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下着に隠されていた、姉妹の写真。戦病死した女性オリンピアンが見た「天国」と「地獄」

1946年、満州からの引き揚げ途中に亡くなった、ある女性。ブラジャーに隠されていた一枚の写真は、ベルリン五輪に出場した姉妹のものだった。唯一の女性「戦没オリンピアン」である、飛び込み選手の大沢政代さんが歩んだ足跡を追った。

「戦没オリンピアン」という言葉がある。五輪に出場した経験があり、第二次世界大戦で命を落とした人々のことだ。

その数、38人(*1)。兵士として命を落とした人。戦地のけがが理由で、病死した人。広島で被爆し、戦後に原爆症で命を落とした人。さまざまだ。

そして、たったひとり、女性の「戦没オリンピアン」がいたことは、あまり知られていない。

ここに、一枚の写真がある。1946年、旧満州(中国東北部)からの引き揚げ途中に亡くなった、ある女性のブラジャーに隠されていたものだ。

うつっているのは、「オリムピックの花形選手」と言われた大沢姉妹。ふたり揃って1936年のベルリン五輪に出場した。

写真左は、姉の政代さん。1913年生まれの、飛び板飛込みの選手。右は、2つ下の妹・礼子さん。高飛び込みの選手だった。

ベルリン五輪では、政代さんが6位、礼子さんは4位入賞という結果を残した。2人は1940年の東京五輪でメダルを目指していたが、戦争の影響で中止に。結婚した直後、戦火に巻き込まれることになる。

日本が敗戦まで実効支配していた満州で、陸軍の軍属として働いていた政代さんは、終戦後、日本に戻る「引き揚げ」の最中に、3歳の娘とともに病死した。32歳だった。

道中、肌身離さず持っていたのが、この写真だった。「オリンピック選手」であることに気がついた関係者がいたことから、その身元が判明したという。

「彼女は、あの時代の天国と地獄を見たとも言えます。ナチスの国威発揚の場となった『平和の祭典』に参加し、戦争で中止になった幻の東京五輪を目指し、そして数年後に引き揚げで命を落としたのですから……」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、水野秀雄さん。大沢姉妹の父親の出身地である新潟県長岡市に暮らし、存命だった礼子さんに取材をするなど、2人に関する調査を続けてきた男性だ。

その資料や、当時の雑誌などに残されている姉妹の言葉などを頼りに、政代さんの足跡を振り返ろう。

「女がスポーツをして…」

大沢姉妹は、大正時代、いまの東京都杉並区に生まれた。

事業で成功した父親のもと、恵まれた環境で育った。家の敷地にはテニスコートやグラウンド、弓道場まであったという。小田原や赤倉に別荘もあり、夏は水泳、冬はスキーに興じていたほどだ。

そのおかげで水泳好きになった政代は、日本大学のコーチに才能を見出される。ロサンゼルス五輪(1932年)を目指すが、代表選考には落選。一方、妹の礼子はその応援にいったことをきっかけに、飛び込みを始めた。

姉妹そろってベルリン五輪を目指すことになったモチベーションは、「外国に行きたい」ことにもあった。当時は、海外旅行など簡単にいける時代ではない。代表になれば、渡航費用は官費で賄われたのだ。

しかし、時代はまだ昭和初期。父親の理解は得られず、このような言葉をぶつけられたという。

「女がスポーツをしてどうするんだ、そんなに泳ぎたいなら海女にでもなれ」

金銭的支援を得ることはできず、政代さんは「三省堂」で、礼子さんは「美津濃」(ミズノ)で働く傍ら、練習に励んだ。

午前は仕事を、午後は日大や神宮、YMCAのプールでの練習を、そして夜は再び仕事を……という日々。その成果もあり、2人そろっての代表選出が決まった。

ヒトラーと面会、あの人とも…

ベルリンまでの往路は、鉄道だった。当時は日本の支配下にあった朝鮮半島、満州を通過して、シベリア鉄道に乗ったという。鉄路の旅は2週間におよんだ。

シャワーもなかなか浴びられず、水泳の代表選手たちはベルリンに到着するなり、長旅の垢を落とすためすぐに練習用のプールに飛び込んだそうだ。

当時のドイツは、ナチス全盛期。ベルリン五輪もまた、その国威発揚、プロパガンダのために計算しつくされたものとなっていた。

「開会式から競技のいたる場面まで映画や写真のために演出され、プールサイドにレールを敷いたり、10メートルの飛び込み台の上へ消防のはしご車を伸ばしたりして、撮影していました」(礼子さんの回想より)

姉妹は、練習を視察していたヒトラーにも会った。礼子さんはのちに「小さな人で肩にパットを入れていました。ぐにゃっとした感じの男でしたね。それにお化粧をしていた」と、江隈昭人氏のインタビューに語っている。

日本の女子水泳選手はナチス・ドイツの宣伝相だったゲッベルスの昼食会に招かれ、着物姿で自宅を訪問。娘たちに「藤娘」の人形をプレゼントしたという記録もある。

そのころ、日本もまた時代の転換点にあった。数ヶ月前に二・二六事件が起きたばかり、翌年には日中戦争が勃発するころ。軍部が台頭し始めていたことを、窺わせる礼子さんの言葉もある。

「日本では軍部の力が強くなっており、入場行進で女子選手が先を歩くことに憤慨していたようですが、選手の西竹一中尉はいい方で『気にするな』と言ってくださいました」(同上)

日本のために、よくやってくれた

とはいえ、選手にとって五輪は、これまで成果をぶつける大舞台であることに変わりはない。政代さんはその心境を、こう振り返っている。

「日の丸マークの水着を着ける時、どうしても負けられない、例へ、力尽きて敗れるとしても、日本の名に恥じる事があってはならないーーと一ぱし、祖国愛に燃えたって、小さな胸が昂奮で、押へても押へても波打ってなりませんでした」(政代さんの回想より)

自らは惜しくも6位。「貧弱な成績でしたけれど、私にとっては一生涯、忘れ得ない深い感銘であります」と控えめに記しているが、妹の4位入賞には喜びを隠さなかった。

「妹は(…)いつものようにのびのびとやってのけて、二十三人の高飛込選手のうち、四等に入賞してくれました。単に肉親として、妹として入賞してくれたという嬉しさよりも、日本のために、よくやってくれた!!と、どれ程感謝したか、未だに、あの大きな喜びは忘れられません」(同上)

ベルリン五輪では、女子競泳200メートルの前畑秀子選手が金メダルを取り、「前畑、頑張れ」のラジオ実況が日本中を沸かせた。また、男子サッカー代表が優勝候補のスウェーデンを破って「ベルリンの奇跡」と呼ばれるなど、さまざまな逸話を残した。

「異郷にきく感激の『君が代』そして粛々と上る日章旗ーー。前畑さんが(…)天晴れ一着になられたあの時、私も祖国を代表する選手の一人として『君が代』に一入涙しつつ、日の丸の旗を仰いだものでした」(政代さんの回想より)

2週間に及ぶ大会期間を終えた帰路は、イギリスやフランスに立ち寄りながら、船旅でエジプト、シンガポール、上海などをめぐった。

船内にはプールやゴルフ練習場もあり、さながら現代のクルーズ船のような設備。選手たちにとっては「ご褒美」だったようで、のびのびと過ごした写真が残っている。

政代さんが「オリンピックの思い出は、浜の真砂とつきないほど沢山」とも記しているように、道中含め、さまざまな楽しい出来事があったのだろう。

姉妹で目指した「幻の東京五輪」

ベルリン五輪は、ドイツ選手に有利だったという批判もあった。姉妹は1940年の東京五輪でリベンジを果たそうと、帰国後も練習に励んだ。

そのころ撮影された姉妹の写真には、「1940」のワッペンを指差しながら笑顔を見せる2人の様子が収められている。

姉妹は1938〜39年の全日本選手権大会でそれぞれ優勝するなど、結果も残していた。しかし、夢は叶うことがなかった。

1938年5月、東京五輪の大会の返上が閣議決定される。国際情勢の悪化、そして戦時体制の強化が理由だ。代替地にヘルシンキが決まったものの、翌年にヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、中止となった。

そうした社会の空気を嗅ぎ取っていたのか。1938年末の業界紙に、政代さんは「社会の状勢がスポーツの普及を邪魔している」と記している。

それでも政代さんは、水泳と関わるのをやめることはなかった。コーチとして後身を育て、時に朝鮮や満州をめぐることもあるなど、精力的に活動していたようだ。1940年の雑誌には、これからの展望を、こう書き残している。

「まだまだ『飛込熱』は勿論のこと、『水』に対する愛着の気持ちは、少しも衰へてはいないつもりです。機会にさえ恵まれますならば、これから後も、大いに頑張りたいと、未だに張り切っております」

夫の戦死、そして…

1941年、政代さんは満州の航空機メーカーで働いていた井川晴雄さんと結婚。奉天(現・瀋陽)に移り住んだ。翌年9月には長女・章子さんが生まれている。

夫の召集を受け、1943年ごろに家族3人でソ連との国境近く、孫呉に移り住む。政代さんは軍属のタイピストとして働いたが、直後に夫は南方に転戦となり、44年9月にグアム方面で戦死した。

一方の政代さんは長女とともに満州に残り、軍属として働き続けた。なぜ、夫がいなくなっても日本に戻ることを選ばなかったのか。そもそも、戦死を知っていたのか。定かではない。

「当時は勝った、勝ったと伝えられていた時代。政代さんもまさか日本が負けて、満州がなくなるとは思っていなかったのではないでしょうか」。姉妹について調べてきた水野さんは、そう推測する。

日本が戦争に負けると、ソ連の侵攻や中国の内戦の影響から、満州は大きく混乱した。「8月15日から戦争がはじまった」と表現する人もいる。

「引き揚げ事業」は困難を極め、取り残された100万人以上の帰国が本格化したのは、終戦から1年ちかく経ってからのことだ。

その間、戦闘に巻き込まれて命を落としたり、暴徒やソ連兵に暴行や略奪を受けたりした人は少なくない。さらには食糧難や病が、帰る術をもたない人たちを襲い、20万人以上が命を失った。

あの時を、忘れないために

政代さんもまた、そのひとりだった。亡くなった奉天までは、長女とふたり暮らしていた孫呉から、約1000キロ。道中のことは、はっきりとはわかっていない。

唯一、1945年の末ごろ、避難民救済団体にいたサッカー五輪代表の種田孝一さんと再会していたことだけは、中日新聞社の取材をきっかけに判明している。

種田選手は回顧録に「思いもかけない形で再会」と記していたという。「ほどなくこの世を去られた」とも。

1946年1月1日。政代さんは、伝染病である発疹チフスを患い、日本人難民の収容施設で亡くなった。3歳だった章子さんも同じ病で、同月29日に短い生涯を閉じた。

現地で埋葬された政代さんの身元を明らかにしたのは、前述の通り、ブラジャーに潜ませていた1枚の写真だった。世話人が写真を見つけ、「オリンピック選手ではないか」と、遺髪や爪とともに日本に持ち帰ったのだ。

その後、写真は金メダリスト・前畑選手の手にわたり、政代さんであると判明。遺族のもとに、辿り着いたという。水野さんはこう語る。

「政代さんにとってのベルリン五輪は、仲良しだった妹とともに参加できた、人生でもっとも輝いていた思い出だったはず。だからこそ、引き揚げのときもお守り代わりに、胸にしまっていたのはないでしょうか」

「そしてまたそれは、身分証がわりでもあった。この姿を見れば、きっと誰かが気づいてくれるはずともわかっていた。つまり、自分に何かが起きるということも、またわかっていたのでしょう」

ボロボロになったアルバム

妹の礼子さんは、結婚後中国に向かったものの、戦況の悪化を受け日本に帰国。千葉大空襲でけがを負いながらも、戦争を生き延びた。

「姉の分まで」という気持ちをもと、長年指導に当たり、80歳代まで選手も続けた。「姉が生きていたら、今も一緒にコーチをしていたと思います」。生前、そんな言葉を残している。

水野さんには、姉の死についてあまり話すことはなかったという。ただ、ふたりの記録をまとめた際、礼子さんからは丁寧な礼状があった。そこには「靖国神社で涙して報告した」ということが、書かれていた。

2010年に亡くなった礼子さんは、ベルリン五輪の写真などを、一冊のアルバムにまとめている。

戦争に突き進む直前、いっときの華やかな記憶が詰まっているそのアルバムは、つなぎ目が剥がれそうなくらい、ボロボロになっていた。

姉妹2人の思い出を、そして夢を忘れないよう。彼女はそれを、何度も何度も、読み返していたのかもしれない。

(*1)戦没オリンピアンについては、広島市立大・曾根幹子名誉教授が戦没者名簿などを調査。1920年のアントワープ五輪から6大会に出場した選手らのうち、戦場での戦死だけではなく、戦争が原因で引き起こされた病気、空襲などによる死亡なども含み、現段階では38人とされている。このリストは今後も更新される可能性があるという。


参考文献

  • 「与板のひとびと : 与板の人物誌」(与板町教育委員会、2005年)
  • 「野球界」(野球界社、1940年11月号)
  • 「水泳」(日本水上競技連盟、1938年4月号、40年12月号)
  • 「せたがや」(世田谷区広報広聴課)
  • 「五輪回想」(江隈昭人、1991年)
  • 「伯林オリムピック大觀」(滿州日日新聞社、1936年10月)
  • 「中日新聞」(2019年5月12日)

UPDATE

西竹一中尉のお名前と一部分中表記を訂正いたしました。

UPDATE

一部表記を修正いたしました。