「涙が出そうになった」オバマ大統領の広島訪問。人々から溢れ出る思い

    歴史的な瞬間を迎えて

    原爆投下から71年。5月27日、初めてアメリカの現職大統領が広島にやってきた。

    オバマ大統領が訪れた平和記念公園の周囲に集った人々、そして、この日を待ち望んだ被爆者の多くは、直接、オバマ大統領を見ていない。それでも、広島は人々の熱気に満ちていた。

    「ようこそ」「ありがとう」

    交通規制が敷かれた平和記念公園周辺の沿道。スマートフォンでテレビ中継を見る人、子どもを肩車する人、胸に手を当てる人。それぞれが、オバマ大統領の姿を一目だけでも見ようと、集まっていた。

    「ようこそ」「ありがとう」。大統領を乗せた車列が通りすぎた瞬間、歓声があがった。

    「これで核がなくなればいい」

    沿道にいた男性(87)は、オバマ大統領が通り過ぎた瞬間、涙ぐみながら「これで、戦後が終わった」と呟いた。数回瞬いて、ほほえむ。「謝らんでもええ。過去の敵は、未来の味方。これで核がなくなればいい」

    仕事を休んできている人もいた。こちらも沿道にいた女性(50)は「歴史的な瞬間だから、同じ空間にいて、自分の目にとどめておきたかった」。

    BuzzFeed Newsは、この日を迎えた広島の人たちに話を聞いた。

    「涙が出そうになった」

    広島女学院高校3年生の並川桃夏さん(17)は、慰霊碑に手向ける花束をオバマ大統領に手渡した。

    「花束を渡す時に目が合った。優しい顔でほほえんでくれた。被爆者と話している姿を見て、涙が出そうになった」

    並川さんと同じ、高校生団体「ユース非核特使」のメンバーで、修道高等学校3年生の田中光太さん(17)は「もっと多くの人が核兵器の廃絶について関心を持ってほしい」と語った。

    「今日も供養塔へ」

    原爆で亡くなった7万人の遺骨をまつる供養塔。広島市安佐北区の武田京子さん(49)は、27日の午前、平和記念公園の片隅にあるその場所で、ひとり手を合わせていた。

    祖父は原爆投下直後に広島入りし、白血病で苦しんだ末、自ら命を絶っていた。そのことを武田さんは、10年前まで知らされていなかった。

    「原爆は亡くなった人だけではなく、遺された家族をも傷つける」

    「被爆者の気持ちはね、8月6日。いつも8月6日ですよ」

    瀬戸高行さん(90)は、広島駅で被爆して、吹き飛ばされた。当時19歳。71年経った今でも「8月6日」と向き合い続けている。

    「言いたいことがある。まずは、この非人道的な核兵器を使ったことを謝れ、被爆者に。直接会って、その苦しみを耳でしっかり捉えるべきじゃ」

    「被爆者の気持ちはね、8月6日。いつも8月6日ですよ。あの悲惨な状況いうのは、地獄の様子と同じなんです」

    「そこで手を合わせて花を添えることは、その人が謝罪したということ」

    被爆者の間でも受け止めは様々だ。

    2歳の時に爆心地から1.4キロの地点で被爆した田中聰司さん(72)は「オバマさんが慰霊碑の前に立つこと自体が謝ることになる」と話す。

    慰霊碑に「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。慰霊碑に主語はない。「だから、そこで手を合わせて花を添えることは、その人が謝罪し、過ちを繰り返さないと宣言したということになるんです」

    「憎しみを乗り越えて私たちが和解に至るため」

    オバマ大統領に広島訪問を呼びかける手紙を送り続けていた、元平和記念資料館長の高橋昭博さん。2011年、80歳で亡くなった。

    高橋さんは2010年5月、生前に送った最後の手紙に「米国の行為を非難するためではなく、被爆の実相を知っていただくことにより、過去の憎しみを乗り越えて私たちが和解に至るため」と、その願いを伝えていた。

    妻の史絵さんはこう語る。

    「夫の思いが伝わってほしい。こんなひどい兵器を使うことが2度とあってはならないと、わかってもらいたい」

    オバマ大統領が去った、夕暮れの広島。祈りを捧げる人々

    式典を終え、広島を去るオバマ大統領。専用車が通りすぎると、一段、高いところに登って見物していた若い男女が、手を振りながら叫んだ。

    「サンキュー、オバマ!」

    周りも「ありがとう!」と続く。歓声が止むと、自然と拍手が沸き起こった。

    10分ほどして、交通規制が解除された。沿道に集った人々は、平和記念公園の中へ、歩き始めた。オバマ大統領が献花したばかりの慰霊碑から、資料館に向かって列ができている。

    西日に照らされた原爆ドームに向かって、人々は祈りを捧げていた。