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「ここは人間の捨て場だった」病を理由に隔離された詩人たち。彼らが社会に投げかけた言葉とは

かつては「らい」と呼ばれたハンセン病。法律に基づき、社会からの隔離政策が進められていきた。差別を受け、故郷に帰ることを許されず、ときに中絶や断種までもを強いられた人たちが、希望を託したものとは。

かつて、病により社会から隔離されながら、生きるための「詩」に希望を託した人たちがいたーー。


ハンセン病。国が患者を強制的に隔離し、人工妊娠中絶や断種手術を強いてきた病気だ。

「療養所」と名付けられた施設で無理矢理に社会とのつながりを奪われ、そしてさまざまな苦難を強いられながら、言葉に紡いだ詩人たちがいた。

この2月、国立ハンセン病資料館は当時の詩集を復刊させ、展覧会を開催している。

「同じことは繰り返しちゃいけない」。かつて詩人だった入所者に、話を聞いた。

「自分の気持ちを誰かに伝えたいと、詩に思いをぶつけてきたんだ。それくらい必要なものだった。生きている証だったね」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、北高(きた・たかし)さん(90)。若かったころ、療養所内の詩話会に参加していた男性だ。

かつて「らい」と呼ばれたハンセン病。日本では問題が多かった当時の法律「らい予防法」(旧法・癩予防法)に基づき、隔離政策が進められてきた。

国内各地には患者を隔離する国立の施設がつくられ、人々は家族のもとを引き離され、強制的に収容された。警察や行政が旗振り役となり、地域の人たちも、それに加担したとされる。

人々は入所時に名前を奪われ、ときに、生まれるはずだった子どもも奪われた。1949年から、「らい予防法」が廃止された96年までハンセン病を理由に不妊手術をされた男女は1551人。中絶手術の数は、7696件に及ぶ。

1949年ごろにハンセン病を発症した北さんは、59年に岡山県の「長島愛生園」に入所した。

20代にして、いままで暮らした社会から切り離された北さん。もう2度とこれまでの暮らしに戻れないことに、絶望すらも感じていたという。

愛生園の詩話会の雑誌『裸形』には、そのような感情をぶつけたいくつかの詩を「北浜志郎」のペンネームで投稿している。

馬鹿野郎……馬鹿野郎……

誰が おれをライ者にしたのだ

誰だ……馬鹿野郎……(てのひらの石、1969年)

「詩の中」にあった自分、そして

北さんが詩作をはじめたのは入所して数年後のこと。友人の誘いで詩話会に入ったのがきっかけだった。

「考える時間はあったけれど、それを何かに表現してみようと思った」と、当時の心境を振り返る。

メンバー同士で詩を読み合い、ときに外部の「先生」たちから講評を受けることもあった。はじめは自らの気持ちを言葉にするのが「恥ずかしかった」が、次第に熱中するようになった。

「ああだこうだ言い合いながら、切磋琢磨しながらつくっていくうちにね。詩の作品のなかに自分があるように思えるようになったんだ」

帰りたくても帰ることのできないふるさとや、家族への思い、療養所での暮らしで見かけた身近なできごと。

病に侵される自らの身体を「音の出ないギター」と例えたこともある。十数年ぶりの外出で見た、「鮮やかなネオンの輝き」をそのまま表現したこともある。

そしてなにより多くうたわれたのは、「社会」への思いだった。

社会の片隅に追いやり

今もなお 手足を奪い去ろうとする悪魔

ダルマのライ者に その苦悩と不安

誰もが知らないであろう

幼児以外に知ろうとしない怒り

病魔 隔離 偏見 惰性(ダルマ、1967年)

ライになって家族に捨てられ

社会からは見はなされた

もう一人の自分を

この冷たい玉手箱の中に

しまい込んでしまわなければならない

こんな自分が悲しい(玉手箱、1973年)

「私は捨てられた」だからこそ…

社会への羨望、そして怒り、悲しみをぶつけている作品は、当時の北さんの複雑な胸中を現している。

「私は病気になってから、親も、世間の人からも、相手にされなくなった。気持ち悪いだ、なんだと言われてね。捨てられて、療養所に入ったんだ。ここは、人間の捨て場だったのよ」

「なんでおれはライになったんだ、なんでこんなことをされなきゃいけないんだ。そんな言葉を社会に投げたかった」

おまえのすむ社会は どこにあるのか

療養所でもこわれた人形は捨てられる(鏡面、1967年)

そうした感情を詩にぶつける一方で、次第に「生きる」ことの意味を詩に見出すようにもなっていた、と北さんはいう。

「でも、その一方で、私自身は私自身であるから、自分が受けたものを携えて、生きていかなければいけなかった」

「鉛筆はね、削られて、削られて、使えなくなったら捨てられてしまうでしょう。私はそういうふうになりたくなかったんだ。自分の人生を全うする最期まで、生きていきたいと思っていた」

「どんなに短い鉛筆でも、修理をすれば、また使えるようになる。病に身を犯されて、傷ができ、顔の形が変わって、手足が使えなくなる私だって、生きていくことはできるんだから」

おれは生きている

それは一つの残り火かもしれない

残り火かもしれないが灰の中に

再燃を忘れた火に

おれはなりたくないのだ(残り火、1969年)

生きながら埋められるおれに

安らぎの心はいらない

病みくずれた

らい病を生きる

そこに刻がある(刻、1971年)

「いまの社会だって、そうでしょう」

いま、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)では、こうした詩人たちの作品と思いを伝える展覧会「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」を開催している。

全国8の療養所から73人が参加し、詩人の大江満雄(1906〜91年)がまとめた合同詩集『いのちの芽』(三一書房、1953年)も復刊し、こうした文化を醸成した人たちの足跡と、その作品をたどることもできる。

企画を担当した学芸員の木村哲也さんは、「20〜30代の若い書き手が集い、隔離の現実や病気と身体、家族や望郷、性などさまざまなテーマの詩を描いていました」と語る。

「彼ら、彼女らは作品に『人間であることの訴え』と、そして『希望』を込めていました。展覧会を訪れた人には、ぜひ自分にとって大事な言葉を見つけて、何かを持ち帰ってもらいたい」

合同詩集『いのちの芽』の出版よりも少しあとの時期に入所した北さんは直接、展覧会で紹介されているような活動に携わっているわけではない。

東京の多磨全生園に転園してからは、陶芸での作品活動に主軸を移しており、詩作からは離れていた。それでも、こうした展覧会が開かれることへの思いはひとしおだ。

「語れる人も少なくなってきたからね。ハンセン病の患者が身を削られながらも生きてきた姿から、生きるってことの大切さ、尊さを、知ってもらいたいね」

差別や隔離の被害を受け、そして生きてきた北さん。失明し、介助なしでは取材に応じることも難しい。それでも声を振り絞って、「同じことは繰り返しちゃいけないから」と何度も言った。

「必要ない人は捨てていくというのは、いまの社会だってそうでしょう。ハンセン病を差別する人だってまだいる。自殺する人もいる。戦争もある。世の中はそんなもんかもしれないし、だんだん難しくもなってきた」

「でもね、どういう世の中になったとしても、弱者の人、そうじゃない人とかなしに、お互い励ましあって、できることはやれるはず。展覧会を見にきた人には、そこで知ったことを、少しでも自分の生き様にうつしてもらえればと思うよ」


ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」は東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で5月7日まで。希望者には復刊した合同詩集も配布される(先着順)。木村さんによるギャラリートークも複数回開催される。