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なぜ、東洋の魔女は「非国民」と呼ばれたのか。五輪をめぐる“誹謗中傷”が、彼女たちを追い込んだ

前回の東京オリンピックで伝説となった女子バレー日本代表「東洋の魔女」。菅首相もたびたび言及している彼女たちが、犠牲にしたものとはなんだったのか。大松博文監督や河西昌枝選手、さらに元メンバーや当時の新聞をもとに、振り返る。

1964年の東京五輪で金メダルを取り、伝説的な存在として、いまだ語り継がれている女子バレー日本代表「東洋の魔女」。

菅義偉首相もたびたび思い出話を披露するなど、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ彼女たちは、かつて「非国民」という誹謗中傷に晒されたことがあった。

「鬼」とも呼ばれた大松博文監督も、そして選手たちも、世間の期待に恐怖すらを感じていたという。いったい、どういうことなのか。歴史を、紐解いた。

菅首相がこれまで何度となく言及してきた「東洋の魔女」。国会での答弁にはじまり、選手団の壮行会や、バッハ会長の歓迎会、テレビ出演などで自らの高校時代の思い出を繰り返している。

「ノスタルジー」に固執する姿に批判も集まるが、1964年の東京五輪をリアルタイムで経験した人たちにとって、「伝説」として語り継がれている存在だ。

東京五輪で決勝戦となったソ連戦の平均視聴率は66.8%。瞬間最大視聴率では85%〜95%という数字も残されている。スポーツ中継におけるこの歴代最高視聴率の記録は半世紀以上にわたり、破られていない。

ただ、このように大きな注目を集めていた選手たち、そして監督が、当初は五輪出場に後ろ向きだったことは、あまり知られていない。

モスクワの世界選手権で優勝後、大松監督は辞任を表明。選手たちも同調していたが、「金メダルが確実」と言われていた「東洋の魔女」の引退を、加熱した世論は受け入れなかったのだ。

全国各地からは、5000通を超える手紙が届いたという。うち4割は、引退を否定する内容だった。大松監督の自著にはその内容の一部が紹介されている。

「ここまでやり抜いてきたおまえたちが、この期に及んでやめるとはなにごとであるか。それは非国民というものだ。(…)わたしたち国民を裏切らないでほしいーー」

「東洋の魔女」とは何者なのか

そこまでにも国民を熱狂させた「東洋の魔女」とは、そもそも何者なのか。彼女たちは、繊維企業「大日本紡績」(日紡、ニチボー)の実業団チームである「日紡貝塚」のメンバーだ。

発足直後の1950年代後半から強豪として知られていた「日紡貝塚」。国内外で大きな注目を集めるきっかけとなったのが、1961年の欧州遠征における22戦全勝という記録だった。

これを機に、チームは海外メディアから「東洋の台風」と言われるようになった。それはいつしか、「台風のように立ち去らない」として、「魔女」に変わっていた。

翌1962年にモスクワで開かれた世界選手権大会では、宿敵ソ連をやぶり初優勝。東京五輪での正式種目入りが決まったばかりだったバレーボールの金メダル候補として、一気に期待が高まることになった。

「6人で銀座で買い物に行くと、周りを囲まれて店から出られず、裏から帰ったことこともあるくらいでした」。元メンバーの神田好子さん(旧姓・松村、79)はBuzzFeed Newsの取材にそう語る。

「鬼の大松」と言われた監督の厳しい指導も、話題を呼んだ。メンバーたちは昼ごろまで工場で仕事をして、午後から練習をはじめ、夜10時ごろまで「スパルタ」とも言える激しいトレーニングに臨んでいた。

生理でも練習を休ませないというような、いわゆる「スポ根」スタイルは、当時は感動を呼んだ。後年になって批判の対象にもなったが、神田さんは「先生は絶対に信頼できる人でしたよ」と語った。

「厳しいときもあるけれども、温かいんです。私は戦争で父を亡くしているんですが、先生は父親代わりでもあるような、大きな存在でしたね。月に1度の休みには外でご飯や映画に連れて行ってくれることもありました。こういう人と結婚したらいいなって、みんな思ってたんじゃないんですか」

五輪は「ゆううつ」と語った監督

日本中の注目にさらされていた「東洋の魔女」だったが、当のメンバーたちは「東京五輪」への出場について、複雑な心境を抱えていた。

世界選手権で優勝する前、バレーが五輪の正式種目に決まった際の新聞には、こんな大松監督のコメントが載っている。

「うれしいことだが、大きな期待をかけられているだけにそれを思うとちょっとゆううつだ(…)選手についてはいまいる連中を無理に引き止めることもできない」(朝日新聞、1962年6月7日)

なぜ、こう語ったのか。それは、当時は「女性は20代半ばで結婚する」という価値観が、社会に根強かったからだ。1960年の平均初婚年齢は男性が27歳、女性が24歳だった。数日後の紙面にも、世相をよく反映させた記事がある。

「朗報を大阪で聞いた日紡貝塚の選手たちの表情は全く予想外だった。(…)ある関係者に言わせると“彼女たちはオリンピックに関心がないのか”と思わせたほどだった」

「“日紡選手はオリンピックまでお嫁にいかないで欲しい”という冗談も出ているが、日本スポーツ界はどうも勝負にこだわりすぎる」(朝日新聞、1962年6月11日)

実際、チーム内で最高齢の28歳だったキャプテン・河西昌枝選手も、このように回想している。

「わたしたちはわたしたちなりに結婚問題を真剣に考えました。そりゃ女ですもの。実のところバレーボールと心中する気持ちはありませんでした」(読売新聞、1964年10月24日)

結婚=引退。今のスポーツ界では考えられないことだが、当時は多くの人々がそう思っていた。

辞任を表明した大松監督

また、チームは世界選手権での「打倒ソ連」を掲げて2年にわたる練習漬けの日々を送り、ようやくその夢を果たしたばかりだった。神田さんもこう語る。

「私たちは、オリンピックのことなんて何も頭になかった。世界選手権を目標に2年間やってきて、『関係ない』とすら思っていた。年齢のこともありましたし、『ええ、また2年?』っていう気持ちでしたね」

大松監督も、選手たちを「解放」させたいと考えていた。さらに、自らが家庭を犠牲にしていることにも、自責の念を感じていたようだ。

「あの一戦に勝つために、わたしは、女子選手たちの青春を犠牲にし、わたしの家庭を犠牲にしたのでした。長い苦しい歳月を、選手たちは耐えしのんでわたしについてきたのです」

「勝利の瞬間にわたしを訪れた無限の解放感は、みずからの力でかち得た栄誉を胸に、本来の日本女性のたどる道に、選手たちを解放してやることができるという喜びでした」(『なせば成る!』より)

帰国後すぐ、監督は祝賀会の場で辞意を表明。しかし、関係者たちは、そうした考えを許さなかった。

日本側がバレーボールの五輪正式種目入りを熱望していたのは、「東洋の魔女」ありきでもあった。そして、世論も「東京五輪で金メダル」を切望していた。

河西選手の自著によると、「日紡」の社長も選手たちを呼び出し、「会社の意のままにならなくなった。日本国民のためにあと2年、なんとかがんばって続けてもらえんかな」と説得したという。

投げつけられた「非国民」の言葉

そのような空気に、大松監督は恐怖すら感じていたようだ。

「わたしと選手たちを迎えた日本は、すでに、わたしたちの意志や願望とまったく違った、恐ろしく大きな期待をひそめていました。『女子バレーで確実に、日本に金メダルが取れる……』」

「オリンピック関係者もさることながら、大きくいえば、全国民の期待が、じりじりとわたしたちを追いつめているのが感じられました。『おまえたちがやってくれなかったら、いったいどうなるのだ……』(『なせば成る!』より)

「東洋の魔女」の引退騒動に、世論は大きく反発した。2ヶ月で、全国各地や海外の在留邦人、少年少女から高齢者まで、5千通を超える手紙が届いたという。

「六割は、おまえの決心通りやめるべきだ、これ以上まだ続けるとしたら、おまえはひとでなしだ、というものでした。あとの四割は、ここまでやってきて、せっかく日の丸があがるところまできて、このどたんばでやめるとは、おまえは非国民だ、というのです」(同)

監督自身は太平洋戦争中、将校としてインパール作戦に従軍し、餓死と戦病死が相次ぎ、敗退して撤退する道すがらを「白骨街道」とまで呼ばれた、悲惨な戦場を生き抜いた経験がある。神田さんのように、戦争で父親を失った選手もいる。

にもかかわらず、「非国民」という言葉は、いとも簡単に用いられたのだった。

「やれという人にとっては、非国民であったのです」「なにがなんでもやれ、という、単純明快な要望の持つ非情さに、わたしの心はふるえました」。大松監督は、そうも書いている。

「負けたら日本に住めない」

1962年の正月休み。大松監督は東京五輪への判断を、選手たちに「わしがお前らに『やってくれ』とは言えない。みんなに決めてほしい」と一任した。

テレビや新聞、雑誌などのメディアに触れる時間すらもなかったメンバーたちにも、国民からの声は届いていた。

のちにNHKの取材に応じた元メンバーの故・谷田絹子さんは「だんだんひどくなってくるからね、投書がね。卑怯者だとかね」と証言している。

神田さんもBuzzFeed Newsの取材に対して、「いっぱい手紙がきたんですよ。辞めたら『非国民』って言われるって怖かったんですよ」と語る。

「世間の方は『東洋の魔女は金メダルを絶対にとる』って感じでしたよね。応援はありがたかったけれど、五輪でもし金メダル取れなかったら日本に住めないんじゃないのって、選手同士では話していましたよ」

それでも、河西選手を先頭に、彼女たちは「オリンピックまでやります」という結論を出した。

大松監督は「やるからには金メダルだ。そのためには、いままでの2倍、3倍練習をする必要がある」と言ったという。

真に解放されるための1時間半

練習の厳しさは増した。夜10時ごろまでだったものが、深夜1時、2時と伸び、明け方5時になることもあった。

それでも、「必ず金メダル」という「日本全国民の期待」にこたえるため、選手たちはがむしゃらに練習し続けた。

直前になってハプニングもあった。日紡貝塚以外の一般選抜メンバーを入れるかどうかで、日紡側とバレー協会で対立が生じたのだ。これは、「日紡メンバーを主力」とする方向でまとまった。

開会式前日には、北朝鮮がボイコットするという事態も起きた。競技開催には最低でも6カ国が必要だったため、急きょ韓国の参加が決まった。チームが東京についたのは、試合の前日だった。

波乱を乗り越え、「東洋の魔女」は金メダルを手にした。決勝戦の相手は宿敵・ソ連。ストレートで下した。

大松監督は、その時の気持ちを「今度こそ、選手たちには、真に解放されるための1時間半でした」と書いた。神田さんもいう。

「金メダルを取れて嬉しかったですけど、そのあとは『ああ、やっと終わった』っていう気持ちでした。練習やプレッシャーから解放されたから。並びながら、みんなで『終わったね』って手を握りしめていたんですよ」

「マニキュア」の意味

キャプテンの河西選手もやはり、この瞬間を特別な思いで迎えていた。

五輪までの日々、河西選手がただ一つ、大松監督の指示に従わなかったことがある。それは、爪を伸ばし、マニキュアを塗ることだったという。

決勝戦当日の新聞には、爪の手入れをしている様子が本人のコメント付きで報じられていた。

「ボールがあたって、ツメがはげ、どんなに痛うてもウチは痛いとはいわへん。痛そうな顔もせえへん。ウチかて、バレーをやめたらただの女や。女らしさを忘れとうない」(読売新聞、1964年10月23日)

さらに翌日には、「あすから女の道を」というタイトルの寄稿をしている。繰り返しになるが、当時はそういう価値観が一般的な時代だったのだ。

そのなかでは「こんなうれしいことはありません」「ほんとうによかった」と喜びを噛み締めながらも、こう綴っている。

「高校時代の親友が女の子を連れて応援にきてくれました。(…)もう八つになるのだと聞いて、しんみりしました。バレーボールをやっていなければ、やはりこのようなこどもをつれてオリンピック見学にきていたかもしれない」

「この七月になくなった父は、『昌枝の嫁入り姿をみたい』といったそうです。(…)お嫁入り姿をみせられなかったのは、親不孝だったかもわからないが(…)あの父のことだからゆるしてくれるでしょう」(読売新聞、1964年10月24日)

この寄稿文は「わたしは青春のすべてをかけて歩んだ今夜までの足跡だけを大切に、あすから女としての幸福な道を歩みたいと思います」と結ばれている。

「鬼」が恐れたもの

紆余曲折はあったとはいえ、「金メダル」はやはり選手たちにとって、何にも変えられないものだった。

河西選手は自著に「青春のすべてを賭けて取った(…)金メダルは、私の人生を大きく変えてくれました。最高に幸せな人生に……」と振り返っている。

神田さんも「6人と先生で素晴らしい結果を出せて、本当に良かったと思います。記録だけじゃなくて、みなさん方に記憶も残せましたしね。いろいろなことがあったけれど、結果的にはすばらしい、私の歴史です」と語った。

その後、「東洋の魔女」はどうなったのか。大松監督は五輪翌年の正月明けに「日紡」を電撃退社。河西選手とほかのメンバーの多くもすぐあとを追った。2年越しの引退だった。

河西選手は翌年、佐藤栄作首相の仲立ちで自衛官と結婚。3人の子どもにめぐまれ、ママさんバレーの普及に尽力、アテネ五輪(2004年)ではチームリーダーとして参加し、2013年に80歳で亡くなった。

一方の大松監督は参議院議員を経て、再びバレー界に復帰。イトーヨーカドーのバレーボール部創部に参加したが、直後の1978年に亡くなった。57歳の若さだった。

「東洋の魔女」の選手たちを「一つの芸術品」と称し、厳しい練習にも耐え抜いた努力を讃えている大松監督は、自著にこうも記している。

「選手は金メダルを取らねばならなかったし、『日の丸』はまん中に上がらなければなかった。そしてわたしは、そうさせてやらねばならなかったのです」

「スポーツ関係者だけの期待ではない。日本の全国民の期待でした(…)期待しながら非難するーーそれが世間であり、その非難に黙って耐えることが、期待にこたえることでした」(『なせば成る!』より)

「鬼」と言われた彼にとっても、「人々の期待」はそれほどに恐ろしいものだったのかもしれない。


参考文献

  • 『おれについてこい!』(大松博文、講談社、1964年)
  • 『なせば成る!ー続・おれについてこい』(大松博文、講談社、1964年)
  • 『お母さんの金メダル』(河西昌枝、学習研究社、1992年)
  • 『1964 東京ブラックホール』(貴志謙介、NHK出版、2020年)
  • 『スポーツとメディア:作り手と受け手』(掛水通子、スポーツとジェンダー研究、2017年 15巻)
  • 『厚生労働白書』(厚生労働省、2013年)
  • 朝日新聞、読売新聞、毎日新聞

UPDATE

一部表記を修正しました。