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安倍首相が解散理由にした「国難突破」。実は戦時中の政府も使っていた

「挙国一致で国難突破」「国難突破に皇民一致せよ」ーー

解散総選挙には、いつも個性的な名前がつけられる。9月25日の会見で解散の意向を表明した安倍晋三首相は、今回の解散を「国難突破解散」と呼んだ。

この「国難突破」というあまり耳に馴染みのない言葉。実は、戦前〜戦時中によく使われていた。

たとえば、1932年には「国難突破」というタイトルの国民歌(中川末一作詞、山田耕筰作曲)が発表されているし、1933年に東京・青山会館で「国難突破大会」が開かれている。

さらに1937年には多摩川で「挙国一致で国難突破」という名前の仕掛け花火が披露されている(8月12日、東京朝日新聞朝刊)。当時の国民には、ずいぶんと知られていた言葉だったのかもしれない。

国会図書館でデータベースを叩いてみると、新聞紙面上で「国難突破」がよく使われるようになったのは、日中戦争の勃発した1937年ごろからであることがわかる。

これは、「国家総動員法」(1938年)や、日独伊三国軍事同盟の成立(1940年)、さらには「大政翼賛会」の結成(同)などを経て戦時体制が強化され、太平洋戦争(1941年)へと突き進んでいった時期と重なる。

たとえば、日中戦争が勃発した2ヶ月ほどあと、1937年9月10日の読売新聞夕刊1面には、こんな大きな見出しが踊る。

「国難突破に皇民一致せよ / 正に挙国総動員の秋 / 事変の推移予断を許さず」

これは第72回帝国議会の開院式で、当時の近衛文麿首相が国民に呼びかけた内容をまとめた記事だ。

勃発したばかりの日中戦争(支那事変)について、日本は「東亜の安定を望み」「世界平和」を求めていたにも関わらず、中国が「永年排日抗日を以て国策とし帝国の権益を侵し」たとして、その正当性を訴えた近衛首相。

「時局の重大性」「予断を許さざる」ものであることを知らせると同時に、その対応を強化すべく「銃後の奉公」「国民精神の総動員」を呼びかけている。

また、翌1938年の2月17日には「国難突破 緊急国民集会」が日比谷公会堂で開かれている。主催をしていたのは国会議員たちで「非常時局を指摘し、国難突破の必要を力説」する宣言を採択している(東京朝日新聞朝刊)。

近衛首相は国民に大きなメッセージを訴える際、「国難突破」をよく使っていたようだ。40年9月29日朝刊の読売新聞にも、こんな見出しがある。

「国難突破、光明の一路開拓 / 首相、国民に発奮要請 / 三国同盟に関し烈々の放送」

これは、「日独伊三国軍事同盟」が結ばれた2日後の紙面だ。

近衛首相が同盟がいかに重要なのものかを一般国民に投げかける内容で、「放送全文」には、このような言葉がある。

「欧州においては第二次大戦の勃発を見、東亜においては準戦時的国際関係の緊張を示すに至つたものと思ふ」

「われわれは今や有史以来の一大国難に直面したといふべきである。われわれはこの際一大決心を以つてこの困難のなかに突入し断固としてこれを突破する覚悟がなければならないのである」

さらにこの3日後、朝日新聞朝刊に出ていた広告には、近衛首相の放送を受けたものがあった。明治製菓が献納したもので、「億兆一志国難突破 / 祝 日独伊三国同盟成立」と大きく記されている。

この「献納広告」とは、企業が自主的に戦時スローガンを広告として掲載するもので、戦時中によくみられたものだ。

翌1941年1月22日の読売新聞夕刊1面には、こんな記事が。やはり、近衛首相が語った言葉だ。

「未曾有の国難突破へ / "覚悟"の時機到来 / 首相の施政方針演説」

近衛首相が帝国議会の施政方針演説で語った内容をまとめており、記事のリードにはこうある。

未曾有の国難来をも覚悟せざるべからざる容易ならぬ事態のもとに、第七十六議会の再開は二十日午後十時先つ貴族院より幕を切つて落とされた。近衛首相は緊張した、いと厳粛なる態度を以て別項の一般施政方針の演説をなし」

近衛首相はこの演説で、「今や帝国は正に有史以来の非常時局に直面」していると危機を強調。

「内外の情勢に鑑み、内は国家総力発揮の国防国家体制を整備」するために軍事強化が必要と訴え、「外は大東亜新秩序建設を根幹と」しながら日中戦争(支那事変)の完遂をすべきである、と訴えた。

そのうえで、「未曾有の国難突破をも覚悟せねばならぬ時期の到来」が予想されるため、「全国民の一段の発奮努力を切望する」としている。

この年の暮れ、12月8日には太平洋戦争が開戦した。その前後では、「国難突破」が紙面上で多く見られるようになる。


  • 「疑ひ合つていては国難突破し得ず」(4月13日、朝日新聞朝刊)
  • 「国難突破の日 来月の奉公日」(11月29日、読売新聞夕刊)
  • 「この日この朝、国難突破へ 総進軍」(12月2日、読売新聞夕刊)
  • 「国難突破へ! 総出陣のときの声 / 準備は出来た"戦時国民常会"」(12月3日、読売新聞朝刊)
  • 「銃後は我等が肩に / 国難突破・母の誓い」(12月23日、朝日新聞朝刊)

そしてこれは、日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃翌朝(12月9日)、開戦を報じる紙面(読売新聞朝刊)だ。

「国難突破」そのものではないが、「国難来る、国難は来る」との見出しがある。

また、昭和天皇が「宣戦布告を御奉告」したという記事の中には「宣戦布告の御ことを御親告、あはせて国難突破に際し神明の御加護を御祈念」という文言も見られる。

しかしその後、日本が戦争に負ける1945年までの間には、「国難突破」の記事は数件あるのみだ。


  • 「宗門の特命使 / 国難突破を全国で遊説」(44年8月4日、読売新聞朝刊)
  • 「敵前議会に希む国民の声 / 施策はすぐ実践 / 国難突破の原動力たれ」(44年9月6日、読売新聞朝刊)
  • 「全国に張り渡った国難突破の気魄 / 焦燥気分も漸次払拭」(44年9月27日、朝日新聞朝刊)
  • 「新内閣と協力 / 国難突破へ」(45年4月6日、読売新聞朝刊)

1944年末には本土空襲が本格化し、沖縄戦や硫黄島の戦い、原爆投下を経て、未曾有の敗戦を経験することになる日本。

本当の苦難を国民が味わっているとき、「国難突破」という言葉はほとんど使われることがなかった。

それから72年が経ち、再び政治の舞台に現れた「国難突破」。なぜ、いま「国難」なのか。安倍首相は9月25日の会見でこう語っている。

少子高齢化、北朝鮮情勢、まさに国難とも呼べる事態に、強いリーダーシップを発揮する。自ら先頭に立って、国難に立ち向かっていく。これがトップである私の責任であり、総理としての私の使命であります。

苦しい選挙戦になろうとも、国民のみなさまとともに国難を乗り越えるためどうしても国民の声を聞かなければならない。そう判断しました。

この解散は「国難突破解散」であります。急速に進む少子高齢化を克服し、我が国の未来を開く。北朝鮮の脅威に対し、国民の命と平和な暮らしを取り戻す。この国難ともいう時を全身全霊をかけ、国民のみなさまとともに突破していく決意であります。

80年前の国難は、8年後に壊滅的な敗戦へとつながった。

今回の「国難」を、日本は乗り切ることができるのか。10月の選挙で、少なくとも今後数年間のこの国の舵取りが決まる。


BuzzFeed Newsでは【戦時中の「小学生新聞」を読んでみた】という記事も掲載しています。