「あたしにとっての戦争はね、終戦の日には、終わらなかったの」
これは、75年前の戦争で、戦災孤児になった女性の言葉だ。
東京大空襲で家族を失い、親戚をたらい回しにされ、そして上野の地下街にたどり着いた彼女は、戦時下を、そして「終戦」のあとをどう生きたのか。
その証言を、聞いた。
「みんなね、8月15日に負けて終わりました、気持ちが自由になったっていうけれど、あたしなんかそんなの全然なかった。そもそも戦争が終わったことも知らない。自分が生きるのに、精一杯でね」
BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、鈴木賀子さん(82)。東京大空襲で母親や姉を亡くし、孤児となった。
「空襲のあとも、生き残った姉と弟と一緒に暮らすことすらできなかったんですよ。どこにも、行くところはなかった。地獄そのものでしたよ」
日中戦争がはじまった翌年の、1938年に生まれた。幼少期を過ごしたのは、いまの東京都江東区、北砂という町だ。ガスタンクが近くにあったことをうっすら覚えていると話す通り、近くには大きな工場などもある住宅街だった。
運送業を営んでいたという父親を病気で亡くし、木造平家の長屋に母親とふたりの姉と弟と暮らした。裕福ではなかったが、下町らしい、ささやかで幸せな暮らしだった、という。
「長屋みたいな家がずっと並んでいてね。『向こう三軒両隣』といいますが、隣のおばちゃんがおどんぶりに煮物なんかのおかずを持ってきてくれたし、反対のお隣さんにはお母さんが忙しいからうちで食べてきな、とご飯をご馳走になったこともあった。父が亡くなって、母は働いていたんでしょうね」
「あとね、錦糸町が割と近かったんですよね。よくね、歩いて遊びにいったのは覚えてます。ちょっとした買い物でしょうね。そのたびに、姉がニッキ棒(シナモンスティックのようなもの)を買ってくれた。歩きながらしゃぶれるから、楽しくて。かじりながら家に帰ったんです」
物心ついたころには太平洋戦争(1941年〜)がはじまっており、すでに生活は逼迫していた。だからなのだろう、食事に関する、こんな思い出もある。
「お鍋を持って、雑炊買いに起こされて、並んだ記憶がありますよ。『今日は雑炊を買う日だ、早く並んで』と母にお鍋持たされて、並んで、買ってきて、朝ご飯に食べましたもん。茶碗にわけて。それこそお米なんて数えるほどしか入ってなかったですよね。みんな野菜の切れ端だとか(笑)」
「でもね、お金持ちではないけれど、幸せでしたよ。夏は暑くて、簾をかけて、うちわを持って。あたしは家の前の土の道で遊んで。もんぺに下駄を履いて、家族で銭湯に行って……。家族同士で肩寄せ合って、ね」
出征前夜、お隣さんは泣いていた
世の中の空気が、どんなふうに戦時色にまみれていったかは覚えていない。でも、記憶の節々にたしかに「戦争」が顔をのぞかせている。たとえば、母親たちが防空訓練をしていたときのことだ。
「割烹着かけたお母さん方が、バケツリレーなどをしていました。あたし、よくモデルを頼まれたんですよ。担架の上に乗せられて、お母さんたちが救助する練習をする。そうすると、飴玉を一個もらえるのね。賀子ほらはじまるよ、とお母さんに言われて、担架の上に乗せられて、三角みたいな布で頭を巻かれたりしてね(笑)」
一方で、こんな悲しい記憶もある。「隣のお兄ちゃん」が戦地に出征する前の晩、大人たちが酒を呑みかわしていたときのことだ。
「隣の息子さんに赤紙が来て、明日出征するという前の晩に近所同士が貴重な日本酒を持ち寄って、みんなでお別れ会をしたんです。あたしなんか子どもだから、いつもより食べるものがあると喜んでもらって食べましたけれど……。みんなさんが各々うちに帰ったでしょ。そのあとなんかを取りにいったのか、隣のうちにいったら、おばさんが息子の肩に手をかけながら、泣いていたんです」
「『絶対死なないで、生きて帰ってきて、死んじゃダメ』って……。人の前では気丈にお酒を注いであげて、お国のために尽くすと言っていたんですけれどね。翌朝、息子さんは敬礼して、『いってきます』って。みんなで駅まで日の丸の旗振って見送ったんですけど、これは言っちゃいけないんだな、と子どもながらに思って、誰にもいいませんでしたもん」
大空襲の夜「いつもと違うね」
鈴木さんが6歳のころ。1944年も後半になると、本土空襲が本格化する。戦争は、ひとりの少女にとっても目の前にあるものになっていた。
小学校の帰り道、空襲警報が鳴って「急いで帰りなさい」と言われたことも覚えているという。
「B-29が飛んでくるのが見える。とにかくどこの家の防空壕でもいいから駆け込みなさいと教わりました。防空壕があるとは限らないから、道にひれ伏したこともあります。地べたにランドセルを背負ったまま。ああ、死ぬんだなと、怖かったですよ」
「空襲警報の発令だって、日常茶飯事でしたからね。電気消して、うちの前にある防空壕に入る。いつも夜ご飯が終わったころでしたから、洋服を着たまま寝てね。防空頭巾と大事な物が入ってる鞄をいつも、枕元に置いてました。あたしきっとね、文房具とかを入れていたんです」
そして、3月9日の夜。夕ご飯を食べたあと、家族5人並んで床について眠りについたあとのことだった。「ウ〜ウ〜」というサイレンが鳴り響き、「空襲警報〜はつれい〜」というメガホンでこもった声が、町にこだました。
「照明弾で照らされると、昼間のように明るくなってるんです。お姉ちゃんなんか『うちに爆弾落ちるのかね』って言ってた。それで、起きていって急いで防空壕に飛び込んだんです。近所の人が先に、入っていましたね」
「あたしは、干し芋をかじってたなあ。そしたら母と姉が『なんか今日はいつもと違うよ、これ」って言ってたんですよ。それで、母が『あたしとはつ姉(*長女、当時18歳)はうちの大事なものを持ってあとから行くから。おばさんのところにいきなさい』とあたしたちに言って。姉(*次女)が弟を手おんぶして、あたしは姉の洋服の端を持って走り出したの」
死体の上を、裸足で歩いた
母たちの予想通り、その日の空襲は「何かが違った」。アメリカ軍はこれまでとは異なる空襲で、東京の街を焼き払おうとしていたのだ。
空襲警報の発令より3分前に奇襲した約300機のB-29は、下町一体に1665トンの焼夷弾を投下。木造家屋が密集していたことに加え、強風が重なり、巨大な火災が発生した。
「どんどん前からも後からも火が迫ってきて、おばさんのうちにいくところではない。姉には下駄を脱げって言われて、裸足で走った。火の粉が洋服に火をつけるから、姉に言われて防火水をかぶりながら逃げたの。怖かったら目をつぶれとも言われて、いち、にのさんで火の海を突破したのは覚えている」
「そうこうして学校のほうに逃げたんです。消防団の人に、校庭の真ん中に集まれって言われて、そのうえから男の人たちが布団をかぶせて、水をかけたのね。ずうっとそこにいて静かになったから出てった。誰かが出ていけば、ぞろぞろ出ていくんですよ」
警報が解除されたのは3月10日午前2時37分のこと。とにかくその日は寒かった、と鈴木さんはいう。洋服が水で濡れていたから、まだ燃えている建物に服を炙って、乾かした。
「裸足だから、足が熱くてうまく歩けなかったの。そしたら姉が、しょうがないね、悪いけど死体の上歩きな、って。いっぱい、ゴミのように死体がある。川の中にも、いっぱい人が浮いていた。よくね、そのときの感情がって聞かれるけれど、覚えてない。目で見たものが頭に入ってない。寒くて、洋服を乾かすので精一杯だったもん」
別の学校で傷の手当てをしてもらい、水をもらって飲んだ。食べ物ももらったけれど、3人とも「なんにも食べられなかった」という。
この日の空襲では、焼死や窒息死、水死、さらには凍死で、10万人とも言われる人が亡くなった。そのなかには、鈴木さんの母親と、上の姉も含まれていた。
跡形もなくなった実家、そして
朝になって、家のあったところを訪れた。跡形もなく、周囲の建物は焼け去っていた。どこかの家の真っ黒な耐火金庫が、ぽつんと焼け野原にたたずんでいることだけを、強烈に覚えている。
「うちに行きましたけれど、丸焼けですもの。お茶碗だけは焼け残っていて、弟がそれを指差して『僕のだ』って。姉は泣きましたよ。母と長姉は焼けてないから戻ってくるだろうと思ってそこにしばらくいたんですけれど、きませんでした」
消防団の男の人に「どっち方面が焼け残っていますか」と聞いた。行くところはどこにもなく、「大井のおじさん」のところへ歩いていくことにした。
残された下の姉は、当時14歳。鈴木さんは7歳。そして弟は、まだ4歳だった。鈴木さんはいう。「あたしの、本当に辛い人生がそこから始まるんです」と。
「おじさんのところには、人がたくさんいたのを覚えています。みんな焼け出されて、親戚たちが逃げてきていた。でも、そこにそんなに長くはいられませんよね。ましてあたしたち親がいないでしょう。態度がぞんざいな態度になって、嫌なこと言われましたもん」
「たとえば『お前の親からは醤油一本、お酒ひとつもらったことない』と、言われたり。おじさんだって、ニコニコはしてられませんよね。たまたま焼けないで残っただけだし、自分だって、家族がいますからね」
そのあと、3人は別のおじさんの家を訪ねることにした。しかし、そこでも歓迎されることはなかった。やはり投げられたのは「家族だけでも食うや食わずなんだから……」などという言葉だった。
「今日からうちの子よ」
「しばらくそこでご厄介になってるときに、綺麗なおばさんが食べ物いっぱい持ってきたんです。ニシンのお魚の干したみたいなのだとか、豆だとか。美味しくてねえ。ガムシャラのように食べましたよね」
「そしたらある日、おばさんと出かけないって言われて。食べ物いっぱいもらえるから嬉しくて電車に乗ったんです。そしたらずうっと降りないんですね。おばさんどこいくの?って言ったら、あんたたち北海道の小樽に行くのよって。うちの子になったのよって」
このころ、姉は国鉄中央線の高円寺駅で働いており、寮に暮らしはじめていた。鈴木さんと弟は姉に知らせることもできないまま、東京を離れ、新しい「お母さん」のもとで暮らすことになったのだ。
鈴木さんは驚いたが、彼女たちに何かを選ぶことはできなかった。あとから知った話だが、小樽の「お母さん」は病気で子どもを亡くしていたのだという。
縁もゆかりもない北海道。軒先に、ニシンが大量に干されていたことに「食べ物がこんなにたくさんあるのか」と、衝撃を受けた。ニシン漁の最盛期は4〜5月。空襲から、数ヶ月後のできごとだろう。
しかし、当初は優しかった「お母さん」も、だんだんとふたりをぞんざいに扱うようにもなった。暴言や暴力、ときには2階から投げられたこともあった。
不憫に思ったのか、隣のおばさんがそのたびに助けてくれた。お菓子をくれることもあった。しかし、耐え切ることは難しかった。
「最初は優しかったんですけれどね。年中叩かれて、暴力ですよね。あたしは母に似て気の強い女の子だから、かわいくなかったそうです。あるとき弟がいなくなって、探しにいくと、小樽の駅にうずくまってました。ご飯は食べられなくてもいいから、東京に帰ろうって言うんです」
東京に返してください、と「お母さん」に頼んだ。彼女は、「返してあげる」と言った。
ひたすらに目指した「高円寺」
帰り道は、弟とふたりだけだった。
「小樽から出て、青函連絡船に乗りましたでしょ。お弁当買ってあげるね、と言ったきり、お母さんはいなくなってしまって。そのあと船の中で雑魚寝していると、どっかのおじさんに『お前ら捨てられたんだぜ』って言われましたよ」
「弟を置いて甲板に出て、後にも先にもあれだけ泣いたのはそのとき初めて。どうしようと、思いましたもん。そして思い出したのが高円寺という駅だったんです。高円寺にいけば、姉がいるって。馬鹿の一つ覚えみたいに、それからずっと、高円寺、高円寺って…」
鈴木さんは船のたどり着いた青森から、たったふたりで、東京・高円寺を目指すことにした。お金も食べ物も持っていない。どこかの駅に着くたびに「めぐんでください」と言って、まわった。
「東京はすごい空襲があったと聞いたが、そのときの孤児(みなしご)かって、家でお風呂に入れてくれて、ご飯を食べさせてくれて、おにぎりを作って持たせてくれた駅員さんもいましたね。お布団にも寝かしてくれて。お弁当をわけてくれた人も、いました」
このころ、もう戦争が終わっていたのか、鈴木さんは覚えていない。ただ、街並みが少し雪化粧していた記憶もあるという。ともすると、時期はおそらく1945年末ごろだろう。つまり、時代はすでに「戦後」だ。
「あたしね、終戦がいつかなんかまったく覚えてないんです。だって関係ないでしょう。弟とふたりきりで必死に生き延びようとしているあたしに、戦争が終わったかどうか、なんて。終戦なんて、あたし考えていなかったと思いますよ」
たどり着いた上野駅で
高円寺駅について姉と出会ったときは号泣し、抱き合った。しかし、やっとたどり着いた姉の寮でも、長く暮らすことはできなかった。
「物がない時代でしょう。いろいろと、なくなるんですよ。そうすると姉が表に呼び出されてね。あたしたちが、疑われてたんですよ」
行く場所は、もうどこにもなかった。姉は、鈴木さんと弟を、上野の地下街へと連れていった。
1946年の上野の地下街は、家を焼け出され、行き場を失った人たちであふれていた。なかには鈴木さんのような、戦災孤児も少なくなかった。
厚生省(当時)による1948年の調査によると、孤児の総数は12万人。養子や浮浪児、さらに米軍統治下だった沖縄の戦災孤児はこの数に含まれていない。
多くは鈴木さんのように親戚をたらい回されたり、子どもたちだけで満州などの外地から引き揚げてきたりしていた。そうした子たちが集ったのが、全国各地の駅だった。
「あのころの上野の地下街はね、夜になったら人でいっぱいですよ。朝になると誰か何人か死んでいる。体にとんとんと叩いて反応がなくなってるんですよね。それを男の人たちが抱えて、表に連れて行く。そんなのが毎日です」
「姉にはね、奥に行っちゃだめ。入り口の方にいなさいって言われていました。何かあったら大変だからでしょうね。それで、3、4日に1回、食べ物をみんなにわからないようにして持ってきてくれましたよ。お芋の蒸したのとかさ。でも、バレたら盗られてしまうから、布切れを被って音を立てずに食べるんですよ」
ふたりは薄暗い、地下街の端に座り込んで過ごした。夜は焦げ付いた布団にくるまって、眠る日々だ。
お手洗いは上野公園を頼った。顔や身体は公園の水道で洗い、空き缶をコップ代わりにして、水を汲んだ。
闇市で盗んだおまんじゅう
とはいえ、食べ物は姉からもらうものだけで足りるわけがなかった。鈴木さんはいう。
「空腹は、本当につらいんですよ。立っていられませんもん。3日も4日も水道の水だけ飲んでたら、どこでもいいから横になりたくなっちゃう。空腹っていうのはそれくらい、ものすごくつらいから」
鈴木さんは、弟の分の食べ物を探すために、盗みを始めた。同じような境遇の「浮浪児仲間」ができるようになっていたからだ。ヨリコ、と呼ばれていた。
「おのぼりさんとかが、上野公園にいるじゃないですか。そうすると、だいたいおにぎりやお弁当を持っているのがわかる。一番年上のお兄ちゃんがきちんと統制をとって、あたしは女の子だから相手が用心しないからって、おのぼりさんから盗む役をしていました。次の子がいるから、今度はその子に渡して逃げる。事前に決めた上野の山のある場所に集まって、みんなで分けて食べましたよね」
西郷像のまわりでは、盗みはしないというのが子どもたちの不文律だった。大人が多く、すぐに捕まってしまうからだ。「もっとね、山の奥の方が良いんですよ」。
弟には「お姉ちゃんが帰ってくるまで、ここにいるんだよ」と言った。盗んだ食べ物をどうにか持って帰って、食い繋いだ。
「闇市でも盗みをしましたね。仲間に教えてもらったのはね、とにかく盗んだらその場で口に入れるっていうこと。逃げたら大人に追いつかれちゃうからね。食べたら自分のものになる。まんじゅうとか、手に取りやすいものをよく盗みましたね」
こうした孤児たちに対し、大人たちも当然良い顔はしなかった。邪魔なんだよ、と蹴り飛ばされている孤児もいた。盗んだことを咎められ、ボコボコに殴られている孤児もいた。自分たちはごみのように扱われている、と感じた。
でも、助けてくれる大人もいた。ときたま行政による「浮浪児狩り」があったが、闇市のおばさんが出店の下に隠してくれたことがあった。
浮浪児狩りとは、戦災孤児たちによる治安の悪化や、犯罪者になることを恐れた当局による収容措置だ。多くはそのまま孤児院に連れていかれることになったが、その環境は決して良いわけではなく、収容を拒んだり、脱走をしたりする子どもたちが少なくなかった。
「浮浪児狩りにあうのは本当に嫌だったの。檻に入れられると聞いていたから。でも、こうやってね、小樽のお隣さんや、東北の駅員さんみたいにね、必ず手を差し伸べてくれる人がいたんですよ」
「戦争が終わった」と思えたとき
2ヶ月ほど上野の地下街で過ごした後、弟は姉が見つけた東京・荻窪の孤児院(児童養護施設の前身)に入ることになった。
一方の鈴木さんは定員の都合で孤児院には入ることができず、茨城の親戚に引き取られることになった。
そこで待っていたのも、やはりひどい虐めだった。食事も1日一膳しか食べることができず、「あんたを引き取る謂れはない」などと暴言を吐かれたのだ。
少しして、さらに別の女性に引き取られることになった。血縁関係はなかった。
「女の子だから役に立つ、と思ったらしいですよ。お兄さんは辛くあたってきましたが、お母さんはきちっと弁えた人でした」
「茨城のお母さん」は、鈴木さんを小学校に入れてくれた。本来であれば3年生のはずだったが、2年生から復学することになったという。
「学校に行けるようになったとき、はじめて戦争が終わったと思えましたね。やっと、人並みに、子どもらしく生活できたから。あたしもね、お手伝いをがんばりました。学校から帰ってくればお米は研ぐし、お湯を沸かしたりお風呂やったり……」
弟は、自ら命を絶った
中学を卒業するまで茨城で過ごして、そのまま東京で就職。給料を前借りして、ソニーのトランジスタを買い、「茨城のお母さん」に送った。
「茨城のお兄さん」に生まれた子どものため、デパートに朝から並んで、ブームになった「ダッコちゃん人形」を買ったこともあった。どちらも、せめてもの恩返しにという気持ちからだった。
東京に帰ってきてから、一度だけ孤児院の弟に会いに行ったことがある。
しかし、弟は鈴木さんのことをまったく、覚えていなかった。荻窪からほど近い、吉祥寺の井の頭公園にふたりで出かけたが、一言も、口を開かなかった。
それから数年後、弟は19歳で自殺した。遺書には「自分の持ち物は孤児院に寄付をしてください」と記されていた。家族に対する言葉は、ひとつもなかった。
「そのころのあたし、銭湯とかにいって、親子が仲良くしているところとかを見ると、ムカつくこととかもあったんです。なんで、自分はと思ってしまってね。こういう道を、自分が選んだんじゃないんだもの。たまたま東京の下町にいただけですから。嫉妬、みたいな感情だったのかもしれませんね」
鈴木さんは、22歳で結婚。式には、茨城のお母さんも呼んだ。夫との間には3人の子どもをもうけ、育て上げた。
これも、あたしの人生だから
戦後、自らが戦災孤児であることは、あまり多く語ってこなかった、という。そんな、鈴木さんにとってあの戦争とは、何だったのか。いま、何を思っているのか。
「戦争で、すべてが変わってしまった。あたしばかりじゃないでしょう。紙一重で助かった人も、それからの人生なんて生優しいものではなかったんだと思います。あたしだって助かりましたけど……」
「あたしには、政治のこととか、小難しいことはわかりません。でも、陸軍海軍のエライ人、東條英機、そして官僚が戦争を起こしたわけですよね。それなのに、私たちに、国が何かをしてくれるわけでもなかった。何もしてくれなかったですよね」
「あとね、なんでもかんでも天皇陛下万歳と教えられてきたせいかもしれないけど、なんで天皇陛下が止めてくれなかったんだろうって気持ちが、ありますね……。止めてくれていれば、家族も死なず、バラバラにならなかったのに。こんなこと言っていいのかわからないけれど、あたし、気持ちをもってきどころがないんです」
鈴木さんは「でもね、これもあたしの人生だから。結婚してからは幸せでしたし、終わりよければ、全てよしですよ」と気丈に笑う。しかしその一方で、こんな言葉も、つぶやいた。
「あたし、どこかでずっと突っ張って生きてきたんですよね。誰かの人の顔色を見て、背伸びしてきた。この年まで、ね」
<参考文献>
「戦争孤児― 『駅の子』たちの思い」(本庄豊、新日本出版社、2016年)
「アジア・太平洋戦争辞典」(吉川弘文館、2015年)