被爆者がいない、被爆者団体へ。悲劇を語り継ぐのは、その子どもたち

    辛く、悲しい体験を伝えていくために。

    80.86歳。これは、全国にいる被爆者174,080人の平均年齢だ。

    被爆から71年。高齢化は年々進む。全国各地で体験を語り継いできた被爆者団体も、その存続が危ぶまれている。

    すでに、被爆者以外が運営を担っている団体も多い。どうやって核兵器の悲惨さを伝えていくのか。そして、誰が伝えていくのか。乗り越えるべき壁は高い。

    日本原水爆被害者団体協議会(被団協)によると、奈良や滋賀では2006年と08年に、会長の死去に伴い、団体が解散。和歌山もその後を追う状態だという。

    朝日新聞の実施したアンケートによると、全国に44ある被爆者団体のうち、91%が「活動の存続に危機を感じる」と答えている。その一方で、95%が「今後も世代を超えて続けていくべきだ」とも。

    被爆2世や支援者へ引き継ごうとする県も多い。約3割の団体で被爆者以外が運営に携わっているという。

    その中でも、山梨では全国唯一、当事者ではなく2世が会長を務める。

    「核廃絶が達成されるまで、会は活動を続けないといけない。そのための方法は、これしかなかった」

    山梨県原水爆被爆者の会(甲友会)事務局長で被爆者の中島辰和さん(81)は、BuzzFeed Newsの取材にそう答える。

    「この5〜6年ですね。次から次へと人が減っていく。去年だけでも5人ですよ」

    半世紀前に設立した甲友会は、これまで、体験講話や被爆者のさまざまな相談受付を続けてきた。2007年ごろには、120人の被爆者が加入していたが、その後少しづつ減り、いまでは34人だけになった。

    「我々は何ができるのか。地道にコツコツと自分たちの体験を語り続けて、世論を変えていくしかない。しかし何年間それをやれば核廃絶が果たせるのかは、わからない。私の寿命のうちは、難しいでしょうね」

    「それでも、やっていかなきゃいかん。絶え間なく伝承していかなきゃいかん。山梨という小さな県でも、そういう世論が消えないようにしないといけない」

    そのためには、会の存続が絶対に必要だと中島さんは考えていた。被爆者がいなくなったら、それで終わってしまうのではいけない、と。

    「バトンを誰に渡すのか。一番私たちの話を理解し伝えてくれるのは、2世や3世だと、昔から思っていたんですよ。だって生活をともにして、その考えや体験を体で覚えているからね」

    中島さんたちの思いを受け、2年前から会長を務めるのが焼広和欣さん(55)。広島生まれの被爆2世だ。

    父親は小学校4年生のときに、入市被爆した。自身は高校卒業後、大学進学や転勤で各地を転々とし、8年前から山梨に暮らしている。

    仕事の関係で中島さんと出会い、誘われるがままに理事になった。これまでの人生で、自分が被爆2世であることを強く意識したことはなかった。しかし、被爆者たちと交流するにつれ、だんだんと気持ちが変わっていったという。

    父親に、体験を聞いてみた。子ども時代に「怖い」と感じたきり訪れていなかった広島平和記念資料館にも、足を踏み入れた。小学校時代の恩師に「これからは、お前らが頑張ってくれ」と手渡され、棚に置いたままになっていた原爆に関する本も、読み直した。

    それでも。会長を打診されたとき、最初は断った。被爆の経験をしていない自分が、活動に加わってたった2年の自分が、連綿と続いてきた会の長としての責任を全うできるのか。不安があったからだ。

    そんな焼広さんの背中を押したのが、被爆者の人たちの「思い」だった。

    「いつ活動できなくなるかわからない。でも、そうはしたくない。そんな切羽詰ったみなさんの思いに押されたんです。2世である私が、引き受けなきゃいけないんだと。2世だからこそ、引き受けることができるんだと」

    少しでも体験を広めよう、会のことを知ってもらおうと、模索が始まった。

    今年4月にはホームページを開設。10年ごとに出していた会誌「きのこ雲」に載っていた体験談を、2世が中心になって電子化し、掲載した。講話の申し込みがしやすいよう、専用のフォームもつくった。

    たとえば、中島さんの被爆体験はこんな風に掲載されている。

    60年前の1945年(昭和20年)8月6日は雲一つない快晴の日本晴れだった。午前8時15分、広島に原爆が投下され、私たち家族6人(両親、10歳の私、妹、2人の弟)は爆心地より2.5キロメートルの市内皆実町の自宅で被爆した。

    ピカッと光る強い光線を北側のガラス戸越しに見て、無意識に家の南側に逃げた。追っかけるようにグォーという音とともに物凄い爆風に曝され、私は、南座敷の片隅にひれ伏し必死に両手を目と耳に当てて難を逃れようとした。

    爆風が通り過ぎふと頭を上げると南北のガラス戸は全くなく、修羅場と化した家の中で瓦礫の中に座り込んでいる血だるまの父の姿を発見した。父は全身に92か所のガラス傷を受けていた。

    「1世には思いつかない方法ですよ」と中島さんは言う。

    ただ、焼広さんの悩みは終わらない。被爆者の多くは、認知症や体調不良などで講話に応じられる状況ではないからだ。話ができる人は、もはや中島さんたち数人しかいないという。

    代わりに、自分たちが話すことができるのか。自身が被爆をしているわけではない。「リアリティをどう伝えるか」という課題に直面している。

    それでも、諦めるわけにはいかない。8月中旬からは、存命の人たちへの新たなインタビューを始める。動画も撮影し、中身は冊子にするとともに、ホームページで公開する予定という。

    それを担うのは被爆3世。中島さんの孫娘だ。

    「いつか、2世3世が我々に変わって、体験を伝えてくれるようになってほしい」

    中島さんはそう願う。だからこそ。焼広さんも、前を向く。

    「2世であることは、逃げられない宿命のようなもの。でも、それはネガティブではないんです。2世3世だからこそ、伝えられることもあるはず。我々の言葉で話せるようになることが、必要なんです」

    悲劇を繰り返さないために、核兵器の実態を伝え、廃絶を訴え続ける。平和のためのバトンは、受け継がれた。