彼女は、2歳で言葉と自由を奪われた。水俣病の「生き証人」がいま、伝えようとしていること

    写真家、ユージン・スミスを描いた映画『MINAMATA』(ジョニー・デップ主演)が公開され、改めて注目が集まっている水俣病。公式確認のきっかけとなり、「原点」「生き証人」とも言われた田中実子さんの家族は、いま、何を思っているのか。

    日本の4大公害病である「水俣病」を、2歳で発症したひとりの少女がいる。

    その公式確認のきっかけになり、「原点」「生き証人」とも言われた彼女がいまも生をつないでいることを、どれだけの人が知っているだろうか。

    水俣病を世界に伝えた写真家、ユージン・スミスを描いた映画『MINAMATA』が9月23日に公開となり、改めてこの問題に注目が集まるなか、家族は何を感じているのか。その思いを聞いた。

    撮影 塩田武史

    自宅の窓から海の方向を眺める当時19歳の田中実子さん(1972年)

    田中実子さんが水俣病で言葉を失ってから、今年で65年になる。

    生活には、常に介助が必要だ。時たま膝立ちになることがあるが、歩くことはできない。食事もひとりでは、食べられない。

    日なたぼっこをしたり、ごろごろしたりしながら、1日のほぼ全てを自室で過ごす。睡眠や食事のリズムはまちまちで、精神安定剤や睡眠導入剤が欠かせない。

    「親が亡くなってから、笑顔は一切消えました。ほんと気分がいいときに、ちょっとニコッとするくらいです。昔みたいに、声あげて笑うちゅうことはないですね」

    義兄の下田良雄さん(73)は、BuzzFeed Newsの取材にそう語る。実子さんの姉・綾子さんと結婚し、両親が亡くなってから30年近く、夫婦で実子さんの介護をしてきた。

    撮影 斎藤靖史

    「水俣病はね、人の人生を奪ってしまう病気なんですよ。患者にとっては、地獄に突き落とされるのと同じくらいですけんね」

    「実子だって、言葉も自由も、青春時代もなにもかも奪われてしまって……。本当だったら、私らも含めて、楽しく生活できたのになって思いますよね」

    命を絶とうと考えるほど、生活が苦しいこともあった。数年前に行政の支援で24時間介護を受けるようになってからは、「穏やかに暮らせています」という。

    熊本地震をきっかけに、長年住み慣れた海ぎわの家から、近所の高台にある団地に居を移した。妻は身体を壊して施設に入っているので、いまは実子さんとのふたり暮らしだ。

    「私が先に逝ってしまったら、この子がひとりになってしまうでしょ。将来はどういうふうになるんだろうなって」

    「施設に入ったら、ご飯もあんまり食べんごとなるやろなあって……。そうなったら、この子もあんまり長く生きられんのでは。だからね、実子を看取ってから、私も逝ければいいなって思いますね」

    最後の言葉は「くつがはけない」

    撮影 斎藤靖史

    2歳11ヶ月で水俣病を発症した実子さんの最後の言葉は、「くつがはけない」だったという。母親・アサヲさんの手記には、「イッテコンナ」(*原文ママ、いってきたら)であったとも記されている。

    1953年5月3日、水俣市で船大工をしていた義光さんとアサヲさんのあいだに生まれた。6人きょうだいの末っ子だった。

    貧しいながらも、海の幸だけには恵まれた暮らしだった。食卓にはいつも魚介類が並んでいたし、子どもたちは家の前にある浜に出て、貝をおやつがわりに食べていた。それらが水銀に汚染をされているとは、知るはずもなかった。

    ちょうどその頃、近所では「おそろしい妙な病気」が流行っているとの噂が流れていた。アサヲさんは当時のことを「うちの子供は元気だから幸せと主人というてました」と記している。

    しかし、5歳だった実子さんの姉、静子さんが食事中に茶碗を落とすという異変をきっかけに、一家のささやかな生活に暗雲が垂れ込めることになる。

    昨日まで元気でとびまわっていた静子さんは足元がふらつくようになり、症状はみるみる悪化。言葉をしゃべることができず、泣きわめくようになったのだ。

    病院では「小児まひ」と言われたが、すぐあとになって実子さんにも、同じような症状が出た。

    姉妹がそろって入院することになったのは、地元を支える大企業「チッソ」の工場に付属する病院だった。

    「伝染性の奇病」と呼ばれて

    Kota Hatachi / BuzzFeed

    西日本新聞、1956年5月8日(現在の観点からは不適切な言葉遣いが含まれています)

    1956年5月1日。病院長の細川一医師によって、実子さんと静子さん姉妹が「原因不明の脳症状」として保健所に報告された。

    いまではこの日が、水俣病の「公式確認の日」として記録されている。とはいえ、その原因がチッソの工場排水に含まれたメチル水銀であると確定するのは、何年も後のことだ。

    地域では数年前から猫や豚が狂い死んでおり、同じような症状で亡くなった人が複数いたことから、伝染病であると恐れられることになった。実際、数日後の西日本新聞には、このような記事が載った。

    「死者や発狂者出る 水俣に伝染性の奇病」

    水俣市月ノ浦部落に三年前から小児麻痺症状に似た伝染性の奇病が発生、すでに数名の死亡者や発狂者を出していることがわかり…

    両親は病院通いで働くことができず、生活の困窮はさらに深まった。一家への世間の風当たりも強くなり、お金を指先でつままれたり、道を避けて通られたり、学校でいじめられたりしたこともあったという。

    水俣病は、メチル水銀が脳などを侵す病である。根本的な治療法はなく、2人の症状は悪化するばかりだった。

    寝たきりとなった姉の静子さんは3年後、8歳で亡くなった。

    止まらなかった工場排水

    Photo by W. Eugene Smith © Aileen Mioko Smith

    ユージン・スミスが撮影したチッソ水俣工場の排水口とヘドロ。絶版となっていた写真集「MINAMATA」は、今回の映画公開に合わせ、クレヴィスから復刻されることになった。

    早いうちから水俣病の原因は工場排水ではないか、という指摘があがるようになった。患者やその家族、そして漁業被害を受けた漁民たちはチッソと闘い、全国的にも注目された。

    一方のチッソは、工場の付属病院における実験で、廃液を餌にかけた猫の水俣病発症が確認されてもこれを公表せず、排水を止めることもしなかった。

    代わりにしたのが、「浄化装置」を取り付け、社長自らが排水を飲むというアピールだった。さらに漁業補償のほか、患者とは当時としても低額の見舞金契約(死者30万円、成年は年10万円、未成年は年3万円)を結び、問題を終わらせようとした。

    しかし、この浄化装置では水銀を取り除くことはできず、その後も被害は広がった。母親の胎内で水銀の影響を受け、重い障害をもって生まれた胎児性患者も確認された。

    水俣病が「チッソの工場廃水に含まれたメチル水銀が原因の公害」であると公式に認められたのは、工場の生産が止まったあとのことだった。1968年9月、以下のような政府統一見解が出されたのだ。

    「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによっておこった中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾内の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食することによって生じたものと認められる」(1968年9月26日、厚生省発表)

    この間、水俣湾に流された水銀の総量は70〜150トンにのぼるとされ、海中では「水銀ヘドロ」の厚さが4mを超えるところもあったという。

    静子、実子のかたきを

    撮影 塩田武史

    ユージン・スミスのカメラに笑顔を見せる当時18歳の実子さん(1971年)

    政府の公式見解が出されるまで、実子さんと静子さんの発症から実に12年。

    国の動きがここまで遅れたのは、チッソの工場で生産されるアセトアルデヒドがプラスチックの原料であり、日本の高度経済成長の要となっていたからである、という見方もある。

    この長い月日を、当事者たちはどう生きていたのか。患者やその家族がチッソを相手取った初めての裁判「水俣病1次訴訟」で、母・アサヲさんはこのような手記を提出している。

    「公害はおそろしいものです。またと日本に第三の水俣病が出ませんよう防止し、ゼッタイに静子、実子のかたきをうっていただきたいのです」

    「私は四人の子供に、親が生きていながら悲しい苦しいつらい目に会わせたのが一生案じられてなりません。私もくる日もくる日も、実子の面倒をみて泣いて来ました」

    「今までの16年間の苦労は、富士山はどの高さか知りませんが、山より高うございます」

    この裁判では、1973年に熊本地裁がチッソの責任を認め、患者側が勝訴。補償協定につながった。国は患者の認定基準を設けたが、その厳しさなど不備も多く指摘され、民事裁判はその後も続いた。

    一方、刑事裁判では1988年、チッソ元社長や元工場長の有罪(業務上過失致死傷)が最高裁で確定。

    また、排水の規制を怠った国と熊本県の責任は、2004年に民事裁判の最高裁判決で認められた。

    「日本は水銀を克服」首相発言への反発

    撮影 塩田武史

    成人式に両親と記念写真を撮った実子さん(左)。手鏡を覗き込む様子もあった(1973年)

    「水銀による被害とその克服を経た我々だからこそ、世界から水銀の被害をなくすため、先頭に立って力を尽くす責任が日本にはある」

    2013年、熊本市で開かれた「水俣条約」の国際会議に、安倍晋三首相(当時)が寄せたメッセージは、患者やその家族らから大きな反発を招いた。

    いまも苦しんでいる当事者だけではなく、症状を訴えながら認定されていない人たちが多くいるからだ。7万人あまりが救済措置の対象となったが、裁判も続いており、被害の全体像はわかっていない。

    水銀の問題も未解決のままだ。ヘドロは汚染された魚介類とともに湾内に埋め立てられ、「エコパーク水俣」という名前の公園になった。しかし、護岸の耐用年数や、災害時の液状化などをめぐる課題もたびたび指摘されている。

    実子さんの義兄、下田さんも「克服したっちゅうのは、違います」と語気を強める。

    自身も幼いころに水俣湾の魚を食べ、原因不明の頭痛や耳鳴りに悩まされてきた。不服審査を経てようやく水俣病と認定されたのは、国際会議と同じ2013年のことだ。

    「まだね、被害を受けて苦しんでいる患者がおるんですよ。患者がみんないなくなるまで、水俣病は終わらないんですよ。克服されるっちゅうものでもない」

    もし、叶うのならば…

    撮影 斎藤靖史

    水俣病が「過去のもの」とされようとしている――。

    下田さんはそう感じているからこそ、今回、ハリウッド映画として再び注目を集めたことは、好意的に受け止めているという。

    「いまの子どもたちって、全然知らないじゃないですか。教科書だけ見ても、あんまり関心はないかもしれない」

    「映画をいいきっかけに、水俣病はまだ終わっていないということ、そして公害のおそろしさを、よく知ってもらいたいですね。2度と同じようなことを起こさないためにも、忘れないようにしてもらいたい」

    患者の診察を続けた水俣病研究の第一人者、故・原田正純医師に「原点」「生き証人」とも言われた実子さんは、この5月で68歳になった。

    いまも、魚介類が大好きだそうだ。夕食には刺身を欠かさず食べる。1人であさりを1パック平らげてしまうこともある。

    「海のそばに生まれ育ったからでしょうね。それで病気になってしまったと考えると、複雑なところもありますね」と、下田さんはいう。

    「よくここまでがんばって生きてきたなあって。本人はどういう気持ちで生きてるんかなあ。もし喋れたら、最初の一言はなんて言うんやろかね。もし叶うなら、発する言葉を聞きたいですね」


    取材協力 斎藤靖史(フリージャーナリスト)、塩田弘美

    参考文献

    • 水銀(みずがね)第二集 田中アサヲさんと水俣病(松本勉編著、碧楽出版、2003年)
    • 水俣 ’68−’72 深き淵より 塩田武史写真報告(塩田武史、西日本新聞社、1976年)
    • 水俣病を知っていますか(高峰武、岩波ブックレット、2016年)
    • 水俣病 -その歴史と教訓- (水俣病資料館、2015年)
    • 水俣病の発生・症候(熊本県
    • MINAMATA(W.ユージン・スミス, アイリーン・美緒子・スミス、クレヴィス、2021年)
    • 朝日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞


    Contact Kota Hatachi at kota.hatachi@buzzfeed.com.

    Got a confidential tip? Submit it here