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この日本で、国に自由も家族も奪われた人たちがいる。絵筆に託された私たちへのメッセージ

かつて「らい病」と呼ばれ、国策として療養所に隔離されたハンセン病の元患者たち。彼ら、彼女らが「生きる希望」を見出したのは、キャンバスの上でした。

ハンセン病。日本には、たった20年前の1996年まで存在した「らい予防法」に基づき、この病にかかった患者たちを、無理やりに社会から隔離した歴史がある。

多くは家族の元を引き離され、塀に囲まれた隔離施設に収容された。死ぬまでその中で暮らし続けないといけない運命を、国に決められた。子どもができたのに、病を理由に中絶させられる夫婦たちもいた。

怒り、悲しみ、そして仲間たちと見出した喜び。「塀の中」で抱えてきた様々な思いを、絵筆に向けた人たちがいる。国内最大の療養所「菊池恵楓園」(熊本県)にある絵画クラブ「金陽会」のメンバーたちだ。

BuzzFeed Newsはそれぞれの作品を紹介しながら、クラブの活動を振り返る。

※記事中のキャプションはいずれもヒューマンライツふくおかによるもの

一般社団法人金陽会

天草灘に沈む夕日、中原繁敏、1998年

熊本県天草出身の中原さんは、33歳のときに熊本市内の病院でハンセン病と診断されました。入所の宣告を受けて家に帰る途中、ぽんぽん船から見た景色を描いたそうです。「夕日がとにかくきれいでなぁ。この世の終わりと、死ぬことを何度も考えながら、涙で二重にも三重にも滲んで見えた夕日ですたい」と語られていました。しっとりと濡れたように見えるのはそのせいだったのかと気づかされた、中原さんの人生が変わった日が刻み込まれています。

日本は長年国策として、ハンセン病を患った人たちを全国各地の「療養所」に隔離してきた。後遺症で手足や顔が変形してしまうことに加え、「移る病気」という間違った認識が一般的だったからだ。

戦後、ハンセン病は薬によって治る病気となった。それでも患者たちは、療養所の外で暮らすことも故郷に帰ることも、許されなかった。親戚に影響が及ばないよう、偽名(園名)を名乗らされた。

「病が移るのを防ぐため」として子どもを作ることは許されず、堕胎や断種(パイプカット)を強いられた人たちも多い。たとえ病が治っていても、だ。

国の「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によると、1949年から96年までハンセン病を理由に不妊手術をされた男女は1551人。堕胎手術の数は、7696件に及ぶ。

隔離政策を定めていた「らい予防法」は96年に廃止された。しかし、荼毘に付された入所者の遺骨を誰も取りに来ない、といったことは後を絶たない。骨になっても帰ることができない。ハンセン病差別がいまも、社会に根付いていることを示す悲しい証拠だ。

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金陽会は、そんな療養所で暮らす人たちが始めたサークル活動の一環だ。会が発足したのは1953年。絵が好きだった入所者たちが集まり、毎週金曜日に細々とみんなで作品をつくり続けてきた。園内の文化祭などで発表していたという。

多い時には15人ほどの会員がいたが、ほとんどの人たちが亡くなったり、高齢化により筆を握ることができなくなったりしてしまった。いまも活動を続けているのは、1929年生まれの吉山安彦さんだけだ。

吉山さんは17歳から今まで70年近く園に身を置き、絵筆を執り続けてきた。

一般社団法人金陽会

陽だまり、吉山安彦、1991年

金陽会発足当時から絵を描き続けているのは吉山さんただひとりとなりました。この作品は恵楓園にあった小学校の跡地を描いたものです。奥に見えるのは園の北側と西側に建てられていた「隔離の壁」。「母鳥のあとをついて歩く子どもの姿が微笑ましいですね」と伝えたところ、「わしらは壁があって外に出られんけど、おまえたちは翼があって飛んでいけるのに、なんでこんなところにいるんだと思ったとですよ」という返事に返す言葉が見つかりませんでした。「若い頃はこんな壁、飛び越えれんことものかったですけどね…」と笑いながら話されていましたが、高さではない何かがそこには立ちはだかっていたのでしょう。

それぞれの絵には、描き手の強い思いが込められている。

自分の記憶の中しかない何十年も昔のふるさとを描く人、1度しか行ったことのない小学校の遠足を描く人、自分たちを閉じ込める療養所の高い塀を描く人、買いたくても買えなかった夢のマイホームを描く人……。

金陽会のメンバーたちは、絵を描くことに「生きる希望」を見出した。自らの夢や思い出、さらには抱え込みきれない気持ちを、筆にぶつけた。

一般社団法人金陽会

遠足、木下今朝義、1996年

金陽会の作品を大事に保管し続けてきた吉山さんが、”恵楓園の宝”と言ってはばからない作品。

6歳でハンセン病を発症した木下さんが学校に通っていたのは1年足らず。その中で楽しい思い出はほとんどなく、いじめられて泣いてばかりで、先生までも憎かったと後に語っています。満開の桜を観に列を作って菜の花畑を歩いた遠足は、仲間に入れてもらえなかった木下さんが、仲間と行動を共にした唯一の記憶であり、82歳のときにこの作品を描きました。泣いてばかりいたという木下少年に、光あふれる春の景色はどのように映ったでしょうか。「らい予防法」が廃止された年に描かれたこの作品は、いろんな意味で恵楓園の宝として存在し続けることでしょう。

大量に描かれた絵たちの多くは、吉山さんが保存をしていた。園内のあちらこちらに飾られたり、タンスの奥に眠っていたりしていたものもあった。

そんな作品群の価値を世の中に伝えようと立ち上がったのが、熊本市現代美術館で学芸員をしていた蔵座江美さんだ。これまでも数回、美術館でメンバーたちの絵の展覧会を開くなどした経験があった。

「作品たちはまさに、入所者の方たちが生きてきた証なんです」。BuzzFeed Newsの取材にそう語る蔵座さんは2015年、祖父が鹿児島県の療養所の入所者だった古長美知子さんとともに、作品の収集や聞き取り調査を始めた。

いま、園の入所者の平均年齢は80を超える。「もう時間がない」という強い思いが、その背中を押したという。

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一般社団法人金陽会

奄美の豚、大山清長、1996年

どこまでも続くかのように広がる丘を飄々とした表情で歩く一匹の豚。古くから養豚が盛んだった奄美大島では豚肉が食文化の中心を占めていました。黒豚が一般的だったので白い豚は珍しく、白い豚が島に入ってきた当初はこぞって白い豚を見に行っていたそうです。大山さんが奄美で暮らしていた時に白い豚がいたのかどうかは不明ですが、馴染みの動物だったことは間違いないでしょう。どこを目指して歩いているのか、ついつい想像してしまう物語性豊かな作品です。

吉山さんやボランティア、そして園関係者の協力を得ながら、絵の収集と整理に取り掛かった。これまでに見つかった作品は850点を超えた。

「こんなに出てくるとは思っていなかった。いままで存在が明らかになっていなかった”新作”も、たくさん発見されたんです」と語る蔵座さん。

近く、デジタルアーカイブの作業も始める予定だ。最終的には園内での常設展示のほか、ユネスコ世界記憶遺産への登録も目指している。

一般社団法人金陽会

納骨堂、森繁美、1994年

森さんの作品には、一時期ご自身の中で流行っていたのか、チューブから直接絵筆に絵の具を取り、そのままキャンパスに押し付け引き上げるような描き方をされている作品が何点か残されています。後遺症の残った指先では、絵の具のチューブを吸うことや筆を洗うことが難しいとおっしゃっていたので不自由さからの行為だったと思われますが、やりだしたら思いのほか楽しくて、とんとんとんとんと絵の具を置かれていたのではないかと推察されます。寮友が眠る納骨堂を中心に据えて描かれた作品。

蔵座さんは言う。

「ハンセン病に端を発する差別は、なんにも終わっていない。作品たちは、当事者や家族に、私たち社会が知らない間にやってきた差別みたいなものを、強く訴えるわけではなく、優しく指し示してくれると思っています」

「この絵を知っている身として、伝える義務があると感じています。たくさんの人たちに見ていただくために、いろいろな場所で紹介していきたい」

一般社団法人金陽会

生の輪廻、矢野悟、2000年

熊本城にスケッチをしに行って描かれた作品。「この病気になってなげやりになったり落ち込んで気持ちが弱くなったりしていました。こうした生活にうちひしがれていないで、この人生に勇気を持って立ち向かって、負けずに生きていこうと、そのときそのときの精一杯を込めて描いてきました。おそまつな出来だが、魂を打ち込んで描いているから愛着がある作品ばかりです」(2016年11月聴き取り)

絵を見た人たちにはよく、「私たちには、何ができるのでしょうか」と聞かれる。

そのたびに、蔵座さんはこう答えるという。

「そう思っていただくことが、最初の一歩なんです」

金陽会のメンバーたちが描いた絵を紹介する「いのちのあかし絵画展 願いから動きへ」は、京都市の東本願寺「しんらん交流館」で1月29日まで。

2017年には、奄美大島で生まれ、最期まで帰ることのできなかった人たちの絵を故郷で展示する「里帰り展」も企画しているという。



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