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ガマを掘り続ける男

沖縄、いまも散らばる戦死者の遺骨

国内最大の地上戦が起きた沖縄の地。ここには、戦場で亡くなった人たちが、遺骨として各地に散らばったままになっている。70年以上経った、いまでもだ。

彼ら、彼女らを、一人でも多く家族の元に帰したい。そんな思いで、30年間ガマを、壕を、そして森を掘り続けている男性がいる。

沖縄県糸満市。72年前、激戦地となった場所。

観光客も多く通る国道から、数百メートル入ったところ。その路端にひっそりと掘られた壕がある。旧日本兵の陣地だ。

9月上旬、BuzzFeed Newsは、1983年に設立した遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(63)に同行した。

じめりとした空気が漂う壕の中は真っ暗で、とても狭い。

自然光はほとんど届かない。入り口のほうに、ほんの少しの明かりが見えるだけだ。

人一人がやっと通れるような狭さのところを進むと、少しだけ開けた場所にたどり着く。そこが、遺骨収集の現場だ。

戦争で命を落とした人たちの多くは、このように自らが掘った壕や、天然洞窟「ガマ」に隠れているとき、もしくは山野を逃げているときに命を落とした。

天井や壁、そして床には、黒い焦げ目が残っている。

壕の入り口には砲弾が落ちていたことから、具志堅さんは「ここには砲兵がいたのではないか」とみる。

「米軍の火炎放射器がここにあった砲弾や火薬に引火して、爆発が起きたんじゃないか。ほら、土も黒く焦げている」

具志堅さんはここですでに、バラバラになっていた数体の遺骨を収集している。

両刃ガマのザク、ザクという音が響く。

数分掘り進めるだけで、土の中からはいろいろな物が出てくる。ガラス、陶器の破片、石、軍靴の底……。

土に埋もれた遺骨は、泥だらけになり、石と見分けがつかないことも多い。長年の経験が物を言うという。

人の親指部分の遺骨が見つかった。

「たぶん手の親指だと思う。この人は、ずいぶん大きい人だったのかもしれないね」

右下に写るのが、遺骨。そして緑色の欠片は、箸箱か石鹸箱。黒いシートのようなものは、砲弾を発射するために使う、日本軍の無煙火薬だ。

信じられないかもしれないが、無煙火薬には70年以上経ったいまも、まだ火がつく。

セルロイド製のケースが出てきた。

具志堅さんがゆっくりとした手つきで、泥を払う。色は、赤。

「軍用手帳入れだね。名前はもうわからないかな……」

もし、記名された持ち物が見つかれば。それは、ここで亡くなった「誰か」の家族を見つけるための、有力な証拠になる。

具志堅さんは、親指の遺骨に向かって手を合わせ、こう語りかけた。

「すみません、また来ますからね」

遺骨収集は、「死者と向き合う作業」だという。

「ただの石のように見えて、人の骨ですから。こうしてね、必ず挨拶をするんですよ」

「この人たちは何を望んでいるのだろう、といつも考えるんです。みんな家族のもとに帰りたいはずだ、と。こんな暗いところに、いたくはないはずだと」

1時間ほどの作業を終え、壕を去る。陽の光が眩しい。その背中は、汗でぐっしょりと濡れていた。

こうした作業の中心を担ってきたのは、地域の住民やボランティア、そして遺族たちだ。

70年あまりの間、コツコツと続けられてきた遺骨収集。

戦没者遺骨収集情報センターの集計では、対象となっている18万8136人分のうち、いまだ見つかっていない遺骨は2875人分にのぼるという。

遺族の高齢化が進む中、具志堅さんら遺骨収集に奔走してきた人たちは、国による遺骨収集の推進を求めてきた。

大きな転換点となったのは、2016年3月。戦後72年目にして「戦没者遺骨収集推進法」が成立した。超党派による議員立法で、遺骨収集における国の責任を初めて明文化した画期的な法律だ。

条文にはこうある。

この法律は、今次の大戦から長期間が経過し、戦没者の遺族をはじめ今次の大戦を体験した国民の高齢化が進展している現状において、いまだ多くの戦没者の遺骨の収集が行われていないことに鑑み、戦没者の遺骨収集の推進に関し国の責務を明らかにする

この法律では、2016年度から10年間を「戦没者の遺骨収集の推進に関する施策を集中的に実施する期間」と定めている。

しかしその制定後、国主体の収集作業が十分に進んでいるとは言えない、と具志堅さんは言う。期間が限られているからこそ、焦りも募る。

普段は会社員をしている具志堅さん。これまで30年あまり、仕事の合間を縫って、淡々と収集を続けてきた。

「もう引退しようかと思っていたけれど、法律ができてもなかなか進まない。だから、こうして毎週日曜日、いまも足を運んでいるんですよ」

「行政からは『どこに遺骨があるんですか?』という言い方をされることもある。認識はその程度のものなんでしょう。行政に伝えるために、遺骨の場所を地図に落とす作業も始めようと思っている」

ただ、法制定を受け、身元特定がしやすいケースに限定されていた遺骨の「DNA鑑定」の範囲が広がったことはひとつの前進だ。

これまで遺骨のDNAは、戦没者の遺品など名前が確認できるものがないと鑑定されてこなかった。

沖縄戦の犠牲者の半数は、着の身着のままで逃げてきた民間人だ。名前が確認できるものは見つかりづらい。実際、2003年に始まったDNA鑑定によって身元がわかったのは、たった4人の軍人だけだ。

法制定を受け、厚労省は遺品などがなくても鑑定を広げるよう方針を転換。さらに4月には、鑑定対象を初めて民間人まで広げることになった。

鑑定を待つ遺骨は、糸満市にある「平和祈念公園」の一角、作業小屋の隣部屋に「仮安置」されている。

具志堅さんの推定では、その数は約1300人分という。

仮安置所の目の前にある「国立戦没者墓苑」の中に安置するためには、火葬が必要になる。そうするとDNAが取得しづらくなってしまうため、ここに収めざるを得ない。

逆に言えば、すでに火葬され、安置されている人たちの遺骨の鑑定は、科学の進歩を待たなくてはいけないのだ。

「国は、火葬してしまった理由を『旧軍の伝統に鑑みている』と説明するけれど、そもそも遺族の了解を得ずにやっていたこと。まかりならんことだよ」

仮安置所がいっぱいになり、国から委託を受けている県によって火葬が再開されそうになったこともあった。具志堅さんたちが抗議をすることで、なんとかその動きは止められた。

DNA鑑定を進めるには、遺族の人たちの検体が不可欠だ。

遺族たちを募り、7月には厚生労働省に身元特定の集団申請をした。集まったのは135人。募集は、これからも続ける。厚労省にはDNAのデータベース化や、鑑定の募集を大きく広報するようにも求めている。

「帰るべきところは、この墓苑じゃない。少なくなったご遺族がまだいる間に、どうにか帰したいんですよ」

具志堅さんは、こうも言葉に力を込める。

「集めた遺骨で、形をつくるんですよ。そうすると、なんだか人格が戻ったように見えてくる。遺族にとっては、一人の人間が生きて帰ってきたのと同じように感じられるんです」

沖縄に限らない。硫黄島や南洋諸島、そしてミャンマー、タイ、シベリアなど、第二次世界大戦で命を落とし、いまだ収集されていない遺骨は約113万人分にのぼる。

「兵士を呼び出したものの責任として、帰すのは当たり前のことですよね。本当なら国がやらんといかんこと。誰もやる人がいないなら、俺がやるよ」

だから、具志堅さんはガマを掘り続ける。


BuzzFeed Newsは沖縄戦に関する【「生きて生きて、生き抜いて」沖縄戦を生き延びた少年を救った、ある言葉とは】という記事も掲載しています。