取材中に市の男性幹部から性暴力を受けたとして、女性記者が長崎市を相手取り損害賠償と謝罪広告の掲載を求める裁判を、長崎地裁に起こした。
女性記者が提訴にあたって発表したコメントの全文を紹介する。
おぞましい事件から約12年が経ちます。あまりに唐突で、自分に何が起きたのか認識はできたものの、言葉にすれば自分が壊れてしまいそうでした。なぜ私なのか。私はただ必要な取材をしていただけなのに。今も分からないままです。取材相手を信頼した自分が間違っていたのか。自分を責めました。
長崎にとどまり何とか勤務を続けましたが、最後は逃げるように長崎を離れざるを得ませんでした。情けなくて悔しかった思いは今も鮮明です。
その後に待ち受けていたのは、誰の発言か分からない事実と異なる中傷でした。インターネット上にも掲載、拡散され、今もネット上に残っています。今も見ると胸が張り裂ける思いです。人と接する怖さが抜けず、記者失格だと思うこともあります。
私は休職を経て復帰しましたが、以前のように一線から退かざるを得ない状況になりま した。3・11東日本大震災当時は思うように仕事ができない自分にもどかしさを感じまし た。
日本弁護士連合会から人権侵害を認定する勧告が出たことで、私はこれまで2回、長崎市にこの問題の解決を求めてきました。
私は赴任中、平和都市ナガサキ、人権と核兵器廃絶をうたうナガサキを取材してきました。 しかし、その平和式典に関する取材中に、しかも平和式典を担当する幹部に性暴力を受けたのです。日弁連の勧告を受けても、日本新聞労働組合連合による今回の抗議と要請を受けてもなお変わらない長崎市の姿勢に失望し、絶望し、今もなお苦しめられています。
性暴力を受けた女性記者は私以外にもいると聞いています。身に起きたできごとに圧倒されて、どれほど多くの女性記者が無念の思いで仕事をあきらめたり、その後の人生を変えられたと思うと、やるせなさでいっぱいです。
私の身に起きた性暴力は私自身が知っています。記者として不正を知りつつ報道現場から去ることはできないとの思いが、支えの一つになり、私は今も報道機関にとどまり続けています。
主治医や弁護士、支援者たちが、これまで私を支えてくれました。日本で性暴力被害者の支援がもっと身近に受けられるようになることを願っています。
ただ、私の身に起きたことは、私の家族の全員には打ち明けていません。すべて話せる日 はもう来ないかもしれないという不安もつきまとっています。
唯一、母にはすべてを打ち明け、私の回復を辛抱強く待ってもらいました。今回の決断も尊重してくれました。ずっと心配をかけてごめんなさい、そしてありがとう。
女性記者が裁判を起こしたことは、弁護団と新聞労連が4月25日に発表した。
取材先は当時の原爆被爆対策部長だったが、その後問題が表面化し、市による事情聴取が始まった段階で自殺したという。
その後、部長の友人である市幹部が事実と異なる噂を流したといい、「市による二次被害を受けた」ともしている。
一連の経緯と裁判の詳細は、こちらから。