エルネスト・チェ・ゲバラ。キューバ革命を成功させた彼は、世界で一番有名な革命家でありながら、ひとりの父親でもあった。
ゲリラ戦の山中で出会い、結婚した妻・アレイダとの間に4人の子どもをもうけたゲバラは1967年10月、ラテンアメリカ革命を目指すゲリラ戦のさなか、ボリビアで殺害された。39歳だった。
今年で、没後50年。残された子どもたちは、この半世紀をどう生きたのか。

「父さんは、自分自身で人生を選択し、決断したひとりの男でした」
そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、ゲバラの長男カミーロさん(55)だ。
いまはキューバ・ハバナの「チェ・ゲバラ研究所」でその人生の調査などにあたっている。8月9日から東京で開かれる写真展「写真家チェ・ゲバラが見た世界」のために初来日中だ。
父親であるゲバラについて語るとき、カミーロさんは、愛称である「チェ」と、「パパ」(父さん)という単語を使い分ける。
「はっきり申し上げると、父さんの明確な記憶はないんです。覚えていたとしても、それは夢だったかもしれないし、誰かに聞いた話かもしれない。聞かれた時は、いつもそう答えるようにしています」
5歳で父を失ったカミーロさんと、そのきょうだいたちは、母親の手で育てられた。彼女はよく子どもたちを集めて、ゲバラの話をしたという。
「母親にとって、父さんは司令官であり、生涯の友であり、尊敬する男性でした。人間としてピュアで、清潔で、感受性が豊かで、言ったことはすべてを実行する。戦線でも常に先頭に立っていたと、母親はよく話してくれました」
子どもたちが抱えた寂しさ

ゲバラの友人たちも、子どもたちの世話を見てくれていた。
なかでも、ともに革命を戦い、半世紀にわたってキューバを率いたフィデル・カストロとは「しょっちゅう会っていた」そうだ。
カミーロさんは、カストロを親しげに「フィデル」と呼ぶ。
「常に残されたチェの家族のことを気にかけてくれた。子どもたちが何をしていたのか、良いことも悪いことも含めてすべて把握していましたよ」
それでも、父親不在の子ども時代はやはり「寂しかった」と振り返る。
悩みを抱えている時期はよく、夢の中にゲバラがでてきて、「他愛もない相談ごと」をしていた。日常生活でも、「常にやるべきことをやってきた父さんなら、どう行動するか、と考えてみることが多かった」。
「特にその不在を感じていたのは、父親を必要とする思春期のころ。同じ境遇に置かれている子どもたちなら誰しもそうなる、自然なことでしょう」
ゲバラは、自分の考えや言葉を書籍や日記に残していた。カミーロさんもそういった資料から、自然と父親の影響を受けていったという。
「遺された手記などの資料だけではなく、学校の教科書にもたくさん父さんの話が出ていた。好む、好まないに限らず、触れざるを得なかったのです」
ゲバラがキューバを離れてコンゴ革命に遠征する際、カストロや子どもたちに送った「別れの手紙」も教科書に載っていた。
「私たちに宛てられた手紙を、みんなと一緒に教室で読むのは、なんだか照れくさかった」
世界はまだ、平等じゃない

ゲバラとともにキューバ革命を戦い、その後夭折した同志、カミーロ・シエンフェゴスの名を受けた。
父親が遺した言葉でいちばん好きなフレーズは、「真の革命家は偉大なる愛によって導かれる」だ。
カミーロさん自身、父親のように、いまの世界をよりよくしたいという願いを持っている。
「いまの世界は、まだまだ平等じゃない。多くのリーダーたちが自分の利益しか考えていないなか、それを変えることは非常に難しい」
「ある日みんながハグをしあったら、世界が変わるというのなら。とても素晴らしいことだけれど、多分、そうはならないでしょう」
だからこそ、ゲバラの人生を記録に残し、その考えを多くに広めることで、少しでも「平等な世界」に近づけていきたいと思っている。
今回開かれる写真展も、そうした活動の一環だ。日本で初めて展示されるのは、ゲバラが自ら撮影した240点。
なかには、1959年に来日した際に「ゲリラ訪問」した、広島・原爆ドームの写真もある。

あまり知られていないが、ゲバラは「司令官になる前、僕は写真家だった」と語るほど、写真を愛でていた。
10月9日公開される日本・キューバ合作映画「エルネスト」では、愛用していたニコンのカメラを原爆ドームに向けるゲバラも描かれている。
カミーロさんは言う。
「チェは、写真を通して世界の問題点を提起しようとした。彼の視点からみた世の中が、どんなものだったのかを知ってもらえれば」
父を恨んだことはあるのか
革命に奔走し、そして若くして亡くなってしまった父親を恨んだことはないですか。失礼とは思いつつ、そんな質問を投げかけてみた。
カミーロさんは笑いながら、首を横に振る。
「たとえば、あなたのお父さんが電気工をしていたとしましょう。普段は朝起きて、家を出て夜には帰ってくるお父さんが、ある日、たまたま電柱に登っていて感電死をしてしまうかもしれない」
「それでも、誰も電柱に登ることを止めようとはしないでしょう。なぜなら、その人は自分のすべき仕事をしているのだから」

父親・ゲバラの死も、「電気工の感電死」と同じだという。
「私の父も、自分のすべき仕事をしていました。この世界をより良くしようと、常に戦っていた。それも、自分の子どもを含む、すべての子どもたちのこれからのために。とても、大切な仕事ですよね」
ひとつの時代に足跡を遺した父親の「挑戦的な生き方」を尊敬している。
「父は一種のヒーローとしてキューバ国民に好かれている。そういうことを聞くのはとても嬉しいですし、ラテンアメリカなど第三世界で人道主義、平等主義を掲げた革命家として称えられていることも、誇りに思っています」
そんな稀代の革命家の息子として生きるとは、どういうことなのか。そう問うと、カミーロさんは、また笑った。
「ただ、生きるだけですよ」
そのさっぱりとした笑顔には、やはり、あの革命家の面影があった。