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「沖縄戦は”災害”だった」左足を失った元軍国少年が、そう語る理由とは

72年経っても、何も変わっていない。

いまから76年前の12月8日に始まった戦争は、4年後に終わった。それも、多くの人の命を犠牲にして。

なかでも甚大な被害があったのは、国内最大の地上戦が起きた沖縄だ。米軍との激しい戦いのすえ、島は穴だらけになり、県民の4人に1人が死亡したと言われている。

その戦いのさなか、砲撃を受けて足を失った「元軍国少年」がいる。戦後牧師になった彼は「沖縄戦は、災害だった」と語る。いったい、なぜなのだろうか。

沖縄戦で破壊された那覇市内(米軍撮影)
Fpg / Getty Images

沖縄戦で破壊された那覇市内(米軍撮影)

<BuzzFeed Newsの取材に語るのは、沖縄キリスト教平和研究所所長の大城実さん(83)。1934年に南太平洋・トラック島で生まれた。両親は沖縄出身。生後すぐ沖縄南部の糸満市に移り住み、そのまま戦争を経験した。

戦争が始まった1941年、国民学校に入学した大城さん。世の中はどんどん戦時に突入して行くが、このころの沖縄はまだ平穏で、記憶はあまり残っていない>

私は軍国少年でした。毎日のように竹槍訓練をし、「兵隊さん」に憧れを抱いていた。教育勅語もそらで読むことができましたし、学校も楽しかった。

左足を貫通した砲弾

Kota Hatachi / BuzzFeed

<大城さんにとっての戦争は、1944年10月10日に始まった。那覇大空襲だ。初めて見た敵機、そして空襲。その日から、B29が飛来するたび、防空壕に隠れるようになった。

戦闘がいよいよ激しくなった1945年3月ごろからは、ひたすらに戦火から逃げ続けた。艦砲射撃で辺り一面が穴だらけになり、砲弾が飛び交い、さらに犠牲になった人々の肉片や血のりで道路が埋まった様子は、いまも忘れることができないという>

逃げているさなか、砲弾の炸裂音が次第に大きくなり、近づいてきた。大音響とともに、左足に不思議な感触が走りました。

砲弾が、左足を貫通していたのです。命は落としませんでしたが、2日もすると傷口にウジが湧き、痛みに苦しめられました。

病床で聞いた玉音放送

足を怪我しながら収容所に向かう少年(1945年6月、米軍撮影)
沖縄県公文書館

足を怪我しながら収容所に向かう少年(1945年6月、米軍撮影)

<怪我をしたのは、沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結する3日前の、6月20日ごろだという。一家はそのまま捕虜になり、瀕死の状態だった大城さんは米軍の野戦病院で治療を受けた>

野戦病院で治療をしていたら、隣にいたおじさんが、「きょうは大事な放送がある」と言っていた。どこからか借りてきた短波ラジオで、その放送を聞きました。

あのザアザアした音の中から、言葉を聞き取ることはできなかった。痛みで意識が朦朧としている中でわかったのは、戦争は終わったんだ、ということ。そのまま私は、処置室に運ばれていったのです。

ある米兵との出会い

収容所に集められた子どもたち(1945年8月、米軍撮影)
沖縄県公文書館

収容所に集められた子どもたち(1945年8月、米軍撮影)

<戦後もしばらく米軍の病院で過ごした大城さんは、20歳前後の看護兵と出会った>

戦争が終わったすぐあとに、こんな経験をしました。ひとりの看護兵が片言の日本語を覚えて、よく私に話しかけてきたのです。

彼はこう言いました。「神様は人をつくった。戦争は、いけない。国と国、戦争。人はみんな仲良し」。

もし自分が除隊になったら、医者になりたいと言っていたのですが、彼はその後、牧師になったそうです。

ひとりのアメリカ人として、国に奉仕することを考えていた彼は、平和を求めていた。きっと、「銃は持ちたくない」との思いで看護兵になり、牧師となったのでしょう。

人と人が向き合えば、乗り越えられることもある。この出会いは、私の人生に大きな影響を及ぼしました。

故郷は破壊された

米軍による手術を受ける地元の少年(米軍撮影)
沖縄県公文書館

米軍による手術を受ける地元の少年(米軍撮影)

<大城さんは高校卒業を機にアメリカへ留学し、牧師となった。そして戦後、一貫して平和運動に身を挺してきた>

沖縄戦では、土地が壊され、多くの県民が殺された。そして戦後は、米軍基地が押し付けられた。

10年ほど経って留学から帰ってきても、沖縄の現状は変わっていませんでした。戦争が終わったときのままだった。そして、日本に「復帰」しても、そのままにされている。犠牲を強制し続けられている。

そこをどうにか崩していきたい、それが僕の全てでもありました。だからこそ、平和運動に奔走してきた。

その根本には、やはり私の戦争体験がある。自らが育った土地が沖縄戦で破壊されたことは、私の人生にとって、大きな意味を持っているのです。

「災害」の始まり、そして怒り

Kota Hatachi / BuzzFeed

<そんな大城さんは、沖縄にとっての「災害」の始まりは明治時代の「琉球処分」にあった、と語る>

もともと、琉球というのはひとつの独立した国でした。日本でも、アメリカでも、中国でもどこの国でもなかった。

武器を持たない国として、「万国津梁の鐘」(*琉球王国の掲げた交易立国としての宣言)として。アジアを結びつけるような存在だったわけです。

しかし、「ヤマト」によって占領されて、沖縄県にされた。私の家もですが、名前も日本風に変えさせられた。

このような歴史を知ったとき、私はひとつの強い怒りを覚えました。それが、すべての災害の始まりだったのですから。

現状は何も変わっていない

10月、沖縄本島北部の民間地で炎上事故を起こした米軍ヘリ「CH53E」の残骸
Kota Hatachi / BuzzFeed

10月、沖縄本島北部の民間地で炎上事故を起こした米軍ヘリ「CH53E」の残骸

<戦後70年以上、変わらない沖縄の現状には、憤りを覚えている。名護市辺野古での米軍基地建設や、相次ぐヘリなどの事故などに対しても、だ>

私たちはずっと、米軍基地について反対をしてきました。しかし、70年が経っても、沖縄の置かれた現状は何も変わりませんでした。

これは、ある意味、私たちの不甲斐なさでもあります。しかし、日本の政府も、沖縄の思いをことごとく否定している。拒否している。

戦争が終わった、その時から。沖縄は災害の中に、閉じ込められているのです。いまも災害を、こうむり続けているのです。


BuzzFeed Newsでは、沖縄戦で孤児になった男性の体験談を【「あのにおいが忘れられない」いまだ戦災孤児を苦しめるPTSD、沖縄戦被害者の告白】に掲載しています。


Kota Hatachiに連絡する メールアドレス:Kota.Hatachi@buzzfeed.com.

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