女性器切除に苦しみながらも、誇り高く生きるひとたちの肖像

    世界の1億人以上が経験していることを、当事者の言葉で。

    レイラ・フセインは心理療法士で、女性器切除 (Female Genital Mutilation、略してFGM)に反対する活動をしている。2015年の初めにフセインは、女性器切除を経験した人たちを、苦しみの中でも美しく、自信を持ち、誇り高く生きる存在として称える写真プロジェクトのアイデアを、フォトグラファーのジェイソン・アッシュウッドに持ち掛けた。

    そのプロジェクトの成果が、FGMを耐え抜いたイギリス人女性たちの写真とインタビューを収めた「The Face of Defiance (抵抗する顔)」 だ。

    The Face of Defianceに添えられた文章は、FGMを「女性器を刺し、切開し、そして/または切開部分を縫い付ける行為 (しばしば「割礼」と呼ばれる)」と説明している。

    文章はこう続いている。「FGMは、アフリカの多くの地域社会の中に組み込まれている。FGMが行われる理由は非常に複雑だ。純潔性や禁欲、女性としての認知を受けるための通過儀礼などに、広く根差している。世界には1億人以上の女性がFGMを経験しており、欧米社会においても問題となっている」

    以下は、アッシュウッドによるFGM経験者のポートレート写真だ。彼女たちは、自分の言葉で自身の体験を語っている。


    ロンドンの助産師で、FGM関連の慈善団体「Hope Clinic」の設立者、アイッサ・エドン

    「痛みのことは一生忘れません。旅行として始まったものが、最悪の悪夢となりました。あの臭い、叫び声、目に映るもの、自分の中から流れる血の感覚が、一日中続きました。しかし、逆境とトラウマを経験しても、私は希望のメッセージを広げたいと思います。適切な思いやりとケアがあれば、人生の希望はずっと続くのです」

    「私はタイプ1のFGM (程度が最も激しくないと分類されるもの)を経験しましたが、今でも尿の問題に苦しんでいます。子どもの頃に何度か手術を受けましたが、今でも困難を抱えています」

    「それだけでなく、FGMは私に深刻な精神的影響を与えています。悪夢や、子どもの頃のフラッシュバックを繰り返し経験しています。長い間、私は罪悪感を感じてきました。それは自分がFGMを経験したからではなく、私の妹をこの運命から守ることができなかったからです。人間として、女性として不完全だと感じてきました。自分の身体の一部が切り取られたからです。FGMは私の人生に、一生続く影響を与えてきました。しかし、今日の自分も形成してくれました。この感情や精神的な傷は自分の旅の一部であり、目的地でも終着点でもないのだと認識しています」

    「自分の人生の物語はあの日に終わっていたかもしれません。しかしそれでも、自分はラッキーだと思います。11年前、私は自分の人生を救ってくれた男性と出会いました。彼はクリトリス再建手術を行う医者でした。しかし実際には、彼はそれ以上の存在でした。彼は女性に可能性を与え、自分らしい人生を本当に送ることができるよう、後押ししていました。私にとって、それは新たな始まりであり、新しい旅の出発点となりました。私は責任を持ち、どんなことでも自由にできるになりました」

    「結果として私は、自分の話を他の人と共有できるようになりました。FGMの後に人生を諦めた他の女性たちに、希望を与えられるようになったのです」


    地域社会で教師や学校と連携し、FGMの防止に取り組むファトゥマタ・ジャッタ

    「自分が強い人間だとするなら、それは私の両親のおかげであり、2人が私に女性であることについて教えてくれたからでしょう。女5人の6人兄弟の長女として、私は世界での女性の地位が男性と同じであり、男と女は違うものの、平等なのだと、本当に両親から感じ取っていました」

    「両親が私に注いでくれた愛を一度も疑ったことはありませんし、自分自身や両親、自分の兄弟に対して公平に接することができる私に対して両親が抱いている信頼や信用を疑ったこともありません。これは、私が非常に誇りに思い、大切にしたいと思っている責任感です。この安心感は両親だけではなく、賢く、美しく、情熱的なガンビア人の大きな愛に溢れるグループである私の家族全員から、もらったものでもあります」

    「だからこそ、女性器を切り取られ、処置を耐え抜き、その結果を背負って人生を生きる私の話に、自分自身のアイデンティティの理解が大きく欠如していると、しばしば感じてきたのであり、自分を完全に受け入れるには、自分のこの部分を補うことを学ばなければならなかったのです。頭の中で私はいつも、祖母が私の性器を赤ん坊の頃に切除したなのなら、それは祖母がまさに、私にとってはそれが一番いいことだと考えたからであり、祖母にとってそれは正しいことだったのだ、と理解してきました。しかし実際は、自分の中に残された感情を理解し、その意味を飲み込む必要がありました。つまり、混乱や怒り、恥、無力感、喪失感、悲しみなどです」

    「私にとって、それは多くのことを受け入れるプロセスでした:。祖母が考えていたように、切除されたからといって、さらに女性らしくなれるわけでもなければ、私が考えていたように、女性らしさが低くなるわけでもない。自分が愛し、信頼し、その反対に自分のことを愛してくれている人が、自分に痛みを感じさせ、傷を負わせることができるということ。性的に親密な関係を恐れる理由にはなるものの、そのような関係を避ける理由にはならないこと。自分が愛する人たちに怒りや同様を感じることや、それが当然だということ。この世界では自分は強くもなれるし弱くもなれるということ。既に起きたことに関しては、何もできることはないものの、『今』は自分の手の中にあり、自分を力づけ、自分が持っているものを最大限に活かす方法は必ずあるということ」

    「恐怖を押しのけて、FGMの根絶に賛成の立場を表明できることを、私は誇りに思います。少女たちや女性たちは、切除を受けるべきではありません。切除は身体的にも精神的にも人を傷つけ、危険ですし、それに不要です」


    反FGM活動家、フェイルス・フセイン

    「それは、文字や話では到底伝えられないようなものでした。単なる体験をはるかに超えています。それは、子どもの頃から今日に至るまで、私を繰り返し襲った心理的な悲しみであり、裏切り行為だったのです」

    「全ての始まりは、私が5歳の時、愛と平和が溢れる故郷モガデシュでのことでした。家が飾り付けられ、みんなが贈物を持ってやって来たのを覚えています。そんな明るい人たちの周りにいられて嬉しく思いました。私と姉のレイラは遊んでいて、ある隣の人がやって来て、私を別の部屋へと連れて行きました。彼女が連れて行った部屋には、ダイニングテーブルがありました。みんながテーブルの周りに集まり、奇妙な器具を持った男の人がテーブルの前に座っていました。男性は話をし、彼の口から出てきた言葉はこうでした。「彼女をテーブルの上に置いて、押さえつけなさい」。その瞬間から私は泣き始め、別の部屋に残された姉に向かって叫び始めました。恐怖で私は泣き、母の方を見回しましたが、彼女の姿は見えませんでした」

    「助けてもらえないことがわかると、私は天井を見つめ始めました。寒気がし、恥ずかしく思い、混乱し、そして感じたこともないような痛みを感じました。目を閉じましたが、器具の音で処置全体に全ての集中力が行ってしまいました」

    「現在、私は2人の素敵な男の子を持つ33歳になり、2人は私が苦痛を乗り越えるのを助けてくれています。私は子どもたちにはこのような傷を負わせまいと強く決心しています。子どもは男の子ですが、妊娠中に考えていたのは、もし女の子なら、絶対に子どもを傷つけないし、彼女には自分のような体験を絶対に経験させないということでした。私は尿路感染症にかかり、痛みが続いたので、最終的には病院に行きました。そしてその悪夢も見ました。女性たちが力を合わせれば、私たちの娘たちをFGMから守り、FGMがもたらす害について、人々に教えることができると思います。これは我々の宗教とは何の関係もないのだと、人々に示さなければなりません」

    人権活動家、ハワ・ダボー・セセイ

    「私は13歳の時にシエラレオネでFGMの犠牲者になりました。覚えているのは、おばあちゃんがやって来て、北部州に私を連れて行ったことです。朝、私は小川に連れて行かれました。そこでは多くの女性たちが踊り、歌っているのを目にしました。何も知らないまま、私は床に寝かされました。そして鋭い痛みを感じ、血が流れ始めました。あの記憶を心の中から消すことはできません」

    「自分の子どもを産んで初めて、自分にとって出産が難しいのは、FGMのせいだったのだと気づきました。急性疾患や心理的な疾患も経験しました。処置は通常、茂みの中で密かに行われます。あれは苦痛でした。出血で死にかけた13歳の時のあの手術の記憶は、今でもトラウマで、一生続く体の問題や精神的トラウマを私に残しました」

    「だから私は、自分が経験した同じトラウマを娘たちには経験させまいと決意しました。娘たちにはその慣習について説明し、伝統に従うことはFGMの慣習に従わなければならないということではないと教えました。娘を連れて何度もシエラレオネを訪れましたが、私は彼女をしっかりと守り、年配の女性たちには近づけませんでした。娘は私が経験した苦痛に気づき、私の反FGM運動に参加しています」

    「これは女としての準備をするための伝統的な行いで、何年にもわたって続いてきました。私はFGMを実践している国々に、社会的変革に取り組むよう呼び掛けています。我々は、この人権に反する伝統の追従者になってはいけません。物事を判断し、伝統を作るのは我々自身なのです。伝統は神から与えられたものではありません。我々には文化を変える権利があり、変えなければならないのです。私は常にFGMを非難し、少女の性器を切除する言い訳として宗教を利用する人々に挑戦状を送ります」

    反FGMの活動家で、学校内での教育活動に取り組むヒボ・ワルデレ

    「自分が6歳で、早朝に起こされ、入浴し、ぼろ布をまとい、庭の端にある不気味なテントの床に寝かされるのを想像してみてください。そしてそこで、最も酷い苦痛を伴う切除を受けるのです。この体験は生涯忘れません。切除に苦しむだけでなく、鬱になったり、離婚したり、家庭内暴力を受けることもあります。人生のあらゆる側面が、この野蛮な女性器切除の影響を受けるのです」

    「私たちはFGMを根絶することができます。私は40年以上口をつぐんできましたが、それは最悪の苦しみ方です。しかし、もはや私は黙っていません。声を挙げます。一度沈黙を破ると、まるで密閉された洞窟から自由に流れ出た風のような気持になりました。私は自分と同じような何百万人もの人々の声になりたいと思いますし、教育を通して自分の声を、みんなに届くくらいの大きな声にしたいと思っています。このやり方に効果があることを、私は知っています。それから、これを耐えてきたほとんどの女性は、今でも自分が日々抱える問題とFGMとの関連性を認識できていません。我々は、その関連性を気づかせる必要があります。これは児童虐待です。被害者には教育を通して、そのことを理解させる必要があります」

    看護師で活動家であり、FGMに反対するコメンテーターも務めるホダ・アリ

    「私は7歳の時にソマリアで切除を受けました。12歳になると、FGMの合併症により、何度も緊急入院しました。FGMの後、小さな隙間しか残されなかった結果、私は月経が困難になり、骨盤腹膜炎にかかりました」

    「ソマリアやジブチ、イタリアで何度も手術を受け、17歳で初めて月経が経験できるようになったのです。感染症や癒着、低受胎、体外受精、流産などを経験し、FGMによる合併症は私の人生に影響を与え続けました。FGMの時に受けた傷が原因で妊娠は難しかったので、私は体外受精を行いました。しかし後に、内臓に与えるリスクは非常に大きく、体外受精はもはやできないと医師からのアドバイスを受けました」

    「私はFGMを受けたことで本当に様々な形で苦しみましたし、私のような人は他にもたくさん、たくさんいます。自分が感じた痛みは、苦しみを何とかしようとしている他の人たちを支援しようと、奮い立たせてくれました。私は自分の職業人生をFGMに関する意識を高めることに捧げ、少女たちが医療の専門家にかかる時には、尊厳と思いやりを持って扱ってもらえるようにすることに専念しようと、決心しました」

    「私の母は被害者で、祖母もそうでした。しかし今、私の家族の中ではFGMはもう終わっています。私は子どもを持つことができませんが、姪を守る手助けはできました。彼女たちはFGMから解放された初めての世代です。彼女たちには、『自分なら他の人にこんな風に愛されたいと思うやり方で、自分のことを愛し、他の人から耳元でささやいてもらいたいと思う言葉を全て自分に言い聞かせなさい。自分自身や自分の周りにいる人たちのために立ちあがり、声なき人の声になりなさい』と言って、姪たちを力づけています」

    マーケティングの専門家で、反FGM活動家のジェイ・カマラ・フレドリック

    「どうして、どのようにして、私はここまで強い女性になれたのか?それは私たちが行ってきた選択の積み重ねであると私は強く信じています。なので私は、生きることを選択しました」

    「目を閉じ、音と痛みから心を遮断ししました。ほんの数秒間のように感じられたあの女性器切除の日は、私のことを見守る人たちに対する疑念が渦巻く1日になりました。私はゆっくりと目を開き、心配そうでやつれた母と目が合いました。しかし見つめ合っているうちに、母は「生きたいか?」と尋ね、「生きたいのなら、闘うべきだ」と言いました。目を閉じた時、自分の心は事態を完全に理解できずにボーっとしていましたが、私は生きることを選び、神様に魂を抜かないで、と祈りました。私は15歳の少女として目覚めることができましたが、新たな現実を突き付けられました」

    「数年前、フラッシュバックが始まった時、私は生き延びないといけないのだと決心しました。自分の体験を受け入れ、その決心ができた今、私は残りの人生を力強く生きるつもりです。自分の人生の船の船長として、どんな嵐も、高波も乗り越え、最高に穏やかな海を航海して、旅が自然に終わりへと近づくまで船を投げ出さないことは、私の義務であり、責任です」

    「痛みは人生の一部です。私の運命は、なぜかを問うのではなく、これが自分の人生のより大きな絵の一部分に過ぎないと理解することを教えてくれました。記憶は永遠に心に刻まれるとはいえ、それは過去の一瞬なのです。真珠が生まれるのと同じように、この痛みから何かいいことが生まれることを私は信じています。私は、それを強みに変えました。自分の痛みを無駄にしたくないからです。無駄にしてしまっては、苦痛を受けた意味が全くなくなってしまいます」

    コミュニティ開発職員やコミュニティ・ファシリテーター、活動家であるサリアン・カリム・カマラ

    「私は11歳の時に、姉たちと一緒に、シエラレオネのフリータウンのボンド秘密結社で女性器切除を受けました。FGMは単なる文化的慣習であり、地域社会によっては普通のことで、受け入れられることだと考えている人もいます。しかしこれは容認できません。本当に多大な身体的・心理的な傷を生み、何のメリットもないからです。人との関係も傷つけるのに、だれもこれについて議論しません」

    「私は当時たった11歳で、今は36歳になります。5人の子どもがいますが、あの日私が経験した痛みは、陣痛とはとうてい比べものになりませんでした。言葉にできないほどの痛みです。私の子どもには、FGMを経験させません。私は家族の中で行われてきたあのサイクルを壊し、これからの世代のためにも、自分の娘たちには切除は行わないつもりです」

    心理療法士で反FGM活動家のレイラ・フセイン

    「私は妊娠して初めて、FGMがどれだけ深く私に影響を及ぼしたのか、気づきました。自分の妊娠体験には極めてトラウマを感じることになり、ひどく落ち込みました。医者の予約を取る度に、私は気絶しそうになるほど気分が悪くなりました。人に触られる度に不安を感じ、医療スタッフの診療を受ける度にパニック発作に見舞われました。だから私は療法士になりました。心理的影響について語ることにより、FGMを経験してきた女性たちを助けるためです。私は雲のようにどんよりと自分にかかる羞恥心から逃れられませんでした。その時になって初めて、私は妊娠中にフラッシュバックを経験していたことを知りました」

    「娘たちにこんな経験はさせないと決めたのは、その日のことでした。子どもが捕まえられ、テーブルに縛り付けられた瞬間から、彼女は虐待を受け、自分が信頼している人から精神的衝撃を受け、生涯に渡って精神的な傷を抱えることになることを、多くの人は理解していません」

    「私は治療に人生を救われ、自分の声と力を見つけるチャンスをもらいました。今、女性や少女たちがFGMは虐待であり、終止符を打つべきものだと気づくことができるより安全な場所を作ることが、私の使命です」