戦時中、兵士たちに夢をみせた元アイドル。97歳「まっちゃん」に話を聞いた

かつて、新宿の劇場「ムーラン・ルージュ」で、多くのファンを虜にしたアイドルたちがいた。彼女たちは、いかに戦時を生き抜いたのか。そして、何を考えたのか。

この3月で97歳になった明日待子さんは、元アイドルだ。

かつて東京・新宿にあった劇場「ムーラン・ルージュ」で、多くのファンを虜にした彼女を人々はこう呼んだ。「まっちゃん」と。

日本が戦争に突き進んだ激動の時代、アイドルとして生きた一人の女性。お元気でいられると聞き、取材を申し込んだ。

会ったのは、浅草の喫茶店だった。

真っ白なスーツにショートのボブヘア。もうすぐ白寿を迎えるとは思えない、可憐なオーラをまとっている。

耳は少し遠く、補聴器が必要だ。それでも語り口はしっかりとしていて、言葉にも覇気がある。そしてなにより、笑顔がとても、かわいらしい。

「アイドルをしていた時は、本当、楽しかったですよ」

ガムシロップを少し混ぜたレモンスカッシュを、美味しそうに飲みながら。明日さんは、ぽつり、ぽつりと話を始めた。

明日さんは1920(大正9)年、いまの岩手県の釜石市出身だ。

鉄工所の役員のもとに生まれ、幼いころから日本舞踊などの芸事を学んでいた。将来は東京に出て、女優になりたいと思っていたそうだ。

時代はちょうど、映画がトーキーに変わったころ。知り合いのつてを辿って東京にいた姉とともに松竹の蒲田撮影所を訪れたが、まだ小さいからと断られた。

代わりに、と誘い話があったのが、新宿の劇団「ムーラン・ルージュ」への入団だった。のちに、アイドル「明日待子」を生むことになる場所だ。

「ムーラン・ルージュ」は当時、一世を風靡した劇場だった。

1931(昭和6)年に創設。きらびやかなアイドルたちが、舞台で踊りや劇、唄などを披露していた。地方巡業もしていたという。

客層は、主に学生だった。「新宿は学生の街でしたから」。そう語る明日さんによると、なかでも早慶や明治、立教大生が多かったそうだ。

「早慶戦がある日は、どっちを応援するんだなんて聞かれて、大変でしたね」

毎日夕暮れになると、チャイムの音とともに、劇場の割引時間が始まった。アイドルの虜になった学生、会社員、さらには女学生や軍人まで。多くの人たちが列をなす姿は、「東京新宿名物」のひとつだった。

指折りの脚本家たちが集まった舞台は、人気を博した。なかでも目玉だったのが「ムー哲」(ムーラン哲学)。大学総長の格好をしたアイドルたちが、「哲学」の授業をするという内容だ。

明日さんの自伝に、当時の脚本が残っている。

諸君、私はムー哲博士である。

ただいまより、ムーラン哲学講座を開講する。

諸君は今日、飯を食べてきたかな。

飯はまだだが、パンなら食べた。

次に、空気は十分に吸ってきたかね。

何、東京の空気は汚いので、たくさん吸うのはやめにした。

ばかな、今、世界において汚ければ汚いほど多量に吸うことが、

地球人の義務ということである。

明日さんは13歳のころ、ムーランの主催者の養女になった。親元を離れて東京へと移り、釜石にいたころにも増して、芸を学ぶことに力を入れた。

1933(昭和8)年にデビューすると、瞬く間に人気が出た。そのあどけのない見た目から、広告モデルとしても引っ張りだこになったという。

「初恋の味」のキャッチコピーで売り始めていたカルピスの専属になった。花王石鹸、キッコーマン醤油、ライオン歯磨き……。さまざまな商品のポスターも飾った。

人気アイドルは、多忙を極めた。朝は稽古、正午に開演、そのあとはポスター撮影。そして夜の稽古と、「超過密スケジュール」をこなしていたのだとか。

そうして気づけば、いつの間にか、たくさんのファンが付くようになった。ただ、ファンレターは一切、見せてもらうことはなかったという。

「事務所がね、『ファンレターにはろくなことが書いていない』と言って。行李いっぱいに届いていたものが、私の手元には届かなかったんです。事務所と家とで、みんな管理されてたの」

「みんな没収しちゃうんです。あとになって、2、3枚だけ見せてもらった。どこどこで待っていますよ、とか、そういうのが多かったですね」

さらに、ファンとの交流も厳しく制限されていたそうだ。

「ファンの人とは直接お話したいという気持ちはありましたね。それでも、なかなか会うことはないです。お話しをさせてもらえない。だけど毎日毎日、見える顔はわかりますからね」

「ある日ね、いままで学生服着ていた方が、背広を着ていらっしゃったの。そしてね、ご自分が就職したからって言って、中村屋のチョコレートの入った箱をくださったの。もちろん、事務所の人が立会いですけれど」

当時のことを思い出しながら話す明日さんは、まるで、昨日あったことを話すかのようだ。「うふふ」という笑い声を交えながら、楽しげに語る。

しかし、色とりどりだった時代は、徐々にモノクロへと変わっていく。

「戦前は華やいでいましたけれど、戦中は街そのものが暗くなりましたね。盧溝橋事件(1937年、日中戦争の引き金になった事件)のあたりから、灰色の世の中になってきました」

「始まった直後、ひどくなかった時代はわりあい、世の中全体がのんびりしていましたけれど。まあ私たちも若かったせいか、そういう世の中だからと割り切っていましたよ。お客様も毎日見えるのだから、お勤めしないと、と」

戦時色が強まるなかでも、ムーランの人気は衰えることはなかった。いや、そういう時代だからこそ、求められていた存在だった。

一方で、検閲も始まった。「自由な作風」で知られるムーランの脚本や演劇の内容は、当時の軍や政府からすれば邪魔者だったのだろう。

劇場の名前は「作文館」に変わった。客席には警察官が常駐するようになり、芝居を途中で止められることもあったという。

ただ、軍だってアイドルたちを邪険に扱うだけではなかった。国策の一つとして、彼女たちを利用したのだ。

陸軍も海軍も独自の「アイドル雑誌」を発行していた。戦地に送るためのもので、目的はもちろん、兵士の戦意発揚だ。明日さんも、そこでグラビアを飾ったことがある。

兵士たちは毎月戦地に届くその雑誌を心待ちにしていたという。鉄兜にブロマイドを挟んで戦ったり、戦地から「ファンレター」を送ったりしていたという話も残っている。

それもそうだろう。前線にいたのは、多くが20代。少し前まで、ムーランに足しげく通っていたような、普通の男の子だったのだから。

「まっちゃん万歳」と叫んだ兵士たち

1943(昭和18)年、戦争の雲行きが怪しくなり、学徒出陣が始まったころ。こんなことがあった。

ムーランにきた学生たちが突然、「まっちゃん万歳」と叫んだのだ。聞けば、客たちはみな、出征前夜だった。

「戦地へやられる、最後のムーランだっていう気持ちがあって、万歳三唱したんでしょう」

同じような出征前の兵士に、路上で刺されそうになったこともあった。

「劇場に通っている途中、飯田橋あたりで。軍事練習した帰りの学生さんが『明日さん』っていうから、はいと思ってみたら、銃剣を目の前に出されたんです」

近くにいた兵士の友人が慌てて止めに入り、ことなきを得たという。

しかし、いまでも「彼はとてもつらく、死んでしまいたい心境だったのでは」と、いたたまれない気持ちになるそうだ。

「彼はどうなってしまったんでしょうね。俺は明日にでも戦争に行くんだ、お前はなんで平和な世界にいるんだ、というように思っていたのかな。凄い時代でしょう。いまとはまた違う、緊迫したものがあったんです」

この頃、明日さんはほかのアイドルたちとともに、満州へ慰問旅行に行っている。これもまた、軍による施策の一つだ。

失礼だとは思いつつ、「利用されたと感じますか」と聞いてみた。

「いいえ」。明日さんはそうきっぱりと言い、続けた。

「お国のため、兵隊さんのため、滅私奉公でしたよ。日本が勝つんだと、それは喜んでいましたね」

「でもね。終わったあとも、利用されたと思ったことはないんです。目の前にいる方は、兵士さんとかじゃなくって、皆さんファンだから。喜んでくれるかしらって、一生懸命でした」

そして東京は、戦場になった

戦況は、どんどん悪化した。1944(昭和19)年の暮れ頃からは本土への空襲も始まり、もはや東京も安全な街ではなくなった。

「終わりに近づくと、毎日が飛行機。やっぱり東京は戦場でしたもんね」

それでも、ファンたちは劇場に足を運んだ。防空頭巾や鉄兜を持って。

舞台を見ながら空襲警報がなると逃げ出し、解除されればまた劇場に集まる……。そんな日常が、当たり前になっていたという。

「警報が解除になったらね、蟻が餌を見つけたようにみんな戻ってくるの。ああいう状況だったからこそ、やっぱり、ムーランはみなさんの心の慰めになっていたんですね」

「私たちも、客席の人たちも、明日には弾が当たって死ぬかもしれない。だから、本当に緊迫した舞台でしたね。見るほうもやるほうも命がけでした。良かった、というとおかしいかもしれないですけれど、真剣な舞台が踏めて、よかったと思っていますよ」

アイドルとは、何か

1945年5月の空襲で、劇場は焼け落ちた。明日さんは御殿場へ疎開し、そのまま終戦を迎えた。

ムーランはその後、再起を図る。明日さんも戦後、地方巡業などを続け、映画にも出演した。ファンの人たち、そして戦災で傷ついた人たちを「慰める」ために。一生懸命、働いた。

4年後、結婚を機に北海道に引っ越した明日さんは、アイドルを引退した。「明日待子は東京において、北海道に行ったんですよ」。

以来これまで、「五條殊淑」の名前で日本舞踊の活動を続けている。ちなみに、ともに生涯を歩み、2年前に先立った夫は、ムーランに通っていた早稲田生だったそうだ。

アイドルをしていたことを、いま振り返ってどう思ってるのか。

「舞台が好き、そこに立つことが大好きでしたからね。やっぱり自分は、踊っても、歌っても、なんでも好きだから。それでファンにも、観ている人たちにも喜んでもらえるんだから。自分も満足でした」

「やっぱりアイドルをしていて、良かったと思えます。思い残すことはありません。それを青春時代というんですかね。うふふ。なんでもできた。なんでも考えられる、良い時代でした」

最後に聞いてみた。「アイドル」って、なんですか?

「アイドルはね、いつまでも消えないものですよ」

明日さんの顔が華やいだ。写真を撮らせてもらおうと、カメラを向けた。ファインダーの中にはたしかに、あの頃の「まっちゃん」の笑顔が、写っていた。


BuzzFeed Newsでは、明日さんがグラビアを飾った幻のアイドル雑誌について「日本兵を癒した幻のアイドル雑誌 軍発注のグラビアが心の支えだった」にまとめています。


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