合ったうえで在宅医療に切り替えることを希望されました。

雅子さんは在宅医療になった当初は明るく振る舞われていましたが、「がんばって治療を受けたのに抗がん剤が効かなかったこと」「もう(がんをやっつけるという意味での)積極的な治療ができないこと」などを実感するにつれ、死を身近に感じてどんどん表情が暗くなったそうです。

卵巣がんの治療中でも毎日のように自宅に招いていたお友達を遠ざけるようになり、そして、在宅医療をサポートしてくださっていた訪問看護師さんたちともまったく話さなくなっていきました。

心配した雅子さんの娘さん(30代前半)からお電話をいただき、ご自宅に伺って久しぶりに雅子さんとお会いしました。

雅子さんは私が訪問したことに驚き、「どうしてみんなそっとしておいてくれないのかしら」と怒りを含んだような表情でつぶやきました。それからは私と目を合わせずに窓の外をずっと睨んでおられましたが、やがて少しずつお話をしてくださいました。

在宅医療になり、残された時間が少なくなったと知ったお友達から「本当はもっといい治療法があるのではないか」「家にいるのは心配だ。入院したほうがいいのではないか」という声をかけられたそうです。

雅子さんはこれまで一生懸命卵巣がんの治療と向き合ってきて自分の病気の進行と向き合いながら「なにかいい治療はないのか」「なんとかして卵巣がんを治せないか」と考え主治医とも徹底的に話し合いがんばってきました。

在宅診療を受けるにあたっても、キーパーソンとなる娘さんに迷惑にならないのかなど考えたうえで選んだのだといいます。

「卵巣がんの治療ではやれるだけのことをやったと私は思いたいし、もっといい治療法がないのかなんて何十回考えたかわからない。在宅を選んだのだって悩みに悩み、考えに考えて決めたのに……。私の顔を見て泣く人もいるのよ。泣きたいのはこっちのほうだわ。もう自分の病気のことを説明するのが面倒になったのよ」

「訪問看護師さんが『なにかしたいことがありますか』と聞いてくるけど、私はただただそっとしておいてほしいの。もしくは、もうどうせがんが治らないなら痛くなったり、娘に迷惑をかけたりする前に殺してほしいわ」

そうおっしゃられたのです。

「何かできないか?」が患者の負担になることもある

確かに、患者さんの周囲の人たちは最後の時が近いと知ると「なにかできないか」「ひとつでも希望を叶えてあげたい」と思ってしまいがちです。

しかし、患者さんは少しずつ体が思うようになりませんし、もうそれほど時間が残されていないことを受け止めることだけでも難しいことなのです。

私たちの「なにかできないか」という思いは、いまの雅子さんにとっては「だれのためにしたいことなの?」というものだったのです。残された時間の短い雅子さんに対していいことをしたい周囲の自己満足なんじゃないの?という静かな怒りを持ってらっしゃることに気づきました。

やがて、雅子さんの病状はどんどん進行し、痛みや呼吸苦が出て在宅でのケアは無理だと判断し、ホスピスに移ると娘さんから連絡がありました。それから1週間ほどで雅子さんは天国に旅立たれました。

雅子さんが天国に旅立たれていくつかの季節が過ぎた頃、偶然、娘さんと仕事帰りにお会いする機会があり一緒にお食事をしました。

娘さんの表情はとても沈んでおり、以前は気持ち良いくらい食欲旺盛だったはずなのに食欲があまりないようでした。

最初は当たり障りないお天気の話とか、食事の話などをしていたのですが、突然大粒の涙をこぼして「私は母の希望を叶えられませんでした」と言われたのです。

雅子さんから最後の時間をご自宅で迎えたいと相談されたとき、娘さんはご自宅と職場も近いこと、比較的自由がきく仕事であったこと、そしてなによりも雅子さんが明るい性格でお友達が日頃からひっきりなしに遊びにきており、日中は誰かしらが家にいるであろうことが予想されたため、なんとかなると思い了承されたといいます。

しかし、雅子さんが人を遠ざけるようになり、どんどん世界が雅子さんと娘さんだけのものになり、病気による辛さが出てきた時、娘さんは不安になっていきました。

「私と二人きりのときに母になにかあったら」「私がいないときに母になにかあったら」と、両方の気持ちで辛くなったといいます。

「私がもっと強かったら、私がもっと頑張れたら、家で最後を迎えたいという母の希望は叶えられたかもしれないのに自分のせいで......(母の希望は叶えられなかった)」

患者の意思を確認していても、確認していなくても遺族は苦しむことがある

がんの終末期と呼ばれる段階において、さほど辛い症状が出ないでウトウト眠る時間が増えてやがて死を迎える患者さんもおられます。

いっぽうで、2018年12月26日に国立がん研究センターが「がん患者の人生の最終段階における苦痛や療養状況に関する初めての全国的な実態調査」で公表したように「人生の最終段階にあるがん患者のうち3〜4割程度の方々が、痛みを含めた身体の苦痛や気持ちのつらさを抱えている」ことがわかっています。

雅子さんもそのおひとりなのだと思いますし、呼吸苦などの症状が出た場合には横になって眠ることができず、苦しくないよう体位などの工夫も必要になり家族の負担はとても大きくなります。

そして、訪問診療だけでは24時間のサポートはできません。

訪問看護師が来ているあいだ、娘さんは仮眠をとれるかというとそうではなく、訪問看護師に雅子さんの病状を伝え、どう介護をしたらいいのかなど学ぶことも必要で休めるわけではありません。

周囲にいる多くの人々は「在宅診療の継続ができなかったことは仕方なかった」として娘さんを責めることはないでしょう。実際に、患者さんの症状・状況によりどういう環境にいるのがいいのかは変わりますし、ときには患者さん自身が考えを変えることも珍しくありません。

でも、「自宅で最後の時間を迎えたい」という明確な希望を聞いてしまったがために、そのことが娘さんを長い時間苦しめていることにとても胸が痛みました。

前編では家族の目線から「人生の最終段階においてどのような医療・ケアを望んでいるか」という「確認をしなかった」ことで悔やんでいる山田さん、「確認をしたが」叶えられなかったことで悔やんでいる雅子さんの娘さんのエピソードをお伝えしました。

山田さんも、雅子さんの娘さんも周囲からは「本当によくがんばった」といわれてもおかしくないほど、患者が病気と向き合ううえで懸命に支えられたと思います。

しかし、残念ながら大切な家族を見送ったお二人にとっては「意思の確認をしなかった」「意思の確認をした」ことで、かえって辛い後悔の時間を過ごされることになってしまいました。

患者さんもご家族も後悔のない最後の時間を作るのはとても難しいのです。人生の最後には答えがない、と感じる経験でした。

もしかしたら、どんな選択をしても、ご遺族は後悔する可能性があるのかもしれません。「これで良かったのか?」と振り返るご遺族のケアまで含めて、終末期のケアなのだと思えてなりません。

【後編】患者と医療者のすれ違い どんな状況になっても最善の最期だったと思えるために

【片木美穂(かたぎ・みほ)】 卵巣がん体験者の会スマイリー代表

2004年、30歳のときに卵巣がんと診断され手術と抗がん剤治療を受ける。2006年9月、スマイリー代表に就任。2009年~14年 婦人科悪性腫瘍化学療法研究機構倫理委員、2009年~北関東婦人科がん臨床試験コンソーシアム倫理委員(現職)、2011年厚生労働省厚生科学審議会医薬品等制度改正検討部会委員、2012年、国立がん研究センターがん対策情報センター外部委員、2014年厚生労働省 偽造医薬品・指定薬物対策推進会議構成員、2015年~一般社団法人 東北臨床研究審査機構理事(現職)。

2010年12月、「未承認の抗がん剤を保健適応に ドラッグ・ラグ問題で国を動かしたリーダー」として、日経WOMAN主催の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2010」にて「注目の人」として紹介された。ドラッグ・ラグ問題での経験を活かし、臨床研究の必要性や課題、医薬品開発についてさまざまな場所で伝える活動をしている。